第42話
金曜日の夕方、隣の席に座っている朝日さんが泣きそうな声で「砺波せんぱぁい」と声をかけてきた。
「ど……どうしたの?」
「ファイルの置換に失敗して全部データが消えちゃいました……」
「うわ……まじか……今から手作業で直すとなると……」
「深夜までかかりますね」
「ま、分担すれば2時間か3時間くらいでしょ? 一緒にやろうか」
「えっ、い、いいんですか?」
「なんで?」
「だって……ほら! 氷見ちゃん、待ってるじゃないですか」
「あぁ……まぁ仕方ないよ。連絡はできるから」
「あ……ありがとうございます……」
朝日さんは申し訳無さそうに俯いてそう言った。
◆
数時間の残業を経て店に到着。
「氷見さん、お待たせ」
俺が声をかけると一人で寂しそうに飲んでいた氷見さんが勢いよく俺の方を向いた。
「いらっしゃい、砺波さん。お仕事大変だったね」
氷見さんはニッと笑って俺を出迎えてくれる。
その後、氷見さんの目線は何故か俺の目から徐々に上がっていき、頭頂部に向かった。
「何か変?」
「角、生えてるよ」
「えぇ……朝日さん、出てきていいよ」
俺が声をかけると、俺の背後に隠れていた朝日さんがぴょんと飛び出して俺の横に来た。角は隠れていた朝日さんが遊んでいたんだろう。
「氷見ちゃんやっほー!」
「ど、どうも……」
朝日さんの陽キャオーラに氷見さんが気圧される。
「一緒に残業しててさ。そのままついてくるってなっちゃって」
俺は朝日さんがここにいる経緯を説明する。
「あー! その言い方だとまるで邪魔者みたいじゃないですかー! いや邪魔者ですけどね!」
「一緒に残業……」
氷見さんが首を傾げてポツリと呟く。
「あ、そうそう。私が置換に失敗しちゃって。砺波先輩にも手伝ってもらってたんだ。ごめんね、氷見ちゃん。借りちゃった」
「えっ、あっ……それは良いんですけど……痴漢……?」
「そう! ぜーんぶ手作業でさぁ! 大変だったぁ……砺波先輩、置換作業はどうにかして効率化しましょうよ。もうやりたくないです」
「俺だって置換はしたくないよ……けど仕方ないじゃんかぁ……そういうイケてないシステムだからねぇ……」
朝日さんと仕事の愚痴モードに入る。氷見さんは口をパクパクさせながら俺と朝日さんを交互に見ている。
「ちっ……痴漢……してたの?」
「あ、うん。そうだよ。何百ってあって大変だったんだよね」
俺が答えると氷見さんは目を大きく見開いた。
「なっ、何百!?」
声を裏返して驚いた氷見さんは何故か両手を自分のお尻に持っていった。
「うん。たくさんだよ。全部手でやったんだ」
「痴漢って手以外もあるの……?」
俺の説明がよくわからないのか、氷見さんは不思議そうに首を傾げて聞いてくる。
「自動化しましょうよぉ!」
朝日さんは戸惑う氷見さんを無視してそう言った。
「自動化!? 痴漢を!?」
氷見さんはまた驚いてお尻を抑える。
その様子を見ていた朝日さんはケラケラと笑いながら氷見さんの頬をつついた。
「氷見ちゃん、一人で待ってる間にだいぶ飲んだなぁ? 砺波先輩みたいになってるよ。ちなみに、置き換える方の置換ね。氷見ちゃん、変な勘違いしてたでしょ?」
「えっ!? あ……あ……し、してませんよ!?」
そう言いながらも氷見さんは何やら指で空中に漢字を書いて確認をしている。
「またまたぁ。で、砺波先輩は氷見ちゃんが勘違いしていたことにも気づいてない、と」
どうやら氷見さんは置換と痴漢を勘違いしていたようだ。
「今気づいたよ……仰るとおりです……」
朝日さんは「相変わらずですねぇ」と言って氷見さんの右隣に移動する。
俺も氷見さんの左隣に行っていつもの位置に来た。
「あ、でね。私がお仕事でミスしちゃって。砺波先輩に手伝ってもらったからお礼に奢りますよってことでついてきちゃったんだ」
朝日さんは氷見さんに店に一緒に来た経緯を説明してくれる。
「なるほど……いつでも来てくださいよ。お礼関係なく」
「じゃあ毎週来ちゃおっかなぁ……」
「それはちょっと、いや、かなり困りますね」
氷見さんは朝日さんのウザ絡みを素直に押し返す。
「あはは……素直でよろしい! ま、とりあえずかんぱーい!」
即座に運ばれてきたビールを手に朝日さんはニカッと笑いながら腕を伸ばす。
氷見さんの前で3つのグラスがぶつかり、金曜日の夜が始まった。
◆
三十分もすると朝日さんは全く知らない団体のテーブルに移動して初対面の人たちと談笑を始めた。
その様子をカウンター席から氷見さんと眺める。
「すっごいコミュ力……」
氷見さんは若干引き気味に朝日さんを見ている。
「すごいよねぇ……」
「あのぐらいグイグイいけたら早いのかな……」
氷見さんはぼーっと朝日さんを見ながらぼそっと呟く。
「何が?」
「あっ、な、なんでもない!」
氷見さんはそう言うとカウンターの方を向いてグラスに口をつけてチラチラと俺の方を見てくる。
「ね、砺波さん。残業ってオフィスで二人っきり?」
「割と残ってる人もいるからそんな感じじゃないよ」
「なら……あんし……アンデスメロンだね」
「安心ですメロンのこと……?」
「あ……ま、まぁそういうこと! ……巡り巡って同じになっちゃった」
何故か氷見さんは慌てて顔を逸らす。ボソボソと何かを言っているが朝日さんのテーブルがうるさいので聞き取れない。
「……何がメロンなの?」
「そういうとこ、いいよね」
氷見さんはお決まりの文句で返事を濁す。
俺の方を向き直した氷見さんはニッと笑い「あっ」と何かを思いついたように声を出した。
「メロンソーダ、飲みたいな。メロンの味が一切しなくて本家メロンよりもやたらと緑が濃い果汁ゼロパーセントの科学技術の結晶のメロンソーダ」
「本当に飲みたいと思ってる!?」
「思ってるよ。帰りにコンビニ寄ろうね。残業頑張ったから何か買ってあげるよ。予算は500円」
「いいの? ありがと、氷見さん」
小さな好意をありがたく受け取っておくことにする。
どうやら今日は少し早めに店を出ないといけないみたいだ。
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