第52話
金曜日の夜、いつものように氷見さんと並んで飲みながら談笑をしていると、会話の切れ目で氷見さんが「今日ね」と新たな会話を放り込んできた。
「今日ね、大学で就活セミナーがあったんだ」
「就職するの?」
氷見さんは笑いながら首を横に振る。
「ううん。私はこのままフリーで活動するから、就職っていうか、そもそも就活もしないかな」
「けどセミナーは出ないといけないんだ……」
「必須だからね。ま、けど面白い話も聞けたよ」
「そうなの?」
「砺波さん、知ってる? 『オヤカク』」
「オヤカク……?」
「うん、オヤカク」
「何それ?」
氷見さんは何か新しい遊びを思いついたようにニヤリと笑う。
「当ててみてよ」
「うーん……何かの略語だよね?」
氷見さんは笑顔で頷く。
「オヤとカクで分かれるのかな……オヤは保護者の親って事?」
「相変わらずそういうのは察しが良いね」
「じゃあどういうのが察しが良くないの……」
氷見さんは笑いながらグラスを持ち「さあねぇ」と言う。
「後はカクか……カクカク……」
俺が必死に考えていると、氷見さんは楽しそうに微笑みながら口元に手を当てて「砺波さん、ボケて」と無茶ぶりをしてくる。
「カク……テル? 親カクテル!? 内定のお祝いに親がカクテルを作る文化が出来つつある!?」
氷見さんからの無茶ぶりに答えて必死にボケをひねり出す。
「ふふっ……それ好きかも……ふふっ……」
氷見さんのツボをつけたようで何より。
「そりゃ良かった。で、カクって何なの?」
「確認だよ」
「就職について親に確認しましょうってこと?」
世の中に「俺、ニートになるんだ」なんて宣言をする人はいないだろうに、何の確認が必要なんだろう。
「そ。小さい会社や、大企業でも商売が一般消費者向けじゃないせいで知名度がない会社だと親が反対して内定後に揉める人がいるんだってさ。だからちゃんと親とも話し合っておけって話があったんだよね。何なら会社から親向けに説明会をしたりもするんだって」
「すごい時代だ……」
「ほんとさ、就活って結婚みたいだよね。会社を探して、インターンで表面を知って、自分を売り込んで、面接を受けて、お互いにいいねってなってきたら親にも確認するんだから」
「付き合って結婚を意識しだしたら親に挨拶に行くもんだし、確かに似てるのか……まぁ就職でそこまでするかって話だけど……」
「けど……親側の気持ちも分からなくもないよね。私が親に『この人が彼氏です』って紹介するとして、砺波さんならまだしも、すっごいチャラチャラしたブラック企業みたいな人だったら親も心配しちゃうだろうしさ」
「俺はオーケーなんだ……」
「砺波さんはホワイト企業だから」
氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。
「プライム銘柄?」
「それに値はするけど上場はしてほしくないかも」
「なんで……」
「砺波さんがみんなに売買されちゃうから。私だけが保有しておきたいんだよね」
「そ、そうなんだ……」
「ま、一応砺波さんもオヤカクしとこうかな」
「それはもう結婚前の挨拶だよね!?」
「内定前のオヤカクだよ」
氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。
「法人でやるならオヤカクだけど個人でやったらそれはもう結婚前の挨拶だから……」
「砺波さん、私のこともオヤカクしておいてよ」
「俺が!? 氷見さんは個人事業主なのに!?」
氷見さんは笑いながら頷き「後でインボイスの番号教えるね」と言う。
「いや別にいらないから……」
「砺波さんが親に私をオヤカクする時はなんて言うの?」
「えぇと……氷見さんは個人事業主でしょ? だから『この人とお仕事しても良い?』になるのかなぁ……」
「ふふっ。そっちなんだ」
「だって付き合ってないよね!?」
氷見さんは笑いながら「確かに」と言う。
少し間が空いて真顔になった氷見さんは体ごと俺の方を向く。
「ま、砺波さんなら大丈夫だと思うよ。私にハッチューしても」
氷見さんはやたらと「チュー」の部分で唇を突き出して強調してくる。
「発注ね」
横を見ながら氷見さんに合わせて俺も口をすぼめてそう言う。
「ハッ、チューだよ」
「発注だよね?」
「ハッツ、チューだよ」
「じゃ、発注だ」
これを初チューと聞き間違えるわけがない。
一度会話が途切れると、カウンターに肘をついて顔を乗せた氷見さんが「ね、砺波さん」と俺の名前を読んできた。
「何?」
「ゆっくり『熱中症』って言ってみてよ」
「ねっ……ちゆう……しよう……」
「いいよ」
「何が!? ……ってこれ『ねえちゅーしよう』に聞こえるやつじゃん」
「ふふっ……今気づいたんだ……さすが……」
氷見さんは嬉しそうに笑いながら姿勢を正して俺のすぐ近くに寄ってくる。
「で、するの? しないの?」
「しないよ」
「ハッチューも?」
「発注も」
「ねっちゅーしよー?」
「熱中症だね」
氷見さんはなぜか不満げに唇を尖らせると「水分補給は十分だね」と言いながら俺にビールジョッキを握らせてきたのだった。
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