第34話

 金曜日の朝、通勤のために満員電車に揺られること一駅。氷見さんの自宅の最寄り駅で電車が止まり、都内へ通勤する同志社畜が次々と車内に乗り込んできた。


 隣の人と密着を余儀なくされるくらいの距離感の中、集団から押し出されるように一人の女性が正面にやってきた。


「すみませ――あ、砺波さんだ」


「氷見さん……おはよ」


「おはよ――わっ!」


 氷見さんは挨拶を返した途端に後続で乗り込んできた人に押されて俺の方へともたれかかってきた。


「ごめんね。砺波さん」


 氷見さんが小さい声で謝ってくる。


「大丈夫?」


「砺波さんの肘が胸にあたってること以外は」


「あ……ごめん……」


 俺は慌てて肘を引く。


「気にしてないよ。それにしても……今日、多いんだね」


「ま、そういう日もあるよ」


 氷見さんは他の人に押されると俺に助けを求めるようにくっついてくる。


 満員電車なのでプライベートな話もしづらい。


 無言のまま電車が進む。駅で止まるたびに車内の人口密度は増していく。


 その圧迫具合に耐えかねたのか、氷見さんは俺の腕を掴んで自分の腰に回してきた。


「しっかり守っててね」


「はいはい……」


 これで氷見さんは俺により体重をかけて密着してくる。朝から煩悩と戦わないといけなくなってしまった。


 ◆


 ランチはいつものように朝日さんと二人。普段ならオフィスビルの一階に入っているどこかで済ませるのだが、今日は足を伸ばして少し離れたところにある喫茶店にやってきた。


 四人がけのテーブルに通されて少ししたところで店員が俺達のテーブルに近づいてきた。


「あのー……こちらのテーブルで相席させていただいてもよろしいですか?」


 朝日さんと顔を見合わせ、合意を取ってから「いいですよ」と返事をする。


 店員はほんの少しだけ俺達のテーブルと相席用のテーブルを離して客を呼びに向かった。


 それとほぼ同時にソファ席に座って店全体を眺められる位置に座っていた朝日さんがニヤニヤし始めた。


「どうしたの?」


「すぐに分かりますよ」


 不思議に思いながら首を傾げていると、隣に相席の人がやってきた。


「失礼しま――あ、砺波さん」


 聞き慣れた声に横を向く。


 隣の席では氷見さんが俺の隣に座っていた。正面には誰もいないので一人のようだ。


「えっ……氷見さん!?」


「今日はよく会うね」


「やけに冷静だね……」


「席に案内された時からこの人が見えてたから」


「朝日翠だよ。よろしくね、氷見ちゃん」


 氷見さんは朝日さんに向けてペコリと頭を下げる。


「私のこと、知ってるんですか?」


 氷見さんは何故か俺の方をちらっと見てから朝日さんに尋ねる。


「砺波先輩から聞いたわけじゃないんだけど、最近よく動画がバズってるから知ってるよ。絵、上手なんだね」


「あ……ありがとうございます」


 氷見さんは照れくさそうに礼を言う。


 とはいえ、素面かつ初対面の人が相手ということもあり、氷見さんは静かにスマートフォンをいじりはじめる。


 朝日さんも同じようにスマートフォンを見ていたのだが、なにか面白いものを見つけたようで俺に向かって話しかけてくる。


「砺波先輩、ナイトプールに今度行きましょうよ」


「えぇ……楽しいの?」


 陽キャすぎる誘いに思わず腰が引けてしまう。


「楽しくないですよ」


「なのに誘うの!?」


「ナイトプール自体は楽しくないですけど、砺波先輩と一緒なら楽しいかなって。行ったことあります?」


「ないよ。部署のもっと若い人達を誘ったら?」


「じゃ、人を集めたら砺波先輩も行きましょうね。氷見ちゃんもどう? 一緒に行く?」


「行きません」


 氷見さんはスマートフォンから目を離さずに答える。久しぶりに見たクールな目つきに懐かしさすら覚える。


「えー! 楽しいよ?」


「さっき楽しくないって言ってましたよね」


「興味ないふりして話は聞いてるんだぁ?」


「うっ……あ、ああ、あんなところ、水着姿を人に見せるためだけの場所じゃないですか!」


 氷見さんは図星を突かれて恥ずかしいのか早口になる。


「鍛えた自分の身体を人に見てもらいたい、氷見ちゃんみたいに描いた絵を人に見てもらいたい。どっちも自分の内面がにじみ出た、努力した部分を人に見られたい、理解されたいって本質は同じじゃない?」


