第20話

 翌日から個展を控えているにも関わらず、氷見さんはいつものように夕方から居酒屋にやってきて焼酎のグァバジュース割を注文した。


「準備、大丈夫なの?」


 氷見さんは俺の隣で親指を立てて頷く。


「準備万端。一つ以外ね」


「一つ?」


「うん。今日わかったんだけど、とても苦手なことがあったんだ」


「苦手なこと?」


 氷見さんは俺の方を向くと無表情なまま「何だと思う?」と尋ねてくる。


「うーん……愛想を振りまく?」


「うっ……せ、正解……」


 氷見さんは案外ダメージを食らっているらしく、気まずそうに視線をそらしながらそう言った。


「色んな人が見に来てくれるからね。パトロンやスポンサーみたいにお金を出してくれる人、画廊の人、メディアの人……そういう人とコネを作るチャンスだし、そうしないといけない。今日は招待された関係者だけのプレオープンで対応したんだけどさ……笑顔を作るために頬に力を入れ過ぎちゃって筋肉痛なんだよね。ほら、ここ。ムキムキになってない?」


 氷見さんは髪の毛を耳にかけ、顎の付け根あたりをツンツンと指差す。


「うわ、ボディビルダーみたいだね」


「でしょ? マッチョだ、マッチョ」


 氷見さんは微笑みながらグラスに口をつける。


「あれ? 普通に笑えてない? ……というか氷見さんって別に笑顔を作るのは苦手じゃないような。普段は真顔だけど、笑ってるところもよく見る気がするけどなぁ……」


「……多分、砺波さんだからかな」


 氷見さんはいつもより意識している様子でしっかりとした笑顔を向けてくる。


「あー……世界中の人が砺波さんになったら……いや、それはホラーだね。良くないね、それは」


「そりゃそうでしょ……いっそのこと笑わずにいってみたら? クール系だからこそ、たまに笑ったり素が出ることとのギャップが映えたりしないかな」


「メディア露出みたいな方向はそれもあるかもね。けど、お仕事相手が愛想悪いと普通に嫌じゃない? お金を出してもらってる側だし、それなりにはね」


「ま……それはそうだね。えっ、ち、ちなみさ……パトロンってなんかこう……お金持ちのおじさんが……どうこうみたいな話ってあるの?」


「金を出す代わりに俺の愛人になれーっ、みたいなこと?」


「ま……まぁ、そんな感じかな」


 氷見さんは声を上げて笑う。


「砺波さん、エロ漫画の読み過ぎだよ」


「そっ、そんなの読んでないよ!?」


「ふふっ。ま、どうなんだろうね。少なくとも私の周りじゃ聞いたことないかな」


「へ……へぇ……」


 氷見さんは目を細め俺との距離を詰めてくる。


「砺波さん、心配してくれてるんだね」


「ま……まぁ……一応?」


 至近距離で氷見さんはニッコリと笑顔になり「ありがと」と言う。全力で目まで笑うと眉間にくしゃっとシワが寄るタイプということに初めて気づく。


 普段とのギャップに可愛さが全面に出てきていて、思わず顔をそらしてしまった。


「砺波さん、やっぱり私の笑顔ってぎこちないかな?」


「そっ、そんなことないよ!」


「そっか」


 氷見さんは自分の定位置に戻ると、少し前かがみになる形で頬杖をつき、顔を傾けてまたこっちに向かって笑いかけてきた。


 今日はいつもより表情が緩んでいて、それがまた可愛らしさを増している。あまり見つめられ続けると「もしかして俺のことが好きなんじゃ?」と変な勘違いを起こしてしまいそうになる。


「氷見さん、良くないよ、良くない……」


「えぇ!? そんなにだめ?」


「あ……いや……良すぎるんだけど……良すぎるが故に良くないというか……」


「抽象的だね」


「氷見さんの口癖じゃん……」


「私は良いんだもん」


「……だもん?」


 氷見さんの口調の崩壊具合に僅かにピンとくるものがある。


「ちょっともらうね」


 焼酎のグァバジュース割を氷見さんから受け取り、一口飲む。


「うっ……濃いね……」


「恋? 恋なの!?」


 氷見さんは何故か食い気味に問い詰めてくる。


「う、うん……濃いと思う、これはさすがに」


 俺の言葉を聞いた氷見さんは「ひょっ!?」と変な声を出した後に数回咳払いをするとふらつきながらも背筋を伸ばして立ち、俺の方を向いた。髪の毛を手ぐしで整えていて、何やら厳かな儀式でも始まりそうな雰囲気だ。


