第22話

 夕方のキャンパスからは、個展の関係者らしき人が続々と出てきていた。


 出入り口の門の付近でその人の流れを眺めていると、氷見さんも流れに乗って建物から出てきて俺の前で立ち止まった。


「砺波さん、お待たせ」


 氷見さんはいつも以上に無表情だ。さすがにずっと立ちっぱなし、気を使いっぱなしで疲れたんだろう。


「おつかれさま。大丈夫? 疲れてそうだけど……明日もあるんだよね?」


「うん。明日も。だからカチカチになった表情筋を解さないといけないんだ。たくさん笑わせてね、砺波さん」


「ハードル上げてきたね……」


 氷見さんの疲れ切った表情筋が僅かに動く。ぎこちない笑顔の氷見さんと、二人で並んで街へと繰り出した。


 ◆


 目についたカフェで飲み物をテイクアウトし、ベンチに座るために公園を探して歩き回る。


 薄暗くなってきた中、公園にベンチを見つけたので俺は「あそこに座る?」と提案をすると氷見さんは頷いた。その直後に氷見さんも同じベンチを指差す。


「あ、猫」


 ベンチの下をよくよく見ると、茶色い物体が丸まって収まっていた。猫にしては少し大きい気がするが、薄暗くて判別はしづらい。


「犬じゃない?」


 俺の予測を返すと氷見さんは「うーん……」と考える。


「犬にしては小さいよ」と氷見さんが言う。


「猫にしては大きいよ」と俺も返す。


「野良犬なんてほぼ見なくない?」


 氷見さんの意見はごもっとも。


「確かに……散歩中の飼い犬かもね」


「公園、誰もいないよ」


「……飼い主がトイレに行ってる?」


「この公園、トイレない」


 突如始まったディベートは氷見さんの優勢。俺が言い返せずに黙り込むと氷見さんはベンチをもう一度指差して続ける。


「近づいて確認してみよっか。せっかくなら賭けようよ」


 氷見さんがニヤリと笑ってそんな提案をしてきた。


「賭け?」


「犬だったら砺波さんの勝ち、猫だったら私の勝ち。勝ったほうの言うことを聞く。シンプルでしょ?」


「いいよ」


「いいの? 今のとこ、1:9で私が勝つよ?」


「俺はあれが猫じゃないって信じてるから」


「ふふっ。了解。じゃ、私が勝ったら……手を繋いで家まで送ってもらおうかな。あ、ご飯は食べに行こうね」


「いいよ。じゃあ俺が勝ったら――」


 勝ったら氷見さんと何をしたい? ふと氷見さんがこっそりと会場に置いていた絵のことを思い出す。俺の脳は自分に都合の良いように補完をして、削られていた二人の顔に俺と氷見さんの顔面を描き加えた。


 普段なら絶対に越えようとしない、氷見さんが向こうで待っているラインを大股で踏み越えようと、そんな気持ちになる。


「氷見さん、俺が勝ったら腕を組もうか。手を繋ぐ代わりに」


「……えっ? い、いいよ」


 氷見さんは目をパチクリとさせてそう言う。


「と……砺波さんにしては積極的だね」


「ま……たまにはね」


「けど、私もそれなら犬でもいいまであるかな」


 氷見さんは解れてきた表情筋を使って穏やかに微笑む。


「それだと賭けにならないね……見に行こうか」


 氷見さんが「ん」と言って頷く。


 二人で猫か犬である『それ』を驚かせないようにゆっくりと近づいていくが微動だにしない。


「随分人に慣れてるんだね。ずっと寝てるみたい」


 氷見さんが小声でささやく。


「病気じゃなければいいけど」


 いよいよあと数メートルの距離まで近づいたが、『それ』はピクリとも動かない。


 氷見さんと無言で顔を見合わせる。良くない想像が膨らんでしまう。俺が先に見に行くとジェスチャーをすると、氷見さんは首を横に振って一緒に行くと意思表示をした。


 二人でベンチに近づき、その下を覗き込む。そこにいたのは、犬でも猫でもなく、グシャグシャに丸められた麻袋だった。


「……袋?」


 氷見さんはためらう事なくベンチの下から袋を引っ張り出す。泥がついた麻袋。中身は空。


「麻袋だね。じゃがいもとかが入ってそうなやつだ……」


 そう言って氷見さんと目を見合わせる。


「……ぶっ……ふふっ……じゃがっ……」


 氷見さんと同時に吹き出して下を向いて笑う。


「きゅっ……9対1で私の勝ちだって……ふふっ……」


「人に慣れてるんだねって……そりゃ動かないよね」


「ふふっ……お、お腹痛い……」


 二人でしていた考察が壮大な前フリとなり、氷見さんのツボに入ってしまったようだ。


 ベンチに座っても氷見さんはさっきのやり取りを思い出すのか、ぶふっと何度も吹き出してしまっている。


「ま……まぁ……予想外ではあったね」


「どっちの勝ちかな。砺波さん?」


「犬でもなかったしなぁ」


「けど、『猫じゃない』っていうのは本当だった。言ってたでしょ? 『猫じゃないって信じてる』って。だから砺波さんの勝ちね」


 氷見さんは無理矢理な論理展開で俺の勝ちということに仕立て上げる。


 その合意が取れたことも確認せず、氷見さんは俺の方へ近づいてきて、腕を絡めて抱きついてきた。


「ひっ、人が多いところだと恥ずかしいから……ここでだけ」


「あ……う……うん……」


「これはしんどい罰ゲームだ」


 氷見さんは照れ隠しなのか、コーヒーを口につけながら顔を真っ赤にしてそう言う。


 しばらく無言でそうしていると、氷見さんが「近いね」と呟いた。


「近いけど……今日は氷見さんが遠く見えたなぁ……」


「……そうなんだ」


 氷見さんは寂しそうにそう言う。


「あ! へ、変な意味じゃなくて……凄い人なんだなって改めて思ったというか……そのくらいの意味だから……」


 俺がそう言うと氷見さんが上目遣いで俺を見て笑いながら頷く。


「こんなに近くにいるじゃん。もはや密着してるのに」


 わざとなのか本当にそう思っているのかは定かではないが、氷見さんは物理的な距離のことに触れてくる。


「そうだけど……そういうことじゃないよ」


「砺波さん、私みたいなこと言ってるよ」


「氷見さんって普段こんなにもどかしい気持ちなんだね……」


「そうなんだ。毎週毎週、大変なんだよ?」


「ごめんね……わかんない事が多くてさ……」


「ううん。そこがいいからね。また来週。あ、その前にご飯。お腹空いちゃった」


 氷見さんはまた緩んだ顔をしてコーヒーを一気に飲み始めた。


「また来週ね。今から何食べる?」


「うーん……じゃがいも?」


「だいぶ麻袋に引っ張られてるね……」


 氷見さんは「そういうことか」と、麻袋に夕飯のメニューを引っ張られていた事にやっと気づいたらしく、恥ずかしそうに俺の腕に顔をこすりつけていたのだった。

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