「うっ……」


 朝日さんが優勢なのだが論破したところで氷見さんがナイトプールに来るとは到底思えない。氷見さんがけちょんけちょんにされる前に助け舟を出す。


「朝日さん……あんまり氷見さんを困らせないでね。氷見さんは真面目に答えちゃうから」


「あー! 私も真面目なんですけどー!」


「じゃあ日報の一言コメントは合コンの感想以外にしてよ……あれ部長しか喜んでないから……」


「なら、目的は達成ですね」


 朝日さんは強かに笑いながらそう言う。エンジンのかかってきた朝日さんは今度は氷見さんに狙いを定めて話しかける。


「あ! 氷見ちゃん、教えてほしいことがあって。この絵って――」


 朝日さんが氷見さんに話しやすそうな絵画の話を振ると、氷見さんも少し恥ずかしそうにしながら朝日さんと話し始めたのだった。


 ◆


 朝日さんはランチをものすごい勢いで完食。食後のコーヒーも食事中に注文して一気に飲み干すと財布から千円札を取り出して伝票の上に置いて立ち上がった。


「ふぅ……ご馳走様でした。じゃ、私は先に戻りますね。午後イチのミーティングは30分後ろ倒しにしておきますね。どうせ二人で話すだけですし。あ、砺波先輩。ナイトプールの予定立てたいから氷見ちゃんと空いてる日を確認しておいてくださいね。氷見ちゃん、頑張ってね。それじゃ〜」


 朝日さんは昼休憩を半分以上残して先に店から出ていく。


「なんか私もナイトプールに行くことになっちゃってるね」


 嵐が過ぎ去った後の静けさの中、氷見さんがポツリと呟く。


「俺も行くなんて言ってないけどなぁ……」


「ま、あの感じだと砺波さんは絶対に連れて行かれそうだよね」


「だよね〜……ナイトプールかぁ……」


「ふぅん……こういう感じか……あ、バーカウンターある。立ち飲みできるね」


 隣で氷見さんがナイトプールについて調べているようだ。


 氷見さんの画面を覗き込むと、カクテルのメニューを見ているところだった。


「おっ……ねぇ、砺波さん。私、ここなら行ってみたい」


 氷見さんが見せて来たのはカクテルのメニュー。どうやらグァバジュースを使ったメニューが豊富らしく、店としてもそれを推しているようだ。


「グァバジュース、好きだねぇ……」


 氷見さんはすぐにURLを俺に送って共有してくれた。連絡先を交換したはいいものの、最後のやり取りはかなり前に氷見さんと交換した時のものだ。


「ま、たまにはお店を変えてみるのもいいかなって。金曜ならいつでも空いてるし」


 金曜日は暗黙の了解で二人で会うようになっているのでその枠をナイトプールに使うということらしい。


「了解。じゃあ朝日さんにも伝えておくよ」


「うん。ありがと」


 氷見さんはそう言いながら、無表情なままナポリタンの具をフォークに突き刺し続けている。


「……氷見さん、無理してない?」


「してないよ。グァバジュースのためだから」


「そっ、そこまで……」


 氷見さんのグァバジュース愛はかなり深いらしい。


 ◆


 昼休憩を延長した砺波さんと分かれ、自分の用事を済ませるためにバイト先のオフィスに向かう。


 道中、SNSで『ナイトプール』と検索をすると、七色の照明を背景に加工に加工を重ねた水着姿の爆美女の画像が何枚も出てきた。


 それらを見ていると妙に腕が痒くなってくる。


「うっ……陽キャアレルギー?」


 けど、やめるわけにはいかない。グァバジュースなんか二の次。あの爆美女陽キャコミュ力お化けモデル女と砺波さんが仲良くプールに入っているところを想像するだけで――


「腕、痒いなぁ……」


 そう。腕が痒くなるだけ。嫉妬なんて、そんなありきたりなことをしているわけがない。そんな風に自分に言い聞かせ、ビル風を受けながらオフィス街を歩くのだった。


 ◆


 定時で仕事をあがり、いつものように店に向かう。


 扉に手をかけると、同時に右側から誰かが手を伸ばしてきた。


「わっ……砺波さんだ。偶然だね」


 どうやら今日は氷見さんと良くぶつかる日のようだ。


「二度あることは三度ある、か」


「四度目もあるかもよ?」


 氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。


「さすがに怖いよ……」


「運命かな?」


「生活圏が近いだけ、とも言えるね」


 認めるのは照れくさいのでそう言うが、さすがにこんなに会うと少しは運命めいたものを感じてしまう。


「二人共ー、そこどいてー! ひぃひぃ……重た……あ、氷見ちゃん、良かったね。そこで長いことしゃがんでるの辛いでしょ? 中で待ってれば良かったのに〜」


 黒部がニヤニヤしながら俺と氷見さんの間を通ってビールの樽を持って店内に入っていく。


 どうやら三度目の奇跡は人為的に作られたもののようだ。


 俺が氷見さんに冷たい視線を向けると、氷見さんは可愛らしく舌を出し、何も言わずに店の中へ入っていったのだった。

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