第10話

 氷見さんと居酒屋で会うことが恒例になった金曜日の夜。いつもは定時を少し過ぎたくらいでオフィスを飛び出しているところなのだが、今日は会社の椅子に縛り付けられるように座って残業をしていた。


 時計を見ると既に夜の九時。集中してパソコンと向き合っていたらこの時間になってしまっていた。


 だが、このペースだとあと1時間はかかりそうだ。月曜日に早く来てやれば良いだろ? と甘い囁きが聞こえてくるも、それを振り払ってスマートフォンを手にする。


「氷見さん、待ってたりするのかなぁ……」


 金曜日の夜は決まって同じ店にいると氷見さんに刷り込まれているはず。これで今日だけ来ない、なんてことはないだろう。


 スマートフォンの通知を見ると黒部からのメッセージが来ていた。


『残業? 氷見ちゃん、待ってるよ』


「ま、そうだよなぁ……」


 俺はこういうときのために氷見さんに連絡先を聞いていなかったことを後悔しつつも『あと1時間』と黒部に返信をして仕事に取り掛かるのだった。


 ◆


 店に到着した頃には既に夜の11時に差し掛かっていた。閉店まで後1時間というところだろうか。


 氷見さんはいつもの場所、俺の定位置の右隣に一人で佇み焼酎のグァバジュース割りを飲んでいた。


 物憂げな横顔を見ると残業の疲れすら忘れそうになる安心感を覚える。まぁ、仕事が終わった解放感から来るんだろう。


 俺の定位置には氷見さんが自分のショルダーバッグを置いていたので氷見さんの右隣に立つ。


「お待たせ」


 急に話しかけられた氷見さんはビクッと身体を震わせるとゆっくりと俺の方を向いた。


「おそいよ」


 チークを塗りたくったかのように頬を赤くしているが、その声はいつものしっかりとした芯がある声。


「ごめんね。残業しててさ」


「黒部さんから聞いてるよ。お疲れさま」


 氷見さんはそう言って俺の定位置からカバンをどけてくれた。


「いい荷物置き場だったのにな。常連さんが来ちゃったから開けないといけないね」


 氷見さんは憎まれ口を叩きつつも嬉しそうにはにかみながら俺をいつもの位置に誘導する。


「場所、キープしててくれたんだ」


「言ったでしょ? 荷物を置いてただけだよ」


「はいはい。ありがと」


「むぅ……人の話を聞かないタイプの砺波さんだ。けどこんな時間まで仕事だったのに、まっすぐ帰らないんだね」


「ま、ルーチン化しちゃってるからね」


「砺波さんのそういうとこ、いいよ。素直だよね。耳あたりの良いことを言わない」


「氷見さんのために来たよ、みたいな?」


 氷見さんは「そ」と言って酒をあおる。


 実際は氷見さんに会いに来たのも理由の半分くらいを占めているのだが、照れくさくて言えなかったのが功を奏したらしい。


「なんで女子大生を口説くの……というかもっとスマートにするからね。いくらなんでも見え見えすぎると言うか」


「じゃ、口説いてみてよ。紳士すぎるのも良くないよ」


 氷見さんはトロンとした目で俺の方に身体を寄せてくる。


 妙にドキドキさせられてしまう距離感だが、それも氷見さんからの匂いで吹き込んだ。純度の高いアルコールがそのまま気化したかのような匂いだ。


「酒臭っ!」


 俺が一歩後ずさると追い詰めるように氷見さんが近づいてくる。


「の、飲み過ぎじゃない?」


「そんなことないもん」


「口調変わってるよ」


 氷見さんはハッとした顔をして自分の頬を叩いて気付けをして「……違うし。砺波さんのおたんこなす」と言った。


「……おたんこなす?」


 氷見さんは自分で言った言葉に違和感を覚えたように可愛く首を傾げる。


「自分で言ったんじゃん……」


「おたんこなすって何なんだろうね」


「なす……茄子かな?」


「茄子って罵倒用語なの? むしろ良くない? 初夢で縁起が良いって言われてるくらいなのにさ」


「逆に例えられて嫌な野菜なんてあるかな……」


「私はきのこ」


 氷見さんには例えられたくない野菜があったらしく即答する。


「そ、そうなんだ……」


 ちらっと氷見さんの頭を見る。今はきれいに整えられているけれど、もう少し伸びてボリュームが出たらキノコと例えられてもおかしくない。


 氷見さんは俺の視線に気づいたように頭を抑えた。


