第26話

 金曜日の夜、新人の朝日さんの歓迎会はつつがなく終了。時計を見ると夜の9時半。店の前でぐだぐだと話すこの時間が早く終わらないかと思っていると、朝日さんが俺の方へ近づいてきた。


「砺波先輩、今日はありがとうございました」


「こちらこそ。無理せずに帰ってね」


「え? 帰りませんよ? 砺波さんも二次会行きますよねぇ?」


 朝日さんは酔っているのか緩い笑みを浮かべてそう言う。


「あー……よ、用事があってさ」


「えぇ〜……砺波先輩がいないとつまらないんですけどぉ……」


「ま、皆行くんじゃない?」


 朝日さんはスッパリと諦めたように「そうですね」と言って俺に背中を向けた。


「二次会行く人〜! このゆびとーまれ!」


 朝日さんは可愛らしく人差し指を立てた手をみんなの方へと向けて突き出す。


 色々と手慣れてるなぁと思いながら、朝日さんに男が群がっているどさくさに紛れて俺は氷見さんの待つ居酒屋『梁山泊』へと向かった。


 ◆


 店に入ってすぐに定位置の方へ視線をやると、氷見さんとすぐに目が合う。氷見さんはさっと顔を逸らしてスマートフォンを弄り始めた。


 隣に行って「お待たせ」と言うと、氷見さんはスマートフォンを置き「待ってた」と微笑みながら言う。


「てっきり『待ってないよ』みたいな嫌味を言われると思ったよ……入った瞬間に目を逸らされたから……」


「人が来る度にチラチラ見てたんだ」


 氷見さんは嬉しそうにそう言いながら俺の前にメニューを差し出してくれる。


「待たせてごめんね」


「待ってないよ。どうだった? 歓迎会は」


「しっかり歓迎してきたよ」


 特に面白いイベントもなかったので冗談めかして答える。


「むぅ……何か言ってるようで何も言ってないに等しいよ、それ」


「えぇ……会社の飲み会なんて普通だよ。世間話やオフィスじゃできない噂話をして終わり」


「ふぅん……例のモデルはどこに座ってたの? 砺波さんの隣? 斜向かい? 正面?」


「朝日さん? どこだったかな……女性陣は女性陣でテーブルを作ってたからあまり話してないかも」


 氷見さんは「なるほどね」と言ってグラスを口につける。少し機嫌が良くなったように見えるのは気のせいなんだろう。


「そうなんだ。王様ゲームとかしないんだね」


「合コンじゃないからね!? 大変なんだよぉ? 偉い人の好きなビールの銘柄があるか、とか、座る位置とか、お酒を注ぐ時もラベルを見えるように、とかさ」


「私にゃ無理だ」


 氷見さんはおどけた表情でそう言う。


 その様子を微笑ましく眺めていると、店の扉が開いたのでつい視線が出入り口を向く。


 入ってきたのは朝日さんを先頭にした会社の面々だ。ここが二次会の会場になってしまったらしい。


 俺は慌てて壁の方に顔を向ける。


「砺波さん、どうしたの?」


「か、会社の人たち……二次会で来ちゃったみたい……」


「あぁ……へぇ……じゃ、あの先頭の人が朝日さん? すっごい美人だね」


 氷見さんは顔を見られてもなんの影響も無いため、ジロジロと朝日さん達を見ている様子。


「あ、私達の真後ろの席に来るっぽいよ」


「マジか……」


「というかさ、そもそも見られても良くない? あ……まぁ、ナミさんは嫌か。女子大生と付き合ってるなんて勘違いされたら困るもんね」


 氷見さんは俺が咄嗟に顔を隠した意図を自分なりに解釈してくれた。名前でバレる可能性を考慮して呼び方まで変えてくれる気の使いっぷりだ。


「単に二次会に行かずに鉢合わせるのが気まずいなってくらいだけどね。氷見さんがどうとか、そういうことは一切ないから」


「じゃ、彼女ってことで紹介してもいいよ」


 氷見さんはニヤリと笑って俺との距離を詰めてくる。


「えぇ!?」


「しっ、声大きいよ」


「あ……ごめん……」


 氷見さんは「こうしないと聞こえづらいね」と言って俺と腕が密着する距離まで詰めてきた。


「近くない……?」


「けど、いつもの声量だと聞こえたらバレちゃうし。いいよね、こういうの。お忍びデートみたいで楽しいよ。ナミさんのセンター分け好きなんだけど……仕方ないか」


 氷見さんは囁くような声で呟くと、俺の頭に手を載せて髪の毛をグシャグシャにする。髪型を変えるのも変装の一種ということなんだろう。この状況すら楽しんでくれているらしくて何よりではある。


