第25話
「……となみさん……えっ、砺波さん!?」
氷見さんは何度か俺の名前を読んで現実を把握したように目を見開く。
そして、丸太のようにゴロゴロと回転しながらベッドの端まで行って床に着地。「いだっ!」と聞こえたのでおそらくそのまま床に落ちたんだろう。
少しすると氷見さんがベッドの端で顔の下半分を隠し、手ぐしで寝癖を整えながらこちらの様子をうかがってくる。
「だ……大丈夫? どこか打ってない?」
俺の質問に氷見さんはパチパチと瞬きをして「ノー」と答える。
「大丈夫。それよりもさ……砺波さん……見た?」
「えっ……な、何を? 服は……着てるよね?」
「裸じゃないよ。私の鼻のニキビ」
「あぁ……見てないよ。近すぎて視界に入ってなかった」
「ならよし」
「そっか……じゃなくて! この状況の方は!?」
「それは不明。記憶が飛んでるから。というか……すごくラブホっぽい場所だね。初めて来たけどぴったりイメージ通りというか……全人類に『ラブホテル』って概念を描かせてそれを平均化したような場所だよ」
氷見さんはテーマパークにきた子どものようにキョロキョロと部屋を見渡す。
「それ、日本人は数%しかいないから、だいぶ変わりそうだね」
「砺波さん、寝起きから鋭い指摘だね。うーん……順に思い出してみようか」
「そうだね。いつも通り俺達は店で飲んでたよね」
「うん。で、店を出たんだ。ふたりとも日本酒でデロンデロン」
氷見さんと肩を組み駅まで歩いていた光景が思い返される。
「時間はいつも通り終電の前のはず。アプリに電車の時間を調べた形跡があるから。だけど、俺達は電車には乗らなかった」
「その言い方だとまるで私達が意思を持ってそうしたみたいだよ。何か不可抗力に巻き込まれたんだったような……駅前で路上ライブをしてた人がいたよね」
氷見さんは眉間を抑えて思い出そうとする。
「ギターだっけ?」
俺が僅かな記憶を頼りにそう言うと氷見さんは首を横に振り「キーボードじゃなかった?」と自信なさげに言った。
「じゃあ……ウクレレかも」
「オルガン?」
「マンドリンじゃない?」
「グランドピアノ?」
絶対に弦を弾く系の楽器だったと記憶している俺と鍵盤系と言いたい氷見さんの記憶が対立する。
「グランドピアノは持ち運びが無理じゃない!?」
「あ……そういえばトリオだったね。全員鼻の頭をピエロみたいに塗ってた。キーボードとドラムとベースだね」
氷見さんの記憶力を頼りにストリートミュージシャンのパートを特定。
「まぁあの人達はどうでもよくて……で……あぁ! そうだそうだ。酔っ払った通行人がおひねりをいれる箱を蹴飛ばしちゃったんだ」
「そうそう。可哀想だから小銭を一緒に拾ってたら終電がなくなっちゃって。砺波さんと『やべ〜』って言ってたの思い出したよ」
泊まりになった理由は判明。酔っ払いが蹴飛ばした路上ライブのおひねりを拾う手伝いをしていたら終電を逃したんだった。
「……で、なんでラブホに?」
「ネカフェよりはいいよね。ふかふかのベッドだし。それに深夜にタクシーに乗るより安上がり」
「コスト面以外は!?」
「そのまま流れで……みたいな? 砺波さんだから警戒なんてしないよ。あ……思い出した。確か二人して使い方が分からないからフロントでおばさんにあれこれ聞きながらこの部屋にしたんだったね」
「もうそのあたりは一切記憶がないよ……けどそんなグダグダだったんだ……」
「ま、手慣れてるよりは……ね? けど服も着てるし……砺波さんって着衣派?」
「違う――っていうとまた誤解があるけども!」
「誤解も何も二択だし。ねぇ砺波さん。私達ってまだ『他人』だと思う?」
氷見さんはニヤリと笑いながら可愛らしく顔をかしげて聞いてくる。
「まだも何も入籍しない限りは昨日の氷見さんの定義だと他人のままでしょ……」
「そうだけど、そうじゃないよ」
氷見さんの意図することはさすがに理解できる。やったのか、やってないのか。二択だ。
「ま……まぁさすがに……」
俺は念の為に布団を持ち上げて自分の服を確認する。ワイシャツにスーツ。ベルトもしたまま寝ていたようなので、1度脱いでいたとは思えない。
「なんてね」
氷見さんはふふっと笑うと右手で鼻を隠しながら立ち上がる。テーブルの上に置かれていたマスクを付けると、その隣においてあったビニール袋の中を見始めた。
「私達、まだ食べて飲んでのつもりだったみたいだよ」
氷見さんは笑いながら袋の中身を取り出す。缶チューハイが二本、紙パックのリンゴジュース、カップ麺、スモークタン、杏仁豆腐と、統一性の欠片もないチョイスだ。
「そういえばコンビニに寄った記憶があるような……」