「砺波さん、ちゃんと言ってくれる? 相手の名前も正式名称で」


 氷見さんは焼酎グァバジュース割が濃いことをきちんと宣言させたがっている。


 手違いで濃いめに出てきた飲み物で酔っているみたいだし付き合ってあげるか。


「氷見涼さん、これは濃いです」


 俺は氷見さんの目を見てそう言う。


「うんうん! それで?」


「……それで?」


「つまりどういうこと? 恋だよね? 誰が誰を?」


 誰と言うか何に対して、なんだよな。


「……誰? グァバジュース割だよ」


「……ん?」


 俺が氷見さんのグラスを指差すと、氷見さんがその指先を見つめる。


 氷見さんは俺の手を掴んで自分を指差すように仕向けた。


「恋……だよね?」


「そっちもそっちで濃いかもね。キャラ的な意味で」


「……キャラ?」


 氷見さんのテンションが一気に下がっていく。


「氷見さん、どうしたの?」


「恋……なんだよね?」


「うん、濃いよ。言われてみたら『濃いなんだ』なんて言い方はしないけど……地元の方言?」


「……濃いよ? 来いよ……コイヨ……濃いよ……濃い? あっ……あー……ああっ……っ……」


 氷見さんは何かに気づいたように顔から首まで一気に紅潮させる。そして、俺から逃げるようにしゃがみ込み、ブツブツと何かを言い始めた。


「あぁ……よくないよくないよくないよくない……これはよくないぞ……そんなわけ無いじゃん……こんなタイミングで告白なんてあるわけないじゃんか……うわァ……やらかしたやらかした……」


「氷見さん、だ……大丈夫? 飲み物が濃すぎて気分悪くなった?」


 氷見さんは上目遣いで俺の方を見上げ、すぐに立ち上がる。


「うっ……ううん! そんなことないよ。けど濃いよねぇ、本当に」


 氷見さんは飲み物の濃さを確かめるように一度ゴクリと飲む。グラスの中身は既に七割がなくなっていた。


 そこに同じグラスを持った黒部が近づいてきた。


「氷見ちゃーん! ごめーん! それ、すっごい濃くなかった? 他のテーブルで新人の子が作ったハイボールが濃すぎるって言われちゃってさ」


「ほ、程良い濃さでひた!」


「だいぶ酔ってるみたいだけど……ごめんね。お水もどうぞ。あと、これサービスだから」


 黒部はほぼ飲み干されている氷見さんのグラスを新品の焼酎グァバジュース割と交換して去っていく。


「……濃かった。酔った。以上」


 氷見さんはそれ以上は何も言うなとばかりに俺に横顔を見せたまま水を口に含んで呟く。


「う……うん……」


 何故か妙に気まずくなったので笑顔についてはフォローしておいたほうがいいだろう。


「さっきの氷見さんの笑顔、すごく良かったよ」


「出資したくなった?」


「おじさんは一撃だね」


「じゃ、砺波さんも一撃?」


「都合の良いときだけおじさん扱いするんだから……けど……うん、氷見さんの笑顔、可愛いと思ったよ」


 氷見さんは勢いよく俺の方を向く。その顔は驚きと嬉しさが入り混じっている。薄い紙に色水が染み込むように、嬉しさがじわじわと氷見さんの顔面に広がっていった。


「ありがと、砺波さん。自信がついた」


「良かった。明日、頑張ってね」


 氷見さんは「ん」と喉を鳴らして水を飲む。


 冷静さを取り戻してきた氷見さんはチラッと横目に俺を見て呟く。


「自信がついたのは明日の事以外にももう一つあるんだ。何か分かる?」


「うーん……なんだろ?」


「だよね。砺波さんのそういうとこ、いいよ。本当、すごくいいからそのままでいてね」


「そ……そうなの?」


 何がどういいのか全くわからないまま、この日も居酒屋の隅で二人で過ごすのだった。

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