第23話
金曜日の午後。今日も定時で帰れそうだ、なんて思いながら残りの作業を見繕っていると部長がにこやかな顔で近づいてくる。
「とーなーみーくん」
「なっ……なんですか……?」
部長の態度から嫌な予感がプンプンしてくる。
「お仕事、頼んでもいいかなぁ? あ、再来週からなんだけどね」
「結構先の話ですね……なんですか?」
「新人さんの教育係。インストラクターだね」
「もうそんな時期なんですね」
「そ。うちの部署に配属されるのは一人。詳しくは聞いてないんだけど……女性ってことだけ」
「ならもっと適任な人がいるんじゃないですか? 同性の方がやりやすそうですし。
「金沢さんはベテランすぎるし、
「変なことって……」
部長は訳ありそうな顔をして小声になる。
「この後さ、研修終わりに挨拶に来てくれるらしくて。だからすぐに分かることなんだけど、なんでも大学の間はモデルだか女優だかやってて、すんごい美人なんだって」
「はぁ……それがどうしたんですか?」
「いやぁ……男女だと色々ありそうじゃない? その点、砺波君はガツガツしてないというかさ、ガッツかなさそうじゃない?」
そこまで言うかね。
「総合的に判断した結果、僕が適任と考えられたと理解しました」
それっぽくまとめて話を締める。
「ま、そういうことぉ。よろしくね。あ、これハラスメント防止ガイドラインね。念の為」
部長は俺の机に冊子を一つ置いて立ち去る。
「君はガッツかなさそうって、それも中々ギリギリじゃないか……?」
俺は部長にもらったハラスメント防止ガイドラインをパラパラとめくりながらそんな独り言をつぶやいた。
◆
退勤時間の少し前、にわかにオフィスが騒がしくなってきた。
原因はキョロキョロとオフィスを見渡している10人くらいの真新しいスーツを着た集団が現れたせいだろう。
そして、明らかに一人だけ浮いている、というか発光していると思うくらいの美人がいる。ヒールを履いているからなのか、周りの男よりも一回り頭が抜けて背が高く見える。
新人の集団にあちこちの部署から人が寄っていき、部長がその発光している美女に話しかけて俺の方へ二人で来たところで俺の担当が確定した。
「砺波君、こちらは新人の
部長が紹介してくれたその人はすらっとしていて、ヒールを抜きにしても背がその辺の男性社員よりも高そうだ。ウェーブがかかった長い黒髪をセンター分けにしていて、顔のパーツが大きくてはっきりしている美人だ。
「砺波さん、よろしくお願いします」
朝日さんがニコッと笑い会釈をする。
「砺波です、こちらこそよろしくお願いします」
「朝日さんはまだ研修中で、再来週から本格的にOJTなんだ。ま、それまでにしっかり準備しておくから安心して来てね」
部長が柔和な笑みを朝日さんに向ける。『しっかり準備』というのは俺がすることになるんだろう。
◆
新人の教育係を仰せつかった日の夜、その足でいつもの居酒屋に向かい氷見さんと並んで立ち飲み。
「はぁ……」
「珍しいね。砺波さんがため息つくなんて。どうしたの?」
氷見さんはすべてを包み込むんでくれそうな穏やかな顔で聞いてくれた。
「実はさ……新人の教育係を担当することになって」
「へぇ……それってそんなに憂鬱?」
「今のご時世、パワハラとかセクハラとかうるさいんだよね。気を使うなぁ……って思ってさ」
「……ん? セクハラ? 女?」
途端に氷見さんの表情が険しくなる。
「えっ……う、うん。そうだけど……」
「可愛い?」
「えー……どうかな……一般的には可愛いんじゃないかな?」
氷見さんの前で他の人を褒めるのもどうかと思ったが、それの何がダメなんだ、と一瞬で我に返る。
しかし氷見さんの冷たい視線を鑑みるに「可愛い」と即答しなくて正解だったようだ。
「砺波さん、濁したね。これは美女とみた」
「ど……どうかな……」
「写真、ないの?」
「あるわけ――あ、そういえば学生時代にモデルをやってたって噂だね。名前でググれば――」
「教えて」
氷見さんは素早く自分のスマートフォンを取り出してブラウザを立ち上げる。
「朝日翠って人」
「あさひ……みどり……この人?」
氷見さんが見せてきたのは検索してトップに出てきた画像。それは朝日さんその人だった。色違いの服を着た写真が何枚も出てくるのでファッションモデルをしていたんだろう。
「この人だね」
「砺波さん」
氷見さんがスマートフォンを置いて俺との距離をぐいっと詰めてきた。何か言われるぞ、と身構える。
「な、何?」
氷見さんは俺の聞く体勢が整うまで時間をかけて待ち、真剣な表情でゆっくりと口を開いた。
「この人だったら可愛いと即答すべき。じゃないと砺波さんの可愛いのハードルが高すぎて私が超えられないじゃん」
そっち!?