氷見さんは袋を裏返し、手品師のように他には何も入っていないことをアピールしてくる。『他人』ではなくなろうとした物的証拠もナシ。酩酊状態でも最低限のラインを守った自分に感謝だ。
「と、いうわけで私達はまだ他人だね。ゴミ箱も空だし、備品は一切手つかず。ここに来てすぐに二人で寝落ちしちゃったんだね」
氷見さんはそう言うとビニール袋に自分の手荷物からいつくかをピックアップして詰め込む。そして「せっかくだしシャワー浴びよっと」と言うとシャワールームの方へ向かい、扉に手をかけたところで俺の方を見てきた。
「砺波さん」
「なに?」
「勘違いしてほしくないのは、誰でもこんなことするわけじゃないよってこと。砺波さんだから気を許して飲み過ぎちゃうし、安心して記憶を飛ばして添い寝できるんだ」
「分かってるよ」
「ってことで砺波さんも一緒にシャワーどう?」
「遠慮しとく」
ここで俺がノリノリで「行く!」と言った時の氷見さんの反応も見てみたくはあるが、氷見さんの妖しく笑っている目はジョークを言っている時のそれなので俺は断ってまた布団に潜り込む。
妙に甘い香りがするのはホテルのもてなしではなく、氷見さんの匂いが残っているからなんだろう。
「ふぁあ……眠いよね。ってか砺波さんも大変だよね。こんなのに好かれちゃってさ」
バタン、とシャワールームの扉の閉まる音がする。少しして水の流れる音が聞こえだしたところで、二日酔いの脳みそが言葉を解釈し始めた。
「……ん? 好かれた……? 好き……すこ……好? ハオ? えっ……あ……いや……まぁ友人としてってことだよなぁ……」
ないない。氷見さんに限ってそんなまさか。懐かれちゃって、くらいの意味合いに決まっている。言い方もすごく自然だったし。
そんな風に自分に言い聞かせても、布団に潜っていると氷見さんの残り香をやけに意識してしまう。
それでも布団から顔を出す気にもならず、徐々に熱気を帯びる布団の中で一人悶々とするのだった。
◆
「あーっ! あぁ……やらかしたやらかしたやらかした……私のばかばかばかばか。砺波さん気づくな気づくな気づくな気づくな……」
シャワーの音にかき消されるくらいの声量で独り言を呟く。本当は声にも出したくないが、僅かにでも声にしないとはち切れてしまいそうだ。
「えっ、酔ってホテルに行ってその流れで告白? 良くないよ、これは。これは良くないって自分」
寝起きで頭も回らないし気を抜きすぎてつい言葉が漏れてしまった。『私に好かれちゃって』なんてもう好きと言っているのと同じじゃないか。
「うぅ……戻るか……」
ふかふかのタオルで身体を拭き、バスローブを羽織る。
ドライヤーで髪の毛を乾かし、鏡で自分と向かい合う。化粧が落ちた自分はなんとも自信なさげに眉尻を垂らしていた。
ひとまずはここからの作戦会議を脳内で始める。
砺波さんが気づいていないパターン。これなら乗り切れる。
気づいているけれど大人の対応で流してくれるパターン。これもなんとかなる。一旦有耶無耶にしてしまえばいい。
最悪なのは気づいて、かつ、砺波さんもその気になったときだ。
ここで付き合うなんてことになったら思い出の場所が住所も分からないようなラブホテルになってしまう。それは困る。
思い出の場所は、いつでも行くことができて死ぬまで残っている場所が良いからだ。お婆さんになってもその場所に来て思い出に浸ることができるから。
その点、ラブホテルは最悪。取り壊されたら二度と戻れないし、よしんば60年後も残っていたとしてラブホテルに来て思い出に浸るなんてマネはしたくはない。
だから、引き伸ばさなければ。
「『砺波さん、今じゃないよ。また今度』――いや、違うな。『今じゃないよ、家に帰ったら』――ううん、こうじゃない。『砺波さん、この後、お外で話そうか』――これだ」
よし、言うべきことは決まった。
鏡の中にいる自分と向かい合い、頰をぺしんと叩いてマスクを付ける。
気合を入れてシャワールームを出て、砺波さんがいるベッドを見る。
砺波さんはまだベッドの上で横になっていた。
こちらを向いてはいるが、その目は閉じられていて、穏やかな寝息まで聞こえてくる。
「……二度寝?」
自分のシミュレーションがまったく無意味だったことに乾いた笑いが出てくる。気づいていたら寝て待つなんてことはしないだろうから……気づいてない?
砺波さんに近づき頰をつつく。少し伸びてきたヒゲがチクチクする。人があれこれ考えている間も呑気に寝ていて、起きる気配もない。
「本当、そういうところいいよねぇ……大好き」
砺波さんはスヤスヤと寝息を立てていて、私の言葉は名前も知らないラブホテルの一室に吸い込まれていった。
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