第17話
氷見さんが多忙により来られなくなってから最初の金曜日。
俺は氷見さんと出会う前からのルーチンを継続して居酒屋『梁山泊』に来てカウンター席で一人で飲んでいた。
場所は普段立っている壁際から人一人分右にずれた場所、氷見さんの定位置だ。
「あれ? 今日スーツじゃないんだ?」
黒部が俺の服装を見て不思議そうに尋ねてくる。
「うん。有給」
「いいねぇ……というか休みなのにわざわざこっちまで出てきたんだ。氷見ちゃん、来ないの?」
「多分来ないよ。一ヶ月くらい忙しいんだって」
「なら尚更来なくていいじゃんか……」
「飲食店の店長が客にかける言葉とは思えない発言だね!?」
「ま、いいけど。ごゆっくり〜」
黒部はまたせかせかと仕事に取り掛かる。
一人でゆっくりと黒部の料理をつついていると、不意に隣に人の気配を感じた。
横を見ると、氷見さんより少し背が低い女の子が立っていた。年は氷見さんと同じか少し下くらい。氷見さんが大人っぽく見えることを考えたら隣に来たこの子が大学生のど真ん中くらいなのかもしれない。
長そうな茶髪を頭の天辺でまとめたお団子ヘアにゆったりとしたワンピースを着ていてゆったりとした雰囲気の人だ。
立ち飲み用のカウンターは空いているのでわざわざ俺の隣に来る必要もないはず。不思議に思っていると、その子は俺に向かって「あの……」と話しかけてきた。
顔を見合わせると、氷見さんとは系統は違えどかなりの美少女。たぬき顔で涙袋がはっきりした人だ。
「何ですか?」
俺の方を向いて話しかけてきたので答える。
「その……この辺の席に毎週金曜にスーツのおじさんが現れると聞きまして。ご存知ではないですか?」
「スーツのおじさん……俺のことですか?」
「お兄さんは学生さんでしょう?」
「あー……いや、社会人です……というかおじさんに片足突っ込んでる……」
「えぇ!? あっ……も、もしかして……砺波さんですか?」
「はっ……はい。そうですよ」
女の子の質問に素直に答える。その瞬間、さっきまで柔らかかった女の子の表情が途端に険しくなる。向けられているのは明らかに『敵意』だ。
「探す手間が省けて助かりました。砺波さん。涼先輩を返してください」
「……ん? 誰を?」
「涼先輩ですよ。氷見涼」
氷見さんの後輩なのか。何故か敵意を向けられているが、知り合いの知り合いということで警戒心が一気にゆるくなる。
「あぁ、氷見さんの知り合いなの?」
「そうです。
「う、うん。よろしく。砺波です。氷見さんとは……飲み友達……かな? それで、返してっていうのはどういうこと? コンペで優勝して個展の準備があるから忙しいって聞いたし家にいるんじゃないの?」
「そこまでご存知なら話が早いです。涼先輩、変わっちゃったんです」
「変わった?」
「はい。先輩の絵、見ましたか?」
「ううん。見たこと無いよ」
イラストレーターの方の絵を見せてもらったことはあるけれど、本職の油絵は一切見たことがない。
射水さんは「これです」と言って俺にスマートフォンを見せてきた。
「これは私が高校生の時、オープンキャンパスで見かけて一目惚れした絵です」
そう言って見せられたのはモノクロで描かれた抽象的な絵。渦を巻いている何かの解釈は十人十色だろう。
「む、難しいね……」
射水さんは俺のコメントに頷きながら次の写真を見せてくる。抽象的な何かということは変わらないが、カラフルな色使いが相まって一目で脳みそに焼き付けられる印象だ。
素人の俺でも分かるということは、VTuberのキャラクターデザインなんかをしているイラストレーターで培った技術を取り入れたということなんだろうか。
「こっちの方が好きかも。これが最近の絵なの?」
「そうです。学内コンペの絵です」
「すごいね……」
射水さんは「私はこれを見たときに」と言って区切り、大きく息を吸う。
「失望しました」
