第11話

 居酒屋の最寄り駅に到着。氷見さんは人の多い場所に来ると途端に辛そうに俯いた。


「大丈夫?」


 氷見さんは俯きがちに首を横に振る。


「あたまいたい……」


「飲み過ぎだね」


「電車、座れるかな」


「この時間、案外混んでるからなぁ……」


「だよね」


 氷見さんのペースに合わせて階段を登り、ホームドアの前に立つ。


 電車はすぐにやってきたが、かなりの密度だ。それもいつもと比べてかなり人が多い。


「この時間に……」


『現在、✕✕線での安全点検のため――』


 見計らったかのようなタイミングで駅のアナウンスが流れる。


 どうやら並走する別の路線が止まったのでこっちに人が流れてきているらしい。


 仕方がないので電車に乗り込み、人をかき分けて車両の繋目まで氷見さんと二人で移動する。


 幾分スペースはあったので氷見さんを奥にやり、少しでも楽になるようにさせる。


「大丈夫そう?」


「うん、ありがと」


 氷見さんは車両を繋ぐ扉にもたれかかり、接続している車両の方を流し目で見つめる。


 その間にも俺達の後ろから人が次々と乗り込んできてギュウギュウと押されるが、氷見さんを守る最後の砦として足に力を入れて踏ん張る。


 氷見さんはそんな俺を見ると「こっちおいで」と言って俺の腕を引いてきた。


 そのまま氷見さんに覆いかぶさるように密着する。お互いの顔がすぐ真横にある距離だ。


「こっ……これはさすがに……」


「砺波さん、辛いでしょ? 知ってる人いないし。知らない人から見たら大学生のバカップルにしか見えないよ」


 耳元で氷見さんが囁く。しっとりした声に香水のような甘い香りが漂っていて、これはこれで辛いものがある。


 離れようとすると氷見さんは俺の腰に手を回してガッチリとホールドしてきた。


 流されるままお互いに身を委ねる。


「電車、こっちも止まっちゃえばいいのにね。砺波さんもそう思わない?」


 氷見さんは小さな声で呟く。電車が止まるということは、つまりずっとこの体勢のままだということ。


「……そうだね」


 俺も素直に返事をすると氷見さんは嬉しそうに大きく息を吸った。


 だが、電車は無情にも定刻通りに進んでいくのだった。


 ◆


 氷見さんの自宅の最寄駅で降りタクシーを調達。氷見さんの自宅前に到着したのでタクシー代を支払って降りる。


 俺はここから散歩がてら歩いて帰るつもりで降りたのだが、氷見さんは先にエントランスのオートロックを開けて俺を手招きしていた。


「砺波さん、帰っちゃうの?」


「うん、ここから歩こうかなって。節約と運動を兼ねて」


「ふぅん……期待させられちゃった」


「期待って……何が?」


 氷見さんは無言で上を指差す。


「行かないよ」


「そっか。残念。けど、いいの?」


「何が?」


 氷見さんはポケットから鍵を取り出して俺に見せてくる。


「砺波さん、締め出されちゃうよ?」


 少し離れているのでわからないがいつも鍵を入れているポケットを探っても鍵が入っていない。


「いつの間に!?」


 俺は慌ててエントランスに駆け込み、氷見さんの持っている鍵に向かう。


「あ、これ私のだよ。どうしたの?」


 近づいてみるとデザインが微妙に異なる鍵だった。氷見さんは俺をからかっていたらしい。


「……あ、あれ? 俺の鍵をこっそり取ってたわけじゃないんだ」


「そんなことしないよ。あ……ってことは、鍵、ないの?」


「そうかも……」


 氷見さんはここぞとばかりに「タクシー会社に電話するよね? うちでゆっくりしていきなよ」と俺をエレベータに誘ってきたのだった。


 ◆


「――はい。はい! ありがとうございます! それじゃ、明日伺いますね! はい! 失礼します!」


 俺はさっきまで乗っていたタクシー会社に電話。すると、乗っていた車両から鍵が見つかったらしい。ただ車庫が離れた場所にあるので受取は明日ということになった。


 電話を切った俺の向かいにはクッションを抱いてベッドに座っている氷見さんがいる。


「砺波さん、どうする? 泊まってく?」


「泊まるも何も……場所が……」


 氷見さんの部屋を見渡す。ベッドはシングルサイズ。その脇にはパソコンデスクとゲーミングチェアが置かれている。


 それが部屋の半分を占めていて、残り半分は氷見さんの作業スペースらしき場所。


 白いビニールが敷き詰められたそこには、真っ白な未使用のキャンバスが数枚と、スタンドに立てかけられた描きかけの油絵がある。


 要は、寝る場所はベッド以外にないのだ。


「詰めれば二人で寝られるよ」


「いやいや! さすがにそれはまずいって……」


「まずいこと、起こるの?」


