第43話

 金曜日の夕方、まだ砺波さんは会社を出ていないであろう時間。


 朝からぼーっとして微熱があったのだが夕方になって本格的に体調が悪くなってきてしまった。


 ベッドに横たわり、断腸の思いでの連絡を砺波さんに送る。


『砺波さん、ごめん。風邪ひいちゃったから今日は行けない』


 時計を見ると16時半。まださすがに仕事中なのですぐは見ていないだろう。


 スマートフォンを枕元に置いて寝返りを打つと、背後からピロンと通知音が鳴る。


『了解。ちなみに今日テレワークなんだけどなんか差し入れ持っていこうか? スポドリとか重たいし買いづらいでしょ?』


「神……」


 かすれた声で呟くと腫れた喉に痛みが走る。


 私は『おかゆ食べたい』とメッセージを打ち込むも、送信を思いとどまる。


 いくらなんでも甘えすぎじゃないだろうか。赤の他人に風邪をうつすリスクを背負わせてまで何かをしてもらうなんてとてもじゃないができない。


 さすがに砺波さんに迷惑だ。そう思った私はメッセージを消そうとボタンを――


「ぶえっくし!」


『おかゆ食べたい』


「あっ……あっ……」


 くしゃみをした拍子に手が当たってメッセージを送ってしまった。


 取り消そうにも砺波さんの既読がすぐにつく。そして『了解! 仕事終わったら持っていくよ。お大事にね』と返ってきた。


「はやっ……と、取り消しできないじゃん……」


 今更消すのも悪い気がしてくる。かといってやっぱりいらない、なんて尚更言いづらい。


 スマートフォンを枕元に置いて布団を頭から被る。


「甘えちゃっていいのかな……」


 お願いすれば砺波さんはいくらでも来てくれるんだろう。下心や恩を売ろうなんて意識はゼロで、無償の優しさで来てくれることもわかる。


 けれどなんで砺波さんは私にそこまでしてくれるんだろう。答え合わせをしたいようで答えを見る事が怖い。


 そこに『私が特別な存在だから』なんて書かれていたら最高だ。けれど、答えに『ただ砺波さんがそういう人だから』なんて書かれていたらしばらくは寝込むくらいのショックを受けるんだろう。


 けれど……今日だけは甘えることにする。何にしても余裕がない。おかゆをもらうだけ。それだけだ。その分、来週はたくさんお酒を奢ろう。


「良くないぞ自分。これっきりだからね」


 こんな風に甘えるのは今回だけ。そう言い聞かせた後は何故かワクワクが止まらなくなって布団の中でニヤけてしまった。


 ◆


 仕事を終えて氷見さんの家に到着。会社帰りに寄ると言ったら氷見さんに遠慮されると思い咄嗟にテレワークだと嘘をついてしまったが、一度家に帰って着替えてきたのでバレないだろう。


 エントランスにあるインターホンで氷見さんの部屋番号を入力して呼び出す。 


 少し間があってピロン、と音がなる。


「あ……砺波さん」


 氷見さんは痰の絡んだガラガラ声でそう言った。


「トナミーイーツです」


「あ゛……ありがと。砺波館」


 そこでぶつんと通話が切れてドアが開く。


 エレベータに乗って氷見さんの部屋に向かう。


 氷見さんは部屋のドアを開け、もたれかかるようにして待っていた。


 マスク、メガネ、おでこに貼られた冷却シートと順に見ていくと体調の悪さが見て取れる。


「どうぞ。レトルトのおかゆとスポドリとスポドリの粉末と……のど飴、トローチ、総合かぜ薬……後、色々とレトルトの食べ物を買っておいたから」


 俺は途中で立ち寄ったスーパーであれこれ買ったせいでぎっしりと詰まって重たくなった袋を氷見さんに手渡す。


「あ、ありがと……おもたっ……これは砺波さんの愛だね。とても重たいよ」


「冗談が言える元気があって良かったよ。それじゃ」


 長居をするのも悪いので踵を返してエレベータに向かおうとした矢先、氷見さんは俺の服の裾を掴んだ。


 歩みを止めて振り返る。


「どうしたの?」


「……あ……その……もう少し甘えたい……みたいな……」


 氷見さんは熱があるのか顔を赤くしてそう言う。どうやら風邪で相当にメンタルも参っているようだ。一人暮らしの風邪は心細いし気持ちはわからないでもない。


「いいよ。アイスでも買ってこようか?」


 氷見さんは俯いたまま首を横に振る。そして、空いている手で自分の部屋を指さした。


 その様子が素直になれない子どものように見えてつい顔が綻ぶ。


「了解。あ、別に風邪をうつしちゃうかもとか気にしなくていいからね。むしろ有給があまりまくってて部長から休め休めって言われてるから、ちょっと体調が悪くなるくらいがいいんだ」


