第44話
金曜日、いつもの時間より少し遅れていつもの店に行く。
だが、いつもの場所には先客が立っていて、氷見さんの姿はない。
「いらっしゃ〜い。今日さ、開店してすぐに来たお客様に定位置取られちゃった。ごめんね。氷見ちゃん、奥の席だよ」
黒部が近づいて来て、小声で教えてくれた。
視線の先、店の一番奥の二人がけテーブルに氷見さんが座って俺の方を瞬きもしないくらいに微動だにせずじっと見てくる。恐らく本人はボケのつもりなんだろう。
俺は氷見さんに向かって手を振りながらテーブルへ向かう。空いたグラスが2つ。どうやらそれなりに飲んでいたようだ。「ごめんね〜」と言いながら正面の席に座る。
「氷見さん、お待たせ」
「あ、砺波さん。ざっ、残念だったね……わ、私が来た時にはもう……」
氷見さんは伏し目がちにわざとらしい涙声で言う。
「そんな敵キャラにボコボコにされて助けが間に合わなくて味方キャラが死んじゃった時みたいな言い方しなくていいから」
俺のツッコミに氷見さんは「ふふっ」と笑っていつものような表情で顔を上げる。
「にしても、変な人達だよね。開店してすぐ、どこでも席が選べるのにテーブルじゃなくて立ち飲み。しかもカウンターの端ってさ。絶対にひねくれてる人達だよ」
氷見さんは定位置を奪われたことにかなりご立腹のようだが悪いことを言えば言うほど自分たちにも突き刺さることをわかっていない様子。
「それは俺達にもブーメランになるからそこまでにしておこうか……」
「言えてる」
そんな話をしていると注文をしていないにも関わらずビールが到着。いつもの、というやつだ。
氷見さんと乾杯をして飲み始めると、正面に氷見さんがいることに強烈な違和感を覚え始めた。
「変な感覚だね」
氷見さんはニヤリと笑う。
「わかる? そうでしょ?」
「正面は正面で好きだけどね」
俺がそういうと氷見さんは驚きながら少しだけ照れる。
「へっ!?」
「話しやすいから」
「あ……な、な、なるほど!?」
「他にないでしょ……」
「そうだよね」
俺の言う事を肯定してくれつつもどこか不満げに唇を尖らせた。
「けどさ、私思うんだけど、案外一緒にいる人って正面から見ることないなって。家族ですらね」
「そう?」
「うん。だってリビングにいても家事をしてるかテレビを見てるかスマートフォンをいじってるか。話をするにしても『ながら』でしょ?」
「確かに……歩いてる時は横か後ろからか。車の運転中もそうだし、寝てる時もか」
「そうそう。身体ごと向かい合ってるのってご飯を食べる時くらいじゃない? 後何かあるかな――あっ……」
氷見さんは何かを思いついたようだが耳まで赤くして何も言わずに口を閉ざした。
「あれ? 後何かあった?」
「……な、ないない! ないよ! うんうん、なーんにも! 食事だけ!」
氷見さんは必死に否定する。食事以外はないと言う事をそんなに訴えたいんだろうか。
「ま、確かに思いつくのはご飯くらいだなぁ……」
「砺波さん、ブイニーで助かる」
「ブイニーの意味はもう知ってるよ」
「あ、そうだった」
氷見さんは可愛らしくチロっと舌を出し、自分の頭をコツンと叩いてそう言う。
「折角だし正面ならではの事をしようかな」
氷見さんはそう言うとゆっくりと右に身体を傾ける。
倒れる前に折り返して今度はゆっくり左に身体を傾けていく。
何度か繰り返すも全く意味がわからない。
「な、何してるの?」
「砺波さんの目だけが追いかけてくるんだ。騙し絵みたいで面白いなって」
「独特な遊び方!?」
「砺波さんもやってみなよ」
氷見さんはそう言ってテーブルに肘をついて手を受け皿にして顔を載せた。
「こ……こう?」
氷見さんの真似をして身体をゆっくりと左右に降ってみる。
だが氷見さんは人形のように一点を見つめたままで、一切目が俺を追いかけてこない。
「こっち見てくれる!?」
氷見さんはケラケラと笑いながら「いつも見てるよ」と言う。
「どうだか……」
「ね、砺波さんも何かやってみてよ。正面ならではの遊び」
「えぇ……何かあるかな……」
氷見さんは「ワクワク」と五秒おきに言ってプレッシャーを与えてくる。
「じゃあ……これかな?」
俺は足を動かしてコツンと氷見さんのつま先に自分のつま先を当てる。
「……つま先同士のキス?」
氷見さんが首を傾げながら聞いてくる。
「キスって言い方やめてくれる!?」
「けどキスだったよ」
「つま先が当たっただけなのに!?」
「靴、脱いでよ」
「え、な、なんで?」
「いいから。右足だけ」
氷見さんはそう言いながらテーブルの下を覗き込み、自分も靴を脱ぎ始める。
テーブルの下、靴を脱いだ氷見さんの足とぶつかった。足の裏を合わせてみたり、指先で足の裏をかいてみたり。
テーブルの下では激しい応酬が繰り広げられているが、テーブルの上は無言で見つめあうだけ。時折、どちらからともなく吹き出しては笑い合うだけ。
「これもうセックスでしょ」
氷見さんがポツリと感想を述べる。
「氷見さん!? だいぶ出来上がってるね!?」
「まだ、これからだよ」
それは酒量もそうだし、テーブル下の攻防もということらしい。
いつの間にか氷見さんは両足の靴を脱いでいて、器用に両足を使って俺の右足を2対1で弄び始めた。
「3Pだ」
氷見さんは楽しそうに言う。
「こら、氷見さん」
名前を呼んでたしなめると氷見さんはおどけた表情をしただけで足は止めてくれない。
「着衣だね。靴下も脱ぐ?」
「脱がないよ……」
氷見さんは足の遊びを継続しながらも腕組みをしてうーん……と悩む。
「何考えてるの?」
「この遊びに名前をつけるとしたら『足ックス』なのか『アセックス』なのかどっちかなって」
「前者はそこはかとなく靴が欲しくなるからやめておこうか」
「足だけに?」
「そんなにうまいこと言えてないよ……」
まったくエロさを感じない猥談をしていると、ふと気づく。正面で向かい合う機会、食事以外にもあるじゃないか、と。
「あ、食事以外もあるね。正面を見る機会。その……ほら、足じゃない方のセッ……とか」
氷見さんは顔を真っ赤にして俺を指差す。
「その気づき、よくないよ」
「せっかく見つけたのに……」
「けど私が先に――な、なんでもない!」
氷見さんは何かを言いかけて慌てて口を塞ぐ。
「ん? 何が?」
氷見さんがワタワタする理由がわからず首を傾げる。
「……なんでも。そういうとこは良いよねぇ」
そう言いながら氷見さんは俺の足の裏を器用に指でくすぐってくるのだった。
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