「何もする気はないけど……」


「なら大丈夫だね。お風呂、入ってこようっと」


 氷見さんはクッションを置いて立ち上がると一人で風呂場の方へ向かっていった。すぐにシャワーの音が聞こえる。


 さすがにシャワーを浴びている最中に勝手に出ていくというのは忍びないので、ベッドを背もたれにぼーっとスマートフォンをいじる。


 だが、残業と満員電車の疲れと酔いですぐに眠気が襲ってきた。


 夢か現実か定かではないくらいにふわふわとしたまどろみの中でゆっくり呼吸をする。


「……あれ? 砺波さん、寝ちゃってる?」


「んん……」


 起きてるよ、と言いたいのだが口が動かない。


「この流れで寝ちゃうぅ? ま、仕方ないなぁ……」


 毛布がかけられたのがわかる。毛布を抱きしめるように眠っていると、今度は顔のあたりにこそばゆい感覚があり、唇に柔らかいものが当たる。


 キスされたのか? いや、だとしたら夢だろう。


 夢の中なのにこれから眠るのか? そういう夢もあるか。


 今起きたことは夢。ここは夢。そう結論付けて俺はまたゆっくりとした呼吸に意識を割くのだった。


 ◆


 目が覚めると既に昼のような明るさが窓から差し込んでいた。


「おはよ、砺波さん」


 氷見さんはベッドの上でうつ伏せになり、壁際にもたれかかって寝ていた俺を見てくる。


「うん。おはよ」


「いい夢見れた?」


「えっ!? あー……ど、どうかな……」


 さすがに氷見さんにキスをされる夢を見たなんて言えるわけがない。


「言ってよ」

 

「言わないよ。気持ち悪いから」


「大丈夫。どれだけ気持ち悪くても受け止めるよ」


 氷見さんは優しく目を細める。


「……キスする夢を見たんだ」


 氷見さんは俺の話を聞いて一人でベッドを叩きながら笑う。


「ふふっ。意識しすぎだよ。ね、砺波さん。それ、現実にしてみる?」


「しないよ!?」


「けど知ってるよ。砺波さん、私のこと好きだよね?」


「えっ……」


「どんな私も好きでいてくれる?」


「どんな……?」


 そう言う氷見さんの顔が急に土まみれになる。そして、氷見さんの身体が急に赤みを帯びてキノコに――


 ◆


「うわああああ!」


 俺は叫びながら飛び起きる。


「ど……どしたの?」


 氷見さんが手に持っていたペンを落とし、俺から距離を取って恐る恐る尋ねてくる。


 窓から外を見ると、まだ薄っすらと明るい程度。早朝だろうか。


「ひっ、氷見さんがキノコになる夢を見たんだ!」


「なにそれ……」


 氷見さんは冷たい目で俺を見てくる。


「こ、ここは現実だよね!?」


「そうだよ」


「じゃ、じゃあ俺は、ゆ、夢の中で夢を見てて……あ、あれ!?」


 寝起きで頭が回らない。夢の中で夢を見ていたんだろうか。


 キスをされたのが夢の中の夢で、夢の中で氷見さんがキノコになった?


 わけもわからず頭を抱えていると氷見さんは俺の隣に来て頭を撫でてくれた。


「寝落ちしちゃってたよ。疲れてたんだね。ごめんね、付き合わせちゃって」


「ううん。俺こそありがと。鍵を落とすなんて思わなかったよ」


「それも私がいなければタクシーで落とさなかったけどね」


「ま……それはそれとして」


「けどさぁ……夢の中で私のことキノコにしてたんだ?」


 氷見さんはジト目で俺を見てくる。


「あー……あはは……」


「折角の夢なんだから好きにしたら良いのに。何をしても私にはバレないんだからさ」


「な、何をしてもって……」


「あ、けど砺波さんのことだから私とキスくらいはしてそうだな」


「なんでわかるの!?」


 氷見さんはニヤリと笑って「砺波さんだから」と言う。


 分が悪いので話題を変えるために部屋を見る。氷見さんはスケッチブックに何かを描いていたようだ。


「何を描いてたの?」


 氷見さんは「これ」と言って見せてくる。


 描いていたのは一組の男女。男は俺で壁にもたれかかって寝ている。自分の寝顔の絵を見ることはおそらく最初で最後だろう。


 その隣りにいるのは顔のない女性。髪型は氷見さんにそっくりだが顔が描かれていないので断定はできない。


「これ、氷見さん?」


「見た人の解釈に任せるよ」


「アートだね……」


「私は絵の中で好きなことをするんだ。絵の中なら何をしてもバレないから」


「こうやって見られちゃうけどね」


「難しいね。自分の欲望をぶつけてるだけなのに人に見られないと意味がないなんてさ」


 氷見さんは女性の方の顔に『へのへのもへじ』を書いてニヤリと笑った。

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