「えぇ……いや、氷見さんの方が可愛くない? あっ……ひ、比較してるとかじゃなくてね!」
「うっ……あ……ありがと……」
氷見さんは照れながら離れていく。
「けど砺波さん、私にそんな気遣い要らないよ。付き合ってるわけでもないんだし」
クールダウンのために水を口に含んだ後に氷見さんがそう言う。
氷見さんのこのハッキリとした態度が勘違いを産まずに毎週会える良さなんだろう、と思う。
「ま……そうだよね。……ん? じゃあなんでハードルを超える必要があるの?」
「良くないよ、砺波さん。それはセクハラ」
「えぇ!? これがセクハラになるの!?」
「なるよ」
「難しいなぁ……会社でもガイドラインを貰ったんだけど、あれじゃ何も話せないよ」
「そうなんだ。具体例とかあるの?」
「うん、あるよ。『彼氏いるの?』『週末何してる?』『服かわいいね』『ランチ行く?』……これがダメなんだってさ」
「へぇ……厳しいんだね」
氷見さんは驚きながら感想を述べる。そして、直後に何かを思いついたように「あ」と言った。
「砺波さん、私にセクハラすべきだよ。今すぐに」
「すべきなの!?」
「うん、すべき。だからほら、例文で色々聞いてみなよ」
「えぇ……」
「早く」
氷見さんに言われるがまま、俺は会社でもらったハラスメントガイドラインを取り出してセクハラの章を開く。
「えぇと……彼氏いるの?」と例文集の先頭を読み上げる。
「いないよ」と氷見さんは真顔で答えた。
「週末は何してる?」と尋ねる。
「絵を描いてる」とテンポよく打ち返してくる。
「趣味は?」
「絵」
「可愛いね」
「……ありがと」
氷見さんがちょっとだけ照れた。
「……これ、セクハラなの?」
「相手によるね。ま、関係性次第じゃないかな? 知らない人にいきなり『彼氏いる?』って聞かれたら不快だし」
「俺はいいんだ……」
「いいよ、砺波さんなら。そういうとこいいよね」
「はいはい……続けるね」
氷見さんがテンポよく返してくれるので楽しくなってきた。
「服、似合ってるよ」
「ありがと」
「隣においでよ」
「もういるよ」
「今度ご飯行こうよ」
「いつでもいいよ」
「胸のサイズ――」
ん? 『胸のサイズを教えて?』と書かれてるな。
「それはセクハラだね」
「だよね!? テンポが良すぎて読んじゃったけどこれはアウトだよね!?」
「ま……人によるけど、彼氏ならセーフかな。私の基準だけど」
「じゃ、俺はアウトじゃん……」
「そ。私に胸のサイズを聞ける人も聞けた人も誰もいない」
「へっ……へぇ……」
「……聞かないの? チャンスだよ」
氷見さんが上目遣いで尋ねてくる。聞いたところで教えてくれないくせに。
「聞かないよ……彼氏じゃないんだから教えてくれないんでしょ?」
「ふふっ。砺波さんのそういうとこ、いいよね」
氷見さんは俺の返事を聞いて嬉しそうに笑う。
「またイジるんだから……」
「これも何とかハラになるのかな?」
「ヒミハラかな?」
「じゃ、砺波さんはトナハラだね」
「俺何かした!?」
「何もしてないよ。何もしてくれないのがトナハラだから」
氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。
「むっ、難しすぎる……」
「ま、そこが良いんだよね。トナハラ最高」
本人曰くハラスメントをされているとのことだが、氷見さんはやけに楽しそうな表情で笑っていた。
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