「昔ね、もっとボリュームがあってさ。あだ名が『ヒミタケ』だったんだよね」


「マツタケ的な?」


「そ」


「写真あるの?」


「あるよ」


 そう言って氷見さんがスマートフォンで見せてくれたのは中学生くらいの氷見さん。


 見た目は今とさほど変わらず、大人っぽくてミステリアスな雰囲気を放っている。だが、確かに髪型は今よりももっさりしていてキノコ型だ。


「キノコというか……ツクシ?」


「……ツクシ?」


 氷見さんがジロリと見てくる。しまった。思ったことが出てしまったけれど、これは地雷だったか。


「あ! いや、その! こう……背が高くてスラッとしてるからさ! 縦長っていうのかな!? キノコってずんぐりむっくりなイメージがあるじゃん!?」


 氷見さんはポカンとした後、じわじわとツボに入ったように笑い始める。


「ふっ……ふふっ……お腹痛っ……と、砺波さん……それ最高……ふふっ……」


「そ、そうかな……」


 氷見さんは目に浮かんだ涙を拭いながら顔をあげた。


「私がさっき変なこと言っちゃったから口説くつもりで褒めてくれたんでしょ?」


「えー……あ……そ、そうそう!」


 そんなつもりじゃなかったけど氷見さんが好意的に取ってくれたならヨシ!


「砺波さんのそれ、いいよ。『らしさ』が出てるよね」


「イジってるね……」


「そんなことな――きゃっ!」


 氷見さんが高い声をあげてその場でよろめく。慌てて腕を掴んで引き寄せると店の中で一番密着している男女になってしまった。


「あ……ありがと……」


 氷見さんは顔を真っ赤にしてすぐに離れていく。


「大丈夫?」


「うん。ちょっと足がもつれちゃっただけ」


「テーブルに移動する?」


「ううん。もう、時間だから」


 氷見さんの視線を追いかけるように店内の壁掛け時計を見る。今日は俺が来るのが遅かったのでもう終電の時間が近づきつつある。


「ね、砺波さん」


「何?」


「今日、送ってよ」


「雨、降ってないよ」


「降ってないからだよ」


「なら一人で帰れない!?」


「一人で帰れるけど、一人で帰りたくないんだ。それに、今日は砺波さんが来るのが遅かったから話足りないんだよね」


「それを言われると辛いなぁ……」


「じゃ、そういうことで」


 氷見さんはカバンを持ってトイレに向かう。遅れてしまったし、たまには氷見さんの分も払ってあげよう。


 そう思って黒部を呼び、お会計を頼む。黒部はすぐに2枚の伝票とその合計金額が書かれた紙を持ってきた。


「えぇと……ん!? 二万!? 普段、一人5000円もいかないよね?」


「氷見ちゃん、すっごい飲んだしすっごい食べた」


 黒部が指差した氷見さん分の伝票にはひたすら食べ物と飲み物の名前が交互に並んでいた。


「なるほど……」


「寂しかったみたいだよ。私が話しかけても上の空だったし。今日も送ってくの?」


「その予定」


「ふぅん……ま、成人してて合意があるならいいのか」


「そんなんじゃないからね!?」


「冗談。で、お会計どうする?」


「まとめてよろしく」


 カードを取り出して黒部に渡す。


 それと入れ違いで氷見さんが戻ってきた。財布を取り出しているので「払っておいたよ」と言う。


「おぉ……スマート……今日はガチで落としに来てるの?」


「そんなんじゃないよ!? 遅れたから埋め合わせってだけだからね!?」


「けど、砺波さん、それは良くないよ、良くない」


 氷見さんはそう言って財布を開く。だがすぐに「あっ……」と言って財布を閉じた。


「私、カード派なんだよね。ちなみにいくらだった?」


「氷見さんで二万弱かな……」


「うっ……あ、明日口座から下ろしたら返すね」


「うん。それでいいよ」


 氷見さんは力士のように手刀を切る。


「力士……?」


「これね、心って書いてるんだってさ」


「へぇ……」


「それじゃ、お見送りよろしくね。狼さん」


「そんなんじゃないからね!?」


 前回同様、エントランスまで送ってさっさと帰ろうと心に決めるのだった。

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