「……体調が良い休みの方が良いよ」


「ま、そう言わずにさ」


 氷見さんはコクリと頷いて俺を部屋に招き入れた。


 ◆


 氷見さんは寝込む直前まで絵を描いていて換気もしなかったらしい。そのため女の子の甘い匂いではなく、石油のような絵の具の匂いが部屋に満ちていた。


「ちょっと換気しようか……」


「あ……ごめん。臭かったよね。鼻詰まっててさ」


 氷見さんは窓を半分くらい開けると、そのままベッドに横たわって布団の中に入った。


 口元までを布団で隠して俺の方を見てくる。


 目が合うと氷見さんは布団の中から手を出してきてベッドをタンタンと叩いた。


「手、繋いで」


「はいはい……」


 言われるがままにベッドの脇に座って氷見さんの手を握る。体温も相まってかなり熱い手を握るとじんわりと手を汗が浮かんでくる。


「頭撫でて」


「はいはい……」


 空いている手で氷見さんの頭を撫でると、細い髪の毛が指の隙間をするすると抜けていった。


 何度か手を動かすと氷見さんは満足げに喉を鳴らして目を瞑る。


「氷見さん、一人暮らしで風邪をひいたのって初めて?」


 頭を撫でながら尋ねる。


「あ……うん。そうかも」


 氷見さんは目を瞑ったまま答えた。


「そりゃキツいよねぇ。誰かに甘えたくもなるか」


「誰かじゃなくて、砺波さんだからだよ」


「へぇ……」


「反応が鈍いなぁ。ブイニーだよ」


「あ……ブイニーってそういう意味だったんだ……」


「ふふっ。今気づいたんだ」


 目を瞑ったまま氷見さんが笑う。


「氷見さん、笑ってないで寝るんだよ」


「は〜い」


 夜ふかしを注意された子供のような返事をして氷見さんは仰向けになって何度か深呼吸をした。


「ふわぁ……寝られそ……ね、砺波さん」


 氷見さんは薄目を開けて俺の名前を呼んだ。


「なに?」


「砺波さん、何でそんなに優しいの? 単にそういう人だからなのかな?」


「……さあね」


「ケチ」


 氷見さんは俺から回答を引き出せないと分かると目を瞑って眠りにつく。


 少しして寝息が聞こえ始めた。


「そりゃ……氷見さんだからね」


 起きている間はさすがにそんなことを言う勇気はない。


 作り物のような氷見さんの寝顔を見ているとつい顔が緩んでしまうのだった。


 ◆


 目が覚める。枕元のスマートフォンを見ると深夜一時を過ぎたところ。どうやら砺波さんが来てくれてそのまま寝ついてしまったようだ。


 部屋に砺波さんはいない。さすがに帰ったんだろう。


 後でお礼をしないと。


 そんなことを考えていると玄関に繋がる廊下兼キッチンとの境目にある扉が開いて砺波さんが部屋に入ってきた。


「あ、起きたんだ。おはよ。ま、夜だけどね」


「砺波さん、まだいてくれたんだ……」


「起きて一人になってたら寂しいでしょ?」


「よくわかってる」


 睡眠を取って頭がクリアになったことで、私はすごくどうでもいいことに気づいてしまった。


「ね、砺波さん」


「何?」


「今日、テレワークじゃなかったでしょ?」


「えっ……な、なんでそう思うの?」


 私は布団から手を出して砺波さんの頭を指差す。


「だって、家にいるだけなのに髪の毛にワックスつけないでしょ?」


 砺波さんは自分の頭を触ると「しまった」と言いたげな顔をする。


「ひっ、氷見さんに会うからだよ」


 砺波さんは自分の気遣いがバレたのが恥ずかしいのか、より恥ずかしいことを言って誤魔化そうとしてくる。


「なるほどね」


 私は深くは追求しない。


 わざわざ会社から家に帰った後に着替えて看病に来てくれる。しかも気を遣わせないような嘘までついて、自分のルーチンを破って居酒屋にも行かず。


 その砺波さんの行動のモチベーションが私の想定通りならいいのに、と思いながら恥ずかしそうに頭を触っている砺波さんを見つめるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る