第15話
程よい時間になってきたので氷見さんと飲み屋街の物色を開始。まだ夕方の早い時間なのでどこでも入れそうな雰囲気だ。
「楽しいね。普段来ないところだから」
氷見さんは左右に並んでいる居酒屋を見ながらやや興奮した様子でそう言った。
「そうだよねぇ……何にする?」
「うーん……あ、ここにしよ」
氷見さんが立ち止まって指差したのは年季の入った立ち飲み居酒屋。どうやら串焼きの店らしい。
「立ち飲み?」
「うん。だめ?」
「いいよ」
ダメかと言われたらダメじゃない。氷見さんと二人で入店してビールを注文。
すぐに運ばれてきたビールジョッキを二人でコツン、と鳴らす。
氷見さんは細い喉を上下させながらゴクゴクとビールを飲む。
「ゆっくりね」
「ぷはぁ……え?」
氷見さんは自分の世界に入っていたようで、口をハンカチで拭いながら聞き返してくる。
「何でもないよ」
笑いながらそう言ったところで店主が近づいてきた。
「注文は?」
「あー……串の五種盛りと枝豆……氷見さん後何かいる?」
「ひざなんこつ唐揚、お願いします。あと……珍味3種セットも」
氷見さんはチラッとメニューを見てそう言った。
「はいよ」
店主はすぐに準備のために離れていった。まだ早い時間で客も少ないので暇なんだろう。
「珍味3種セットって何なんだろうね。何も書かれてないし」
「そのわからない感じに惹かれちゃったんだ」
氷見さんはいたずらっぽく笑う。
「なるほどね」
「砺波さん」
「何?」
「人間の珍味ってどこだと思う?」
「……ん?」
「巨人になった気持ちになって考えてみてよ。膝の軟骨を唐揚にして食べたいって思う?」
「そもそも人間の部位で食べたいなんて思ったことはないから……」
「ふぅん……じゃ、どう? 私を食べるとして。どこが美味しそうかな?」
氷見さんはニヤリと笑って俺から一歩離れて立ち、全身を見せるように両腕を軽く広げた。
「へっ……ど、どこって……」
『食べる』がエロい意味にしか聞こえずにドギマギしてしまう。
「リブ、ロース、モモ。色々あるよ」
氷見さんは恐らく人間で相当するであろう場所を順に指差す。
「牛じゃないんだから……」
「タンとかどう?」
氷見さんが妖しく笑いながら舌をちろりと出す。
「どこも要らないよ……」
「そっか。残念」
氷見さんは元の位置に戻り、カウンターで頬杖をついて俺を見てくる。
「やっぱこの位置が良いんだよね」
「そうだね」
「多分、椅子があるとダメなんだ。この、横からちょっと見上げるアングル。ここが落ち着くんだよね」
氷見さんがそう言って隣から覗き込んでくる。嬉しそうな表情で俺の方を見てくるのが何とも照れくさく、思わず顔をそらしてしまう。
「となみん、こっちだよ」
氷見さんが聞き慣れない呼び方をしてくる。
「誰!?」
「砺波さんの新しい呼び方。ナミさんでもいいね」
「普通でいいよ……」
「じゃ、普通さん」
「そういうことじゃなくて!」
「ふふっ、私にも何かつけてよ」
「うーん……ひみ……ひみ……ヒミコ?」
「散々言われたやつだ」
「あ……やっぱそうだよね」
「一回さ、名前で読んでみてよ」
「な、名前!?」
「うん。覚えてるよね?」
「涼でしょ」
「……せいかい」
氷見さんは嬉しそうにはにかみながら俯く。
「呼んだら呼んだで照れてるじゃん……」
「やっぱ、いつもので大丈夫」
氷見さんが顔を真っ赤にしてビールを飲みながら誤魔化し始めた。どうやら名前で呼ばれ慣れていないらしい。いつもは俺がいじられているのでいいチャンスだ。
「ふぅん……そうなんだ、涼ちゃん?」
「ふっ……うぅ……」
氷見さんは照れて俺から顔をそらした。
「涼ちゃ〜ん?」
「……何?」
「涼ちゃん!」
氷見さんは我慢の限界を迎えたように俺の方へ身体を寄せてくる。
