第18話
氷見さんが来られなくなって3週目。2週目は黒部と話していて暇をつぶせたが、いよいよやることがなくなってきた俺は焼酎のグァバジュース割をオーダーした。
氷見さんの定位置に立ってピンクがかったグァバジュース割を一口飲む。程よい酸味に甘ったるい感じがなかなか美味しい。
これは氷見さんがハマるのも分かるな、なんて思うと口元がニヤけてしまう。
「想像してたより重症な感じだね」
隣から氷見さんの声がしたので驚いて右を向く。そこにいたのは紛うことなく氷見さん本人。いつものようにモノクロのコーデに無表情、感情に乏しい目をしている。
「えっ……あ……ひ、氷見さん!? 本物!?」
「残念。幻覚だよ」
氷見さんはにやりと笑い俺を軽く押して本来の定位置に押しやり、自分も定位置につく。氷見さんの手に押される感覚があるので実体はあるようだ。
「予定より早く片付いたの?」
「ちょっぱやで片付けた」
氷見さんはピースサインをしながらそう言う。
「それもう死語でしょ……」
「それよりもさ、砺波さん。寂しかった?」
氷見さんはにこやかな顔でじっと俺を見てくる。
「う……ま、まぁ……そこそこかな。話し相手もいたし」
「未来?」
「そ。射水さん」
「未来、可愛いでしょ? ダメだよ、好きになったら」
「なるわけないじゃん」
「へぇ……その心は?」
氷見さんはおしぼりで丁寧に手を拭きながら聞いてくる。
「大学生で年が離れてるから」
「じゃ、私もダメか」
氷見さんはおしぼりを折りたたむことに集中しながら呟く。
「あ……いや……そういうわけじゃ……」
「私はいいの?」
氷見さんの興味がおしぼりから俺に移る。じっと見つめられ、思わず顔をそらすと氷見さんは更に距離を詰めてきた。
少しの沈黙を経て氷見さんが「砺波さん、質問のお便りが来てるよ」と会話を再開した。
「お便り?」
「東京都在住の21歳女性、匿名希望さんから。砺波さんこんばんは」
氷見さんは自分の定位置に戻るとラジオ番組宛てのお便りを読み上げるようにそう言った。
「こ……こんばんは……」
「『私には毎週金曜に会うすこーしだけ年の離れた飲み友達がいます。所用で数週間の会えなかった期間にその人は可愛い女子大生と仲良くなっていました。二人っきりで何を話していたのか気になります』だってさ」
「だってさっていうか……」
氷見さんはあくまでお便りコーナーの体を守ろうとしている。そもそも射水さんとは少し話をして一緒に飲んだくらいで、さほど仲良くなってはいない。どういう話の伝わり方をしているのだろう。
「で、何を話してたの? 未来が教えてくれないんだよね」
「大したことじゃないよ。んーと……」
メインの話題だった氷見さんの作風がどうだ、なんて話はさすがに射水さんもしていないはず。だが、そんな話をしていたことを伝えること自体がお節介だろう。本人が決めればいい話だし、外野がとやかくいうことじゃないのだから。
他に話したことと言えば――
「氷見さんの好きな人について、かな。意外な人で驚いたよ」
「はっ……えっ……え!?」
氷見さんが珍しく取り乱す。俺が射水さんに『氷見さんに好きな人がいる』と騙された事を話そうとしているだけなのに。こっちの話題はただの雑談だから射水さんからも聞いているだろう。
「ちょ……待ってよ……ほっ、本当に!?」
かーっと顔を赤くした氷見さんはチラチラと俺と天井を交互に見る。
「うん。そんなに取り乱さなくてもいいじゃんか」
「とっ、取り乱すよ!」
「ただのジョークだって」
「ジョークじゃないよ。本気だもん」
「えっ……ほ、本気なの? おじさんだよ?」
ひろし、35歳。まさかのひろしガチ恋勢ってこと?
「私はおじさんなんて思ってないよ。別に……いいじゃん。ちょっとくらい離れてたってさ。話だって噛み合うんだし」
氷見さんは可愛らしく唇を尖らせてそう言う。
「……話、してるの?」
ひろしと? 脳内で?
「してるじゃんか、今も」
「えっ、あ……そうなんだ……」
氷見さんは案外脳内で妄想を繰り広げるタイプらしい。聖徳太子もびっくりな現実と妄想の同時会話を繰り広げているようだ。
「……砺波さんはどう思ってる?」
チラッと上目遣いで氷見さんが尋ねてくる。何で俺にひろしガチ恋勢であることの良し悪しを聞いてくるんだ?
「いやぁ……まぁ……好きにしたらいいんじゃないの?」
「他人事すぎない?」
氷見さんはかなり怒りのこもった目で俺を見てくる。
「他人事というか、まぁ……氷見さん次第というか……」
「この際だから砺波さんもハッキリしようよ。どう思ってるのか、さ」
氷見さんがにじり寄ってくる。氷見さんがひろしをどう思っているかなんて俺に判断を委ねられても困るんだけど。
「どう……うーん……そうだなぁ……二次元だし好きにすればいいと思うけど……ひろしはなぁ……」
「……ん? ひろし?」
氷見さんのトーンが幾分落ち着く。
「しんちゃんのお父さん」
「なんでひろしが出てくるの?」
「なんでって……射水さんに騙されたんだ。『氷見さんには好きな人がいる』って言われてよくよく聞いたらひろしだったっていう話。あ……あれ? これも聞いてないの?」
「えっ……あー……あ、あ……」
氷見さんがこれ以上ないくらいに顔を真っ赤にしてフリーズする。
「だ、大丈夫? 色々片付けるために無理してたの?」
「あっ……う、ううん。そうじゃなくて……ああ……良くない良くない良くない良くない。良くないぞ私……」
氷見さんは俯き早口でそう言う。
「あっ、と、砺波さん。ひろしの話は聞いてた! ちょ、ちょーっと面白くて砺波さんをからかってただけ!」
「そ、そうなんだ……その割には必死そうだったけど……」
「必死にからかってたの!」
氷見さんは尚も頬を赤くしたままそう言う。
「そ、そうなんだ……」
「うぅ……これは本当良くないぞ……はっ、と、砺波さん!」
氷見さんは何かに気づいたようにハッとして俺の方を向く。
そして、いつものペースを取り戻すためなのか、一度深呼吸をしてから笑った。いつもの無表情な笑い方ではなく、心からの笑顔なのは気になるが可愛いのでヨシとする。
「な、なに?」
「未来に『好きな人がいる』って言われて、砺波さん必死にその人の事を聞いてたんでしょ? どうしてかな?」
「えっ……そ、それはさぁ……」
形勢逆転。スリーカウントの直前で俺は逆に首を絞められてしまったらしい。
いや、よくよく思い出してみると、俺から根掘り葉掘り聞いたわけじゃないぞ。話を聞きながらモヤモヤはしていたけれど、こっちから聞いたのではなかったはずだ。
「俺から聞いたんじゃなくて、射水さんがペラペラ話しだしたんだったような……」
「あ……そ、そうなんだ……」
氷見さんは何故かシュンとしてしまう。この話すらも全く聞いていなかったということか。
「……ん? 氷見さんはひろしの話も全然知らなかったってこと? じゃあさっきはなんであんなに照れてたの?」
「砺波さん、良くないよ。その気づきは本当に良くない」
氷見さんはなんとかいつものペースを取り戻し、低い声でそう言って俺の脇腹をつついてくる。
「あ、これはよくないんだ……」
「ま、そこで止まるのは良いところだけどね」
「どういうこと……」
氷見さんはいつものように口元だけでにやりと笑い、いつものような雰囲気で俺と接し始めたのだった。
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