第16話

 金曜日の夜、いつもの時間に居酒屋に来たのだが氷見さんは来ない。


「氷見ちゃん、どうしたんだろ」


 黒部が手持ち無沙汰になっている俺に話しかけにやってくる。


「別に……何か用事でもあるんでしょ」


「ここ何ヶ月か毎週来てたのに? 何も聞いてないの?」


「聞いてないよ。連絡先も知らないし」


「えぇ!? まだ交換してないの!?」


「別にここに来れば話せるし……」


「そうかもしれないけどさぁ……」


 黒部が呆れた様子でため息をつく。


 それとほぼ同時にバイトの人の「いらっしゃいませ〜!」という元気な声が店内に響いた。


 何度目か分からないが、淡い期待を持って入口の方を見ると、氷見さんが右手で乱れた前髪を直しながら、左手で俺に向かって小さく手を振っていた。


 小走りで俺の隣にやってくるなり氷見さんは「焼酎のグァバジュース割で」とオーダーする。


「ごめんね、砺波さん。遅くなっちゃった」 


「ううん。俺もさっき来たとこ」


「顔、赤いよ?」


 氷見さんは俺の嘘をすぐに見破って笑う。


「本当は一時間くらい前」


 氷見さんは腕につけた小さな時計を見る。


「ふぅん……定時上がりですぐに来たんだ」


「そうだね」


「私に会うため?」


 氷見さんは冗談めかして微笑みながら、このところ俺がここにいる第一の理由を言い当てる。


「お酒を飲むため」


 さすがに素直に認めるのは照れくさいので第二の理由を答える。


「そっか。待たせてごめんね」


 言葉を額面通りに受け取らず、本当の理由を見透かしたように氷見さんが謝罪する。


「ううん。忙しいの?」


「今日はちょっと……ね。実はいい話と悪い話があるんだ。どっちから聞きたい?」


「じゃあ、いい話かな」


 氷見さんは「りょ」と言って敬礼をするとすーっと息を吸って大きく吐く。


「砺波さん、私ね、しばらくここに来られなくなりそうなんだ」


「えっ……ど、どこがいい話なの? むしろ悪い話じゃない?」


 氷見さんは頬杖をついて俺の方を見ながら嬉しそうに笑う。


「砺波さんのその反応が見られるから。私にとってはいい話だよ」


 暗に俺がここにいる一番の理由を教えてしまった気がして恥ずかしくなり顔を逸らす。明後日の方向を向いたまま「悪い話は?」と尋ねた。


「『しばらく』っていうのが一ヶ月くらいなんだ」


「えっ……い、一ヶ月も……」


 確かに悪い話だ。週1で会う関係の『しばらく』なのでもっと長いことも覚悟していたが、それはそれ、これはこれだ。


「うん。一ヶ月くらい」


「何かあるの?」


 氷見さんは俺の質問に頷きながら黒部から飲み物を受け取ると、無言でグラスを俺の方へ寄せてきて乾杯をする。


「学内でコンペがあったんだ。学生向けの絵画コンクールみたいなものだね」


「うんうん」


「で……優勝しちゃって」


 自分の功績を話す氷見さんは照れくさそうにはにかむ。


「すごいじゃん!」


「小規模なものだから……」


 氷見さんは謙遜しつつも嬉しそうだ。


「それでもだよ。良かったね、絵が認められて」


 氷見さんは俺の方を向き「砺波さんのおかげ」と言う。


「俺……? 何もしてないよ」


「前に絵が褒められるようになったって話したでしょ? 自分でも分かるんだけど、境目は砺波さんと仲良くなってからなんだ。理由はわかんないけど……それがきっかけ」


「そ、そうなんだ……」


「ま、それでさ。コンペで上位だった人を集めて展示会を開くらしくて。優勝した私は追加で2枚。過去の絵を出すのもなんだか納得できなくて」


「創作集中期間なんだね」


「うん。それとイラストレーターの仕事も大きいのが来ちゃったし、テストもあるんだ」


「学生してるねぇ……」


「まぁね。だからさ、砺波さん。今日はオールしない? 朝まで一緒にいようよ。ひんやりした明け方、まだ世界が青い時間に二人で外を歩くんだ。車も通っていない大通りの車道の真ん中を走ったり、普段なら絶対に横断できないような道を横断したり」


 氷見さんは邪な気持ちは無さそうな雰囲気でニッコリと笑ってそう言う。


「えぇ……おじさんの身体にオールは堪えるんだよなぁ……」


「ふふっ。そういうとこ、いいよ。しばらく会えないけど、最後にしたいことってある?」


「うーん……まぁ……いつもみたいに話はしたいかな」


 氷見さんは「そっか」と言いながら俺との距離を詰めてくる。


「私はね、砺波さんの頭をぐちゃぐちゃにしたい」


 俺のことを見上げながら氷見さんがとんでもない宣言をする。


「……え?」


「アルコール中毒みたいに、フラフラ〜って私を求めて砺波さんはここに来る。だけど、私はいない。砺波さんは私の顔を思い出そうとするけどぼやーっとしか覚えてなくて。『ホクロの位置あってるかな?』とか考えちゃうけど私の写真を持ってないから答え合わせは出来ないんだ」


 氷見さんは淀みなく来週以降の俺に関する予想を述べる。


「で、最終的には砺波さんの脳内に私が出てきて喋り始める。砺波さんは焼酎のグァバジュース割を注文して、それを飲みながら一人で壁際でニヤニヤしてるの」


「その俺、きもすぎるでしょ……」


「うん、そこがいい」


 氷見さんは目を瞑り、想像上の俺を妄想の世界の中で笑顔で肯定する。


「ま、伝えたいことはシンプルでさ。私のこと、忘れないでねってこと」


「忘れるわけ無いじゃん」


「本当?」


「たかだか一ヶ月だよ? 記憶力、良い方だから」


 氷見さんは俺の言葉を受けて頬を膨らませる。何か変なこと言っちゃっただろうか。


「砺波さんのそういうとこ、良いけど良くないよ」


「どっち!?」


「悪くはない、かな。私の場所ちゃんと守っててね。他の人に渡したらダメだよ」


「じゃ、しばらくは俺がそこに立ってようかな」


「うん。約束」


 氷見さんは小指を立てて指切りをしようとしてくる。それに応えて俺も小指を立て、二人で笑い合いながら指切りをした。

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