少し背伸びをして耳元に顔を持ってきた。
「調子乗っちゃダメだよ、誠也君」
吐息が多めで耳に息を吹きかけるように氷見さんがそう言うので、何度も自分の名前が氷見さんの低めの声で頭の中で反響する。
強烈なカウンターパンチを食らった俺は特に用事もないのに「氷見さん」とだけ呼んだ。
お互いに名前呼びをして照れ合うという妙に気まずいゲームが終わり、手持ち無沙汰になったところで店主が皿を持ってくる。
「はいよ! 珍味三種盛りお待ちぃ! 左からシカの睾丸、猪のペニス、アザラシのジャーキーね」
「シカの……睾丸?」
俺は思わず素材の名前を復唱してしまう。
「猪の……え?」
氷見さんは目をパチクリとしながら煮込まれた猪のアレを見つめる。さすがに言い切らないだけの常識はまだ持ち合わせていたようだ。
「ち、珍味と言うかゲテモノ感がすごいね……」
「ナミさん。出番だよ」
自分で頼んだくせに氷見さんは先に俺に毒見をさせようとしてくる。
「ひ、氷見さんが頼んだんだし、お先にどうぞ!」
氷見さんがシカの睾丸を箸でつまむ。
「砺波さん、あーん」
氷見さんが笑いながら俺の口元に持ってくる。
俺が頑なに口を閉じていると、氷見さんは「今日、私、王様」と切り札を切ってきた。
わさび入りたこ焼きよりもこの方がよっぽどキツくないか? と思わないでもないが、俺は諦めて口を開く。
「う……うん……味は美味しい……かな?」
「良かった。良かったけど……うーん……不名誉な記録ができちゃった」
「不名誉な記録?」
「私、男の人に食べさせてあげたの初めてなんだよね」
「そうなの? 俺でごめんね」
「ふふっ。そっちじゃないよ。初めて食べさせてあげたのが睾丸って……誰にも言えないなって」
「あぁ……確かにね」
「世界一無駄な知識だよね。二人だけの秘密にしようね、砺波さん」
氷見さんは可愛らしく微笑みながらそう言った。
こうしてこの世界にまた一つ新たなトリビアが生まれたのだった。
◆
店を3軒もハシゴしてすっかり出来上がった頃には終電が間近に迫っていた。
二人で駅に早足で向かっている最中、氷見さんが話しかけてきた。
「ね、砺波さん」
「どうしたの?」
「もう一軒行こうよ」
「電車、なくなるよ」
「なくなってもいいよ」
酔っているのか、氷見さんは子供っぽい言い方で頑固そうに言う。
「どうしたの……?」
「ロジカルな理由はないよ。ただ一緒にいたいだけ」
無表情ながらも氷見さんの言葉がまっすぐに突き刺さる。
「そ、それって……」
方向を変えて路地を少しいけばホテル街。だが、さすがに氷見さんと付き合っているわけでもないので落ち着け、と自分に言い聞かせる。そんなのだめに決まっているだろう。
「ま、本当は少し理由があってさ。絵が浮かぶんだ。砺波さんといると」
氷見さんは目を瞑り、脳内の絵を鑑賞しているかのように微笑む。
「……絵?」
「うん。頭の中にたくさんのキャンバスがあって、一人で部屋にいても真っ白なままなんだ。けど、今はどれも名画になってる。ま、実際に描き出すとそんな事無いんだけどさ」
「十分ロジカルな理由だね」
「じゃ、まだ一緒にいる?」
やはり氷見さんはかなり酔っていたようで、だらけた表情でふらつきながら手を伸ばしてくる。
「ううん。帰るよ」
「砺波さんのそういうとこ、最高だよね」
氷見さんはニヤリと笑って伸ばしてきた手をグーにする。
「でしょ?」
俺は一度グータッチをして氷見さんの手を取る。駅の方へと誘導すると、氷見さんは大人しくついてくる。
「砺波さん、明日はゆっくりしよっか。また来週だね」
「うん、また来週」
来週の金曜日にまた会う。そんな約束をして二人で電車に乗り込んだ。
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