「まぁ……バレたらバレただよ」


「設定決めておこうよ。大学生だとさすがにナミさんが変な目で見られちゃうから、25くらいでどう? 仕事は……企業のデザイナーとか」


「な、何の設定?」


「私こと、架空の彼女」


「氷見さん、楽しんでるねぇ……」


「名前はどうしようかな。七尾ななおかな? 七尾涼、25歳。仕事はデザイナー」


「自然ではあるね」


 氷見さんは雰囲気も服装もキャピキャピしていないので若見えする25歳と言われても全く違和感はない。


「でさぁ……どうなの? 砺波のインストラクターぶりは」


 背後のテーブルから俺の名前が聞こえたのでびっくりして耳を澄ませてしまう。朝日さんでも話をしやすい話題に俺が選ばれたらしい。


「うーん……お仕事はこれからなのであんまり分からないですけど……初対面の印象は良かったですね。『何でも聞いてね』が社交辞令じゃなくて、本当に何を聞いても答えてくれそうだなって思いました」


 うんうん、良いこと言ってくれるじゃないの。


 小さく頷いていると隣の氷見さんがツンツンと脇腹をつついてくる。


「良かったね、悪口じゃなくて」


「そうなったら氷見さんに慰めてもらうよ……」


「いつから私が味方と錯覚していたの?」


「追撃が来るの!?」


「塩を塗り込む所存」


 氷見さんも適当に会話を繰り広げながらも、背後の会話に集中している様子だ。


「皆さんから見た砺波さんってどんな人なんですか?」


 朝日さんが同僚たちに尋ねる。


「人畜無害?」


「金曜はほぼ定時帰りしてるイメージだな」


「あー、確かに。デートか合コン?」


「彼女とかいるのかな?」


「聞いたこと無いな」


「いるんじゃないの? 顔も悪くないし。俺、同期なのに隣りにいると俺だけ老けて見えるもんなぁ」


「え? なになに。朝日さん、砺波のこと気になってるの?」


「ふふっ……少しだけですよ」


 朝日さんの爆弾発言に後ろから男性陣のうめき声と女性陣の悲鳴が聞こえる。


「はぁ!? 小娘が……」


 そして、隣では氷見さんが露骨にキレていた。


「ひっ、氷見さん? それとも七尾さん?」


「あ……い、今のは七尾としての発言ね。ちょっとキャラ入れ過ぎちゃってたかな……あの人、私より年上だもんね」


 氷見さんは照れ隠しのようにグラスに口をつけたままそう言う。


 そのまま俺の方を上目遣いで氷見さんが見上げてくるのが横目に見えた。


「ナミさん、せっかくだし体験版してみる?」


「体験版?」


「今、降りてきてるんだよね。七尾涼が。多分、完璧に演じられる気がするよ」


「えぇと……氷見さんが25歳の社会人彼女を演じてくれるってこと?」


「そ」


「なんのために……」


「暇つぶしだよ。氷見涼もインストールできるけど、どっちにする?」


「何が違うの?」


「設定を決めていない部分は氷見涼だよ。違いは年齢と職業くらい?」


「じゃあほぼ氷見さんじゃん……」


「というわけで、体験版スタート」


 氷見さん、絶対俺を待ってる間にまたガブガブと酒を飲んでたな。


 そんな確認をする間もなく氷見さんは俺と腕を組んでくる。


 ただ、何を話すわけでもなく二人ともが前を向いたまま空いている方の手を使って酒を飲むだけの時間だ。


「……ん? これさ、いつもとほぼ同じじゃない?」


「……つまりそういうことだね」


「どういうこと?」


「ナミさんのそういうとこ、いいよね」


 氷見さんが笑いながらそう言う。


「いっ、いつも通りだ……」


 何の意味もないことが分かってしまったが体験版と称して腕を組んだまま、二人でゆっくりと雑談を続けるのだった。

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