第19話

 金曜日の夕方。そろそろ机の片付けをして居酒屋に向かおうかと思った矢先に部長が後ろで手を組んだまま歩いて俺の席に近づいてきた。


「砺波君。おつかれ」


「お……お疲れさまです……」


 この時間に話しかけられるのは飲み会への誘いか急ぎで面倒な仕事かの二択だ。どちらにせよ氷見さんとの合流が遅れるので身構えてしまう。


「ちょっとお願いがあるんだけど……」


 はいきた。この感じは後者だ。


「げ、月曜じゃだめ……ですか?」


 部長はニヤリと笑って首を横に振る。


「ううん。日曜までなんだよね」


「うぇ……休日出勤ですか?」


「それは任せるけど……受けてくれるかな?」


「先に内容を聞いてもいいですか?」


「もちろんいいよ。じゃ、これ」


 部長が渡してきたのは小洒落たデザインの封筒。


「……ダーゲンハッツ?」


 ちょっとした自分へのご褒美、高級アイスの代名詞、そのロゴがあしらわれた封筒を受け取った俺は首を傾げる。


「それね、保険会社の人から貰ったギフト券なんだけど2人用なんだ。家に持って帰ると娘二人と妻の三人で喧嘩が始まっちゃうから誰かに使ってほしくてね。期限は日曜までだから早めにね。コンビニとか、どこでもいいから」


