第55話
金曜日の夜、いつものように氷見さんと並んで立ち飲みをしていると、急に隣で氷見さんが焼酎のグァバジュース割を吹き出した。
そのままよろめいて俺の肩にもたれかかってくる。
「ど、どうしたの!?」
「うぅ〜……くぅ〜……」
氷見さんは俺の質問に答える余裕はないようで、肩のあたりに顔を埋め、歯の隙間からシーハーと呼吸を繰り返している。
やがて、呼吸のスピードが落ち着いてきたところで氷見さんは俺から離れてカウンターによりかかるようにして一人で立った。
「な……なんだったの?」
「足攣っちゃった」
氷見さんは恥ずかしそうにそう言う。
「なるほど。そりゃ痛いよねぇ……椅子もらう?」
「ううん。もう慣れ――また来たっ!」
氷見さんは慌てて俺の腕を掴んで下を向き痛みに耐える。
「うぅ〜……いだい……」
そう言いながら氷見さんは俺の左手を掴んで自分の頭へ持っていて頭をさすらせてくる。
「頭をさすっても良くならないでしょ……」
「良くなるよ」
氷見さんは顔を離し、よろめきながらまた一人で立つ。
壁際に並べられていたカウンター用の背の高い椅子を持ってきて渡すと、氷見さんは「やさお、ありがと」と言いながら椅子に腰掛けた。
「運動でもしたの?」
「ううん。昨日徹夜で作業してたんだよね。座りっぱなしで疲れが溜まってて攣りやすくなってるのかも」
「大変だねぇ……」
「ま、それも金曜日のためだし」
氷見さんはニッと笑ってグラスを口にする。
「ね、砺波さん。初めて足を攣った時のことって覚えてる?」
「えぇ……いつだろ? 小学生とかかなぁ。もう覚えてないや」
「そっか。私は中学生の時。寝起きにぐーっと伸びをしたらそのまま……ね。部屋で叫んじゃってお母さんが飛び込んできたんだ」
氷見さんのお母さんが「なんばしたとね!?」と慌てて部屋に飛び込んでくる様子が簡単に思い浮かんでつい笑ってしまう。
「笑い事じゃないよ。すっごい痛かったんだから。初めて経験してさぁ……『こむら返り』なんて可愛い名前じゃないよね、あれ。『ふくらはぎ針千本地獄』って改名すべきだよ」
「確かに。シンプルに『足削り』って感じだよね」
氷見さんは自分から振ってきたにも関わらず「何それ」と言いながら笑う。
「ま、足に限らず初めての衝撃って凄いよね。砺波さんは何かないの? 初めてで驚いたこととかさ」
「うーん……なんだろ……あんまないかも」
「逆にまだ未経験でビクビクしてることとかは?」
「あー……痛風と尿管結石かな。すっごい痛いらしいし」
「あー……」
氷見さんは俺のビールジョッキをじっと見つめる。俺はビールジョッキと氷見さんを交互に見る。
確かに痛風を怖がりながら毎週のようにビールを飲んでいるのだからどの口で、という話ではある。
「……次はハイボールにしようかな」
「砺波さんが痛風になったらふーって息を吹きかけてあげるよ」
「風が吹くだけでも痛いっていうのに!? 悪魔!?」
氷見さんはニヤリと笑って俺からビールジョッキを奪い、半分ほど残ってた黄色い液体を一気に飲み干した。
「私もね、あるんだ」
「未経験のこと?」
「うん。最近結構気になってて。あのー……あれ。アレだよ、アレ」
だいぶ酔っているのか氷見さんは言葉が出てこないらしく、トントンと手のひらで自分の額を叩いている。
「あの……あれだよ。せから始まるアレ。身体のさ」
セから始まる身体の……セッ!?
「そ、そうなんだ……」
いきなりぶっこまれたのでどう反応したものかと迷いながら言葉を返す。
「いったこと無くてさ。やっぱり痛いのかなぁ……けどそれを越えたら気持ち良くなったりするのかな、とか考えちゃってさ」
「ど……どうだろうねぇ……あは、あははは……」
「砺波さんは? お店に行ったりする?」
風俗ってこと!?
「行かないよ!?」
行ってたとしてもそんなこと言えるわけなくない!?
俺が食い気味に否定すると氷見さんはポカンとして「そんなに熱を込めなくても」と引き気味に言う。
「やっぱり男の人の方が良いのかな? 力も強いし、体重をかけてやってくれそうだし」
「あぁ……」
知らない知らない知らない知らない。氷見さんが何かヤバいことに興味を持ち始めてしまっている。
「砺波さんはどっち派なの? 男の人と女の人」
「お、男はさすがに……」
「ふぅん。そうなんだ」
「ひ、氷見さんだって同性はさすがに違うって思ったりしないの?」
「うーん……私はどっちでも。とりあえず一回いってみたいなって」
「そうなの!?」
「そんなに驚かなくても……」
どことなく氷見さんと温度差を感じてしまう。そんなに性癖の受け幅が広かったの!? この人!?
「氷見さんっていきなりプロから行きたいタイプだったんだ……」
「素人にやってもらっても気持ち良くなさそうだしなぁ。あ、じゃあさ、砺波さんがちょっとやってみてよ」
「えっ……ど、どこで!?」
「ここで。ほら」
氷見さんはそう言うと椅子から降りて俺に背中を向けて立つ。
「こ、こんなところじゃ出来ないよ!?」
「そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃん」
こちらを振り向きながら氷見さんが唇を尖らせてそう言う。
「氷見さんはもっと恥じらおうよ!?」
「そんな肩を揉むくらいでさぁ……」
「いやいや!? 揉む!? 肩を――ん? カタヲ? ……カタ?」
ん? 肩?
「うん、肩。ま、まぁ……砺波さんがしたいなら腕とか腰とかでも……いっ、いいけど?」
氷見さんが急に照れ始める。なんで今になって?
セから始まる身体のアレ。男女のプロがいて店でやってもらう、痛くて気持ちいい行為。しかもそれは氷見さんが照れずに言えるような行為だ。
「……整体?」
「あ! それそれ!」
氷見さんは支えが取れたように振り向いて笑顔を見せる。
「あっ、あー……整体ねぇ……」
「そうだよ。他に何か――あ、砺波さん。もしかして……」
氷見さんは俺の勘違いの内容について勘づいたようにニヤける。
「へぇ……砺波さん、私が
「そっ、そんなことないけどなぁ……」
俺が顔を逸らすと氷見さんはぐるっと回り込んで俺の顔を覗き込んでくる。
「へー……ふーん……そっかぁ……私が他の人に
「せ、整体なら良いんじゃない?」
声を上擦らせながらそう言うと「なら、ね」と氷見さんは俺の言葉尻を捕らえる。その直後、氷見さんは頬を赤く染めながらニッコリと笑った。
「ま、それはそれで嬉しいかな。砺波さん、そんなに私が
氷見さんは微笑みながら俺の頬をツンと一度突くと上機嫌な様子で椅子に座り直し、グラスを口につけるのだった。
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