第49話
金曜日の夜、隣でビールを飲みながらスマートフォンをいじっていた氷見さんが「おっ」と声を上げる。
「どうしたの?」
「今日さ、スーパームーンなんだって」
「月が大きく見えるやつ?」
「そ。何がスーパーなんだろうね。気にならない?」
「まぁ……確かに」
氷見さんは俺が同意するとニッと笑う。
「見に行こうか。スーパームーン」
「今から?」
「うん。今から」
氷見さんは微笑みながら右手で店の出口を指差し、左手でグラスを持ち残っていた焼酎のグァバジュース割を一気に飲み干した。
◆
やってきたのは海沿いにある公園。開けた場所なので高層ビルに視界を邪魔されずに月を見上げることができる場所だ。
ベンチに座ると氷見さんは公園に来る途中にコンビニで買った缶チューハイを袋から取り出す。俺も同じことをして、同時にプルタブを引く。
「砺波さん、乾杯」
「うん。乾杯」
二人でぼーっと空を見上げながら無言でチューハイを飲む。
「……ね、砺波さん」
氷見さんは空を見上げながら俺の名前を呼ぶ。
「何?」
「月、別に普段とそんな変わらないね」
「ま、そりゃ月は月だから」
身も蓋もないことだが実際そうなのだ。周囲のカップルは「きれー!」とはしゃいでいるが、俺と氷見さんだけは冷めた目で缶チューハイを片手にぼーっと空を見ている。
「……三次会行く?」
早くもやることがなくなってしまったのでそんな提案をするが、氷見さんは首を横に振った。
「ううん。もう少し見てたいな」
「了解」
また二人で空を見上げる。
じっと月を眺めていると、ほんの少しだけ愛着が湧いてきて「いつもの月じゃん」と言うのはかなり失礼だったと思い始める。
「月、案外綺麗だね」
俺がそう言うと氷見さんも同じ気持ちだったのか素直に頷く。
「そうだね。死んでもいいや」
「そんなに!?」
「あ……砺波さんの月が綺麗はガチで月が綺麗なのか……」
「月が綺麗に月が綺麗以外の意味は……あっ……あるね……」
かの有名な文豪のI love youの翻訳。そんなことは全く意識せずに言ってしまったので妙に恥ずかしくなる。
「ふふっ。砺波さんらしいや」
氷見さんは笑いながら手に持っている缶に視線を落とし、指でプルタブをいじり始めた。
「砺波さん。月、綺麗だね」
氷見さんは前を向いて静かに波打つ海面を見つめながらそう言う。
「じゃあ上を見なよ」
「ふふっ。そうだよね。けど月が綺麗だからさ。綺麗すぎて見れないんだよね、月を」
氷見さんは足を組み、海をじっと見つめている。
「『月が綺麗』がゲシュタルト崩壊しそうだよ……」
「砺波さんのそういうとこ、いいよねぇ」
「そ、そうなの?」
「うん」
明らかに氷見さんの意図を理解しきれていない気がするのだけど、氷見さんからしたらそれでいいらしい
「けどさぁ……月って健気だよねぇ。地球にぶつかればいいのに、ぐるぐる周りを回っちゃってさ」
「そのうちぶつかるんじゃない?」
「こんな風に?」
氷見さんは座る位置をずらして俺の方に寄ってくる。肩が触れ合う距離感は惑星でいうと衝突しているに等しいんだろう。
「氷見さんが月?」
「そ。砺波さんが地球。ぶつかっちゃったね」
「地球、滅んじゃうよ」
「大変だ。けど……だから月はぶつからないのかもね。どっちもタダじゃ済まないから。ふわふわーって地球の周りをグルグルしているのがちょうどいいって思ってたりしてて」
「ぶつからない方がお互いのためってこと?」
「そういうこと」
氷見さんはやけに月に感情移入しているのか寂しそうに呟く。地球代表として何か言ってあげたほうがいいんだろう。
「ま……結局、重力には逆らえないんじゃない? 月にも思うことはありそうだけど、最終的には地球の重力に引っ張られてぶつかるんじゃないかな。物理法則には逆らえないってこと」
「砺波さん、言うねぇ……」
氷見さんはニヤリと笑う。
「ち、地球のことだよね?」
「うん。そうだよ」
氷見さんはそう言うと俺の首に腕を回してくる。
そのまま顔を近づけてきて頬にキスをしてきた。
「へっ……!?」
「月、ぶつかっちゃった」
「なっ……なっ……」
「地球さんは火山活動が活発になってきたかな? 顔、赤いよ?」
「ひ、氷見さん……からかわないでよ……」
「ぶつかってみたけど跳ね返されたな……」
氷見さんは下を向いてボソボソと何かを呟く。
「な、何?」
「なんでもないよ。砺波さんのそういうとこが良いんだよね。ま、月は地球の重力から逃れられないっていうのはそのとおりだよ。本当、そういうことなんだよね」
「ど、どういうこと?」
「うーん……じゃ、ヒント。砺波さん、私を月に例えてみてよ」
「月にかぁ……うーん……氷見さんは月のようにまん丸で……ってこれじゃ氷見さんが太ってる人みたいだね」
「ふっ……ふふふっ……と、砺波さん……それだめっ……ふふっ……」
氷見さんはやけにツボに入ったようで口を手で覆い身体を震わせながら笑っている。
「う、うまくいかなかった……」
「それでいいんだよ。ね、砺波さん。月、綺麗だよね」
氷見さんは俺の手を握り、地面を見ながらそう言う。月を見ずに言ってくるので、この発言の意図はさすがに理解ができた。
「うん。俺も月が綺麗だと思うよ」
俺も同じように地面を見ながら答える。
「砺波さん、地面見てるよ」
「氷見さんもじゃん」
「今は空を見なくていいかなって」
「俺も」
「そっか」
お互いに明言をしようとしない微妙な雰囲気。後一押しをどうしても言い出せずにアスファルトの地面をじっと見つめる。
そんな無言を打ち破ったのは氷見さんだった。
「ね、砺波さん」
「どうしたの?」
「今さ、月ってどれだけ地球に近づいてるのか調べてみたんだけど、逆に毎年ちょっとずつ離れていってるんだって」
「そ、そうなんだ……」
なんとも不都合な真実を聞いてしまった。
「ま……まぁ……今日はスーパームーンだし。月と地球は近づいてるよ」
氷見さんの方を見てそう言うと氷見さんは微笑みながら頷く。
「私もそう思う。多分科学者の計算が間違ってるんだよ。今日より明日、明日より明後日の方が月と地球は近づいてるはずだし」
「だよね」
「そのうちぶつかるのかな? 私達――じゃなくて月と地球」
「そうなんじゃない? その時は文明が滅ばないようにしないとね」
「確かに。きれいにぶつかろうね。波一つたてず、静かに」
氷見さんと見つめ合いながらそんな曖昧な約束を交わすのだった。
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