第9話
金曜日の夜、いつもと同じように氷見さんとカウンター席の隅で酒を飲んでいると、氷見さんがカバンから手帳とペンを取り出した。
あまり人の予定を見るのも悪いと思い顔を逸らす。すると隣から「砺波さん、何かリクエストある?」と氷見さんが尋ねてきた。
「リクエスト?」
「絵でも描こうかなって」
「おお……」
「何でも良いよ」
氷見さんは顔を傾け、緩んだ顔でそう言う。今日は飲むペースが早かったのでかなり出来上がっているみたいだ。
「じゃあ……トマト」
「……トマト? ……ぶふっ……どういうチョイス……」
「思いついたからさ」
「いいよ。トマトね」
氷見さんはボールペンでサラサラと描き始める。ものの数分でみずみずしい姿の精巧なトマトの絵が現れた。
「すごっ……リアルだね。何も見てないのにこんなに描けるんだ……」
「一度見たら忘れないんだ。こういうのもあるよ」
氷見さんはそう言って顔の輪郭を描き始めた。
みるみるうちに髪型や細部まで描き込まれていく。ある程度の形ができたところでそれが俺だと気づいた。
目はハート型になっていてよだれを垂らし、鼻の下を伸ばしているが、俺は俺だ。こんな顔はしたこと無いぞ?
「これ……いつどの時の俺なの……」
「思い出してみて。『胸に』手を当てて考えたら分かるよ」
「胸……あぁ! 前にタバコを配ってたお姉さんを見たときの――こんなにデレデレしてなくない!?」
「せいか〜い」
氷見さんはケラケラと笑いながら俺の絵の上に花マルを描いた。
笑い声も大きいので今日はかなり上機嫌らしい。
「じゃ、次は何にする?」
「うーん……俺ばっかりじゃ悪いし……氷見さんが一番好きなもので」
「一番好きな……」
氷見さんは何を描くべきかと悩んでいる。
しばらくそうしていた後、1つ前の俺の絵と同じ手順で顔の輪郭を描き始めた。
髪型も俺と全く同じ。後は顔を描き込めば砺波の完成、というところで、氷見さんはその絵を取りやめるように線で塗りつぶした。
「こういうのじゃないよね。コテコテだ」
氷見さんは独り言のように呟いてその隣にラーメンの絵を描いた。
「ラーメンが好きなんだ?」
「締めに食べたいなって」
「今食べたいものじゃん……」
「行く?」
氷見さんが手帳を畳んで上目遣いで尋ねてくる。
「今からだと終電ギリギリになりそうじゃない?」
「うーん……なら、家の近くまで帰ってからにしよっか」
黒部の方をちらっと見る。氷見さんもそれで俺が黒部を送っていることを思い出したようにハッとした。
「あ……やっぱなんでもないや。帰るね」
「ううん。黒部ー、送るのナシでいい?」
少し離れたところにいる黒部に話しかける。
黒部は何のことやらと