第37話

 金曜日の夜。明日は健康診断を控えているため、いつものように居酒屋に来たはいいものの酒は飲めないしご飯も早めに食べきらないといけない制約付きだ。


「ほい、烏龍茶。珍しいねぇ。砺波、健康診断でなにか引っかかった?」


 黒部が俺の注文した烏龍茶を持ってきたついでに尋ねてくる。


「ううん。むしろ明日が健康診断で酒がNGなんだよね」


「何でそれでお店に来たの……あっ……ふぅん……なるほどぉ」


 黒部は俺の隣にいる氷見さんを見るとニヤリと笑って離れていった。


「黒部、何か勘違いしてるよね」


 俺が黒部の後ろ姿を見ながらそう言うと氷見さんは「そうだね」とローテンションなまま返事をする。


「けど本当さ、今日は別にナシでも良かったのに。私だけお酒飲んでるのも悪いし」


 氷見さんはかなり酔っているようで、首筋まで赤くなっている。そんな酔っ払いが可愛らしく唇を尖らせてそう言う。


「いやぁ……そうなんだけどさ……何ていうか金曜は氷見さんに会わないとなんか落ち着かなくて……」


「じゃ、別にどこでも呼び出してくれて良いのに……砺波さんの部屋とか」


 氷見さんは最後にボソっと何かを言ったが早口過ぎて聞き取れない。


「え? どこに?」


「聴力は要検査だね」


 氷見さんは俺の耳をツンツンと突いて笑う。


「何も引っ掛からないといいなぁ……」


「検査って何があるの?」


「何だっけな……血液検査して、X線撮ったり……心電図とか?」


「そうなんだ。あれは? 何だっけ……ほら、あれあれ。あ、ベリリウム」


 氷見さんは頭の隅っこからやっとのことで名前を引っ張り出してくる。


「バリウムね。胃カメラはないんだ」


 氷見さんは「バリウム」と復唱して俺に見えないように唐揚げを口に運ぶ。どうやら俺が食べられないことを気遣ってくれているようだ。


「そんなに気使わなくていいよ……」


「おいし」


 気を使わなくていいと許可をもらった氷見さんは俺の方を見て唐揚げを指さしながらニヤリと笑う。


「挑発はしないでくれる!?」


「食べる?」


 氷見さんは唐揚げを指さしながら挑発的な目でそう言う。


「だから食べられないんだって……」


「食べる?」


 今度は氷見さんは自分を指さしてそう言う。


「人は食べないよ」


「性的な意味での『食べる』だよ」


「何言ってるの!?」


 氷見さんは「ふふっ」と笑ってお酒を口にする。


 素面と酔っ払いのテンションの格差が浮き彫りになっている瞬間だ。


「ま、そもそも前日は激しい運動は避けないといけないし……そっ、それにほら! あ、あれが引っかかっちゃうから……」


「あれ?」


 氷見さんはポカンとして首を傾げる。


「け、検尿で蛋白が……い、言わせないでよ!」


「あっ、そうなんだ」


 氷見さんは飄々とした態度でそう言うとスマートフォンをいじってファクトチェックを始める。


「わ、本当だ。知らなかった。大変なんだね。じゃあ明日の健康診断会場にいる人は皆絶対に我慢してきてるってことか」


「明日、会場にいるおじさんたちをそういう目で見ちゃうからそんなこと言わないでよ……」


「っていうかさ……砺波さん、すごいね」


 氷見さんは急に妖艶な目つきでニヤリと笑って話を変えた。


「な、何が?」


「『食べる』の一言からそこまで連想しちゃったんだ? 激しい運動って何のことかな?」


「ひっ、氷見さんが言ってきたんでしょ!?」


「相手は誰で想像してたのかなぁ?」


 徐々に距離を詰めてくる氷見さんの目がトロンとしているのでかなり酔っているんだろうけど、素面で酔っ払いの相手をするのってこんなに面倒なのか、と思い知る。


「と、特定の人で想像とかしてないから……」


「そこは『氷見さんだよ』って言うところなのに」


「そういうの嫌いでしょ? そもそもド直球なセクハラじゃん……」


「ま、今の砺波さんなら別に気にならないよ」


 氷見さんは「それにね」と続けて俺のパーソナルスペースに侵入して至近距離にやってくる。


「いつもみたいな変化球もいいけど、やっぱり最後はど真ん中のストレートが一番気持ち良かったりもするんだよね」


 氷見さんは俺に向かってウィンクをしながらそう言う。


「俺っていつも変化球を投げてたんだ……」


「さすが砺波さん。無自覚シュート回転だね」


 氷見さんは笑いながら俺から離れていく。


「ま、けどさ、そういうのも関係性次第っていうのが難しいよね。けど私はすごいことだと思うんだ」


 氷見さんはそう言うと今度は腕を伸ばし、俺の手を握ってきた。ほんのり冷たい2つの手が俺の手をぎゅっと包み込む。


「な……何が?」


「街中でいきなり知らない人にこんな事をしたら通報されるのに、ある一定のラインを超えた人ならそれが許される。すごいことじゃない?」


「まぁ……確かにね」


「ちなみに砺波さん的にこれはセーフなんだ?」


 氷見さんはそう言いながら俺の手を何度も握る。


「ま……まぁ一応……」


「へぇ……ま、そりゃそうだよね。だってお酒も飲めない日にわざわざ私に会いに来てるくらいだし。砺波さんって私のこと――あ……なんでも……ない……」


 氷見さんは勢いで何かを言いかけ、急ブレーキを踏んだように口を閉じて言い淀む。


「氷見さんが何?」


「……なんでもないよ」


 耳まで赤くした氷見さんは手を離すとそっぽを向いてグラスを口につけた。


 何だろうか。俺が何か言ったことが良くなかったんだろうか。


 氷見さんの事は嫌いではないと言うかむしろ気になっている方ではあるけれど、距離の詰め方が分からなさすぎる。


 変化球ではなくストレート。


 その言葉を信じてカウンターテーブルに置かれている氷見さんの左手の甲に右手を重ねる。


 氷見さんは「あっ……」と言ってその手を見つめる。


 何かを言いたそうに唇をモゾモゾと動かして、やっとのことで口を開いた。


「砺波さん、これは通報レベル……」


 氷見さんはそう言いながらも照れくさそうにはにかみ、手首を回して手のひらを上に向けると、言葉とは裏腹に指を絡めてきたのだった。

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