「……そうなの?」
「涼先輩は気高い孤高の存在なんです。誰の評価も気にせずに我が道を行くスタイル。それが涼先輩だったんです」
「これはそうじゃないの? ぱっと見ですごく良いと思ったんだけど」
「一目で良さがわかるくらいには大衆受けに寄せてるって事です」
「うーん……そういうことかぁ……」
本人もそれは悩んでいると言っていた時もあったし、そこから何かが変わって褒められるようになったとも言っていた。
だから、本人にとっては良い変化のはずなのだが射水さんはそれを受け入れられないらしい。バンドのメジャーデビュー後に沸きがちな『インディーズの頃が良かった』という厄介ファンみたいな人だな、なんて思う。
同時にそれだけ情熱やこだわりを持っていて『若いなぁ』とも思うけれど初対面なのであまり突っ込んだことも言いづらい。
「ま……まぁ、それは氷見さん自身が向き合うべき問題と言うか……俺達がとやかく言うことでもないような……返してっていうのはどういうことなの?」
「涼先輩みたいな人でも恋をすると変わるんだなってことです」
「こっ……恋!? 氷見さん好きな人いるの!?」
急な話に俺が慌てふためくと、当の射水さんはポカンとしてしまう。
少しして「あー……こういうことですか。なるほど」と一人で納得したように笑いながら頷く。そして、カウンターで頬杖をついて妖しく微笑みながら俺の方を見てきた。
「いますよ、先輩には好きな人がいるんです。ま、私が勝手にそう思ってるだけですけど」
「えっ……えぇ……」
いや、別に良いんだけど。むしろ健全なんだけど。ショックで視界がぼやけてくる。あれ? 何で俺はそんなにショックを受けているんだ? 自分でも分からない問を反芻する暇も与えずに射水さんが畳み掛けてくる。
「どんな人か気になりますか?」
「えっ……あー……」
俺は小さく頷く。
「……180cmで35歳、大手商社の営業マンです。二人の子宝に恵まれ子煩悩で、足が臭い。太い眉毛にモジャモジャの髪の毛をしています。子供の名前はしんのすけです」
「えっ……じゃあ相手は既婚者ってこと!?」
「そうですね」
氷見さん、それはまずいよ。
「それは……けど……氷見さんが選ぶ人なんだから、よっぽど魅力的なんだろうね」
あまり否定的なことばかりも言えない。俺は涙を浮かべながら俯いてそう言う。
隣からは射水さんの「え……ガチ?」という声が聞こえた。
「うぅ……な、何がガチなの?」
「子供の名前はしんのすけと……ひまわりですよ」
「……ん? なんかそんなスペックの人聞いたことあるな……」
「『しんちゃん』ですよ。野原ひろし」
「あっ……あぁ……何!? 騙してたの!?」
「ふふっ……砺波さんのそういうとこがいいって聞いてたので、ちょっとからかっちゃいました」
「俺の話も出てるんだ……」
「毎回出てますよ」
「ちなみに……どんな話をしてるの?」
「それは教えません。砺波さんの『いいところ』はいっぱい聞いています、とだけ」
「絶対にイジってるよね、それ」
「さて? どうでしょう?」
射水さんは最初の敵対心を嘘のように引っ込め、穏やかに笑いながらメニューを手に取る。
「実は私、昨日20歳になったんです。初めてお酒を飲むんですけど、何が良いですか?」
「焼酎のグァバジュース割かな」
「えぇ……まずそう……」
「それ、氷見さんの前では言わないほうが良いよ」
「なっ、なるほど……」
なんだかんだで今日も話し相手には困らない日となるのだった。
◆
氷見は自宅にある小さな作業スペースにある椅子の上であぐらをかいてキャンバスと向かい合っていた。
「……っくちゅん! ……噂?」
氷見は首を傾げながら心当たりを探す。そして「砺波さんだといいな」と呟いてまた筆を手にするのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます