第56話
金曜日の夜、21時にいつもより遅れて店に到着。
「お待たせ」と背後から氷見さんに声を掛ける。
「おそ〜い」
事前に連絡していたのだが、氷見さんは一人で出来上がっている表情で恨めしそうに俺を見てきた。
だが、氷見さんは俺の格好を見てすぐに首を傾げる。
「……転職した?」
氷見さんが不思議に思うのは当然。普段はスーツで来ているところを今日はスポーツ用のTシャツに半パンと、かなりラフな格好をしているからだ。
「仮に転職したとして一体何の仕事なの……」
「パーソナルトレーナー? あ、けどやだな。砺波さんが女とマンツーマンでトレーニングしてるって思ったら吐き気してきた。おえっ……」
氷見さんはわざとらしく吐きそうなポーズをとる。
「それ……ただの飲み過ぎじゃない?」
「……違うし。嫉妬だし」
「な、何?」
うまく聞き取れなかったので聞き返す。
「なんでもな〜い! そういうとこ〜!」
氷見さんは待たされていたからなのか少し機嫌が悪そうだ。いつもより酔っているのもあるんだろう。
苦笑いをしながらいつものように氷見さんの左側に立つ。
「前にナイトプールに行った人達がいるでしょ? あの人達に長縄大会に誘われちゃってさ」
「砺波さん、長縄ガチ勢なの?」
氷見さんはかなり酔っているようで、不思議な推論をしている。俺は笑いながら「違うよ」と答える。
「この辺にオフィスがある会社で対抗戦をするイベントなんだ。取引先の不動産会社が主催で、隣の部署の人がで出ろって上司から言われたらしくて。で、人数合わせに朝日さんに声がかかった結果俺も巻き込まれたと」
「すべての単語が私がサラリーマンに向いてないと思わされるね」
氷見さんは苦笑いをしながらそう言う。
「ま、午前中で終わるから」
「本番はいつなの?」
「明日」
「わ……飲んでる場合じゃないね」
氷見さんはそう言いながら黒部が持ってきてくれたビールを俺にパスしてくる。
俺は「そうなんだよ」と言いながらニヤリと笑って氷見さんと乾杯をする。
「ま、他の人も練習の打ち上げとか言って飲みに言ってたし……多分明日は誰か口を押さえながら飛んでるかもね。勝つことが目的じゃないし。出ればいいんだよ、出れば」
「へぇ……場所は? この辺り?」
「見に来るの?」
「そっ、そんなわけ無いじゃん! ただの雑談だよ!?」
「そっか……なら良かったぁ」
「ふぅん……そんなに私に来て欲しくないんだ?」
何故か氷見さんは唇を尖らせて不機嫌そうにする。
「いやまぁ、見られたいかそうじゃないかで言えば後者かな……今日の練習中に指摘されたんだけど、俺の飛び方が変らしくて」
「どう変なの?」
「こう……飛ぶときに手をグーにして脇を締めてるんだってさ」
俺は両手をグーにして胸に持っていき脇を閉める。まるでぶりっ子のようなそのポーズを見た氷見さんはさっきの不機嫌な表情から笑顔に変わった。
「ふふっ、なにそれ。女の子みたいだね」
「だから見られたくないんだよぉ……」
氷見さんはニヤけながら流し目で俺を見てくる。
「じゃ、行けたら行くね」
「それは来ない人が言うセリフだね」
氷見さんは「どうかな?」とだけ言ってグラスに口をつけた。
◆
翌日、会社対抗の長縄大会は3位に入賞。表彰式を終えた後、片付けをしているとぴっちりと身体のラインが出るトレーニングウェアを着た朝日さんが近づいてきた。
「砺波先輩、打ち上げ行きません? ま、昼から飲みに行くだけですけど」
「皆で昨日飲んだんじゃないの……?」
「2人で、ですよ」
朝日さんはウィンクをしながらそう言う。
縄を飛んだ時の衝撃から来る若干の腰の痛みに少し悩みながらスマートフォンを開くと、氷見さんからメッセージが来ていた。
開くとただ画像が送られてきていただけだったが、それは明らかにさっきまで参加していた長縄大会を観客席から撮ったと思しきもので、俺が両手を胸の前に持ってきて可愛らしいポーズで飛んでいる姿だった。
「あー……ごめん、また今度!」