「あ……はい。ありがとうございます」


「仕事だと思った?」


 部長はしてやったりといった感じでニヤリと笑う。


「えぇ。本当、めちゃくちゃ構えちゃいましたよ……」


「砺波君、素直で顔に出やすいからついからかいたくなっちゃうんだよね。そういうとこ、良いよねぇ」


「部長までやめてくださいよ……」


「僕まで……?」


「な、なんでもないです。ギフト券、貰いますね。ありがとうございます」


 部長はニッコリと笑い「こちらこそ」と言って自分の席へと戻っていった。


 ◆


 居酒屋『梁山泊』に移動し、氷見さんといつものように夕方から飲み始める。


「そういえば、来週末にあるんだ。例の個展」


 氷見さんが準備を進めていた、優秀な学生の作品を展示する会がいよいよ始まるらしい。


「そうなんだ。誰でも入れるの?」


「うん。好きに入っていいみたいだよ。来てくれるの?」


「せっかくだしね」


「ありがと」


 氷見さんはニヤけた口元を隠すようにグラスに口をつけながら礼を言う。横からはその様子が丸見えだ。


 氷見さんも横目に俺の方を見てくる。


 そして、空いている左手で俺の顔を指差した。


「砺波さん、ニヤけてる」


「氷見さんもだよ。何か面白いことでもあったの?」


「人はね、面白くない時も笑うんだ」


「まるで俺が人じゃないみたいな言い方だね!?」


 氷見さんは真顔のまま俺との距離を詰めてくる。


「じゃ、分かる? なんで私が笑ってたのか」


「そりゃ分かるよ。嬉しかったんでしょ?」


「……正解。やるじゃん」


 氷見さんはまた口元だけでニヤけて嬉しさを表現する。


「ま、俺は詳しくないから分かんないけど……やっぱり自分の描いた絵が評価されて、たくさんの人に見てもらえるって嬉しいんだろうね」


 氷見さんの気持ちを代弁したつもりだったのだが、氷見さんは何故かずっこける。


「それもあるけど……砺波さん、そういうとこだよ」


「い、今のは良いの? 悪いの?」


「良くない。糠喜びじゃん」


 氷見さんは唇を尖らせて拗ねていることをアピールをしてくる。


「あ、氷見さん。アイスって好き?」


「アイス? それなりかな」


 氷見さんが俺の質問の意図を理解する前に、部長からもらったギフト券を氷見さんに見せる。


「これ、会社の人にもらったんだ。コンビニとかで引き換えられるんだって」


 氷見さんは素早く俺の手を掴み、ギフト券の裏に書かれている説明文を読み始めた。


「なるほどなるほど? ふんふん。2つ引き換えられるんだね?」


 氷見さんは俺の手に触れているのも気にせずに目をキラキラと輝かせながらダーゲンハッツのギフト券の説明を読み上げる。


「うん。良かったらどうぞ。帰りにでもさ」


「砺波さん」


 氷見さんはそのギフト券を持ったままポツリと俺の名前を呼ぶ。


「何?」


「一人一つにしよ。一緒に使わないといけないみたいだから、電車、一緒に降りようね」


「ま……いいよ」


 氷見さんはよっぽどダーゲンハッツが好きらしく、口元から広がったニヤニヤは満面の笑みに移り変わっていく。


「よっぽど好きなんだね……」


「それもだけどそれだけじゃないよ」


 氷見さんはギフト券を指さしながらそう言う。


 俺が『じゃあ後は何?』と聞いても「そういうとこ、いいよ」とはぐらかされるだろうから、たまには何も聞かないことにした。


 ◆


 終電を降りたのは氷見さんの自宅の最寄駅。そこから歩いて俺と氷見さんの家の中間地点くらいにあるコンビニへ向かい、アイスを調達。


 近くの公園のベンチに座り、隣では氷見さんが舌なめずりをしながらガサガサとビニール袋を漁っている。


 だが、少しして「あ……あれ?」と焦ったような声を出し始めた。


「どうしたの?」


「スプーン……一つしか無い……」


 氷見さんは項垂れながら袋からスプーンを取り出す。


 俺も中を確認するが、確かにスプーンは一つだ。


「あら……ま、俺はこのまま持って帰るよ。溶けてもいいし」


「砺波さん、ろくな死に方しないよ」


「そこまで言う!?」


「ダーゲンハッツを蔑ろにするなんてだめ。スプーンは一緒に使えば良いよ。ほら、マカダミアナッツと抹茶味、シェアできるし」


 氷見さんは自分が選んだマカダミアナッツ味と俺の選んだ抹茶味の両方を自分の太ももに置いて一つずつ開け始めた。


 マカダミアナッツをひとすくいした氷見さんはそれを俺の口元に持ってくる。


「先にどうぞ」


 俺が遠慮すると氷見さんは鼻の穴を大きくして頷く。


「そうする」


 氷見さんは素早く腕を引っ込めてぱくりとスプーンを咥えた。


「ん……おいひ」


 氷見さんの顔が一気に綻ぶ。


「よっぽど好きなんだね……」


「うん。ね、砺波さん。このくらいのラッキーが毎日続いたらいいよね」


「そうだね。ま、スプーンが足りないってハプニングで相殺だけど」


「捉え方次第だよ。私にとってはラッキーが2つだから」


「ポジティブだねぇ……あむっ……」


 氷見さんは二種類のアイスを交互に食べ、俺にもたまに食べさせてくれる。


 終始ニコニコしているので本当に好きなんだろう。


「えー、たーくんやだ〜」


 急に静かな公園に響く気の抜けた男女の笑い声。


 どうやら遊具を挟んで向かいに設置されたベンチにカップルがやってきたようだ。


 二人は大きな声で笑いながらベンチに座ると人目もはばからずに大胆にイチャつき始めた。


「至福のひとときが……」


 氷見さんはそのカップルをまじまじと見つめながら恨めしそうにそう言う。


 こころなしかアイスを食べる速度が上がっている気がする。


 俺にもたまにくれるので一人で食べきったわけではないが、7割近くを氷見さんが平らげ、空になったアイスの容器を袋にしまった。


 目的だったアイスはすでに達成してしまったものの、深夜の公園で始まった公開イチャイチャが妙に気になってしまい、アイスを食べ終わったの二人共が無言でベンチに座り、正面の二人組みを眺めている。


「ね、砺波さん」


「何?」


「やっぱりああいう人って見られる前提で色々やってるのかな」


「そうなんじゃないの?」


「良くないよね、それ。だってさ、二人でいる時に誰かに見られてないと興奮しない体質になっちゃいそうじゃない?」


「マックスの基準が上がっちゃうってことね」


「そ。だから良くないよ、良くない」


 気づけばベンチに置いていた俺の右手に氷見さんの手が重ねられていた。手のひらを上に向けるように動かすと、氷見さんが俺の手を握ってくる。


 緊張とドキドキで手のひらが汗ばまないようにと意識するほど汗ばんでしまう感じがする。妙に心がざわざわするのは手汗の量を感じ取られたくないがためのことに違いない。


 氷見さんはぎゅぎゅっぎゅっと手を繋いだまま3回強く握ってきた。氷見さんからしたら酔ってじゃれているだけなんだろう。3回俺も握り返す。


「うわわ、彼女が馬乗りになっちゃった……始まらないよね?」


 氷見さんは実況をしながら2回、ぎゅっぎゅっと手を強く握ってくる。


「さすがに大丈夫でしょ……見られてる前提だし」


 2回手を握り返す。


「見られてない前提だとしたら始まるかな」


 氷見さんが一度ぎゅっと手に力を入れる。


「始まるかもね」


 俺も一回だけ手に力を入れる。


 そこでやっと氷見さんはクールな視線を俺達の手に向けた。


「ま、私達はこれくらいで。誰にも見られないくらいがちょうどいいね」


 氷見さんは口元だけでニヤリと笑う。何回も握り返す遊びが面白かったからなのか、はたまた『嬉しい』何かがあったからなのかは分からない。


「そうだね」


 俺も微笑み返して、ぎゅっともう一度氷見さんの手を握ると、氷見さんも無言で握り返してくる。


「セックスより気持ちいいよ、これ。ま、したこと無いから知らんけど」


 深夜テンションの氷見さんは高速で何度も手を握ってくる。俺は苦笑いをしながらまだ酔っていそうな氷見さんの失言をスルーしたのだった。

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