「氷見ちゃんですか? 仕方ないですねぇ」
朝日さんはニヤッと笑うと立ち去っていく。俺は慌てて荷物を片付けて観客席の方へと向かう。
既に人はまばらで、参加者の人があちこちで固まって話をしている程度だった。
広場の中央に立って辺りを見渡しても氷見さんの姿はない。
『もう帰っちゃった?』
俺がメッセージを送っても氷見さんからの返事はない。
見に来てくれたなら声くらい掛けてくれても良かったのに、なんて思いながら一人で家に帰るために駅に向かう。
通り道にあるチェーン店のカフェの店内がガラス越しに視界に入る。そこに、歩道に面した1人用の席に氷見さんが座ってスマートフォンをいじっているのが見えた。
透明なグラスには並々とカフェラテらしき飲み物が注がれている。上部は氷が溶けて色が薄くなっているため、飲み物を受け取ってからはそれなりに時間が経っているようだ。
その場で立ち止まり、ガラス越しに氷見さんの前に立つ。氷見さんはスマートフォンに夢中で一切俺に気づく素振りを見せない。
『正面』
俺がメッセージを送ると氷見さんが顔を上げる。
氷見さんは驚くでもなく、俺の方を見てニヤリと笑った。
「気づいてたな……」
俺はそう呟くもガラス越しに言葉は届かない。氷見さんは笑いながら首を傾げ、自分の左隣にある空席を指差した。
入ってこい、ということなんだろう。
頷いてから店の入口に回り込む。
レジで適当にアイスコーヒーを頼み、それを受け取って氷見さんの方へ行くと氷見さんの視線は俺のアイスコーヒーに注がれた。
「アイスコーヒー」
俺が品名を宣言すると氷見さんはふふっと笑う。
「ふふっ……しっ……知ってるよ。一緒にすぐ出ようと思ってたんだけど……ふっ……砺波さんがそれ飲んでからにしようか」
氷見さんはお腹を押さえて笑いを堪えながらそう言った。
よく見ると、氷見さんのコップは空。外からみたときは並々とカフェラテが注がれていたので、俺と合流して店から出るために一気飲みしたらしい。
「あ……ごめんね」
「砺波さんのそういうとこ、いいよねぇ。ちゃんとお金落としてる」
氷見さんの隣に座り、ちびちびとアイスコーヒーを飲みながら二人でぼーっと外を眺める。
「けどさぁ、今日本当に氷見さんが来るとは思わなかったな」
「言ったじゃん。『行けたら行く』って」
「それって来ない人が言うやつでしょ!?」
「行けたら行くは、行けたら行くんだよ」
冗談めかしてそう言いながら氷見さんは空になったグラスに残っている氷をむしゃむしゃと食べ始めた。
「なんか禅問答みたいだ……けど、折角見に来てくれてたなら話しかけてよ」
「砺波さんの飛び方がツボって笑い過ぎでお腹痛くなっちゃって……」
「そんなに!?」
氷見さんは思い出し笑いをするように俺から顔を逸らして体を震わせる。
「予選だけ見たけど、結果はどうだったの?」
「3位入賞」
「わ、すご。景品は?」
「オフィスビルにある飲食店のお食事券だよ」
「そこはかとないマッチポンプ感……」
「ま、平日に使えるからいいんだけどね」
「ふぅん……私さ、お昼ご飯まだなんだよね」
「まさか……お食事券?」
「お食事券はどっちでも。砺波さんのおすすめのお店があるなら行ってみたいな。ある?」
氷見さんはニッと笑って尋ねてくる。
「うーん……まぁ無いことはないんだけど……この格好だしなぁ……」
長縄大会のために半袖半パンと動きやすい服装をしている。ランチ時間とはいえ、この格好で入れるのは牛丼屋かラーメン屋、立ち食いそばくらいだろう。
「じゃ、一回家に帰ってから行こうよ。私の家の最寄り駅前集合でどう?」
「了解。行けたら行くよ」
「じゃ、来るってことだね」
氷見さんはニヤリと笑って俺からアイスコーヒーを奪い取り一気飲みをする。そのまま待ちきれないとばかりに2人分のコップを片付けて俺を店の外へと誘導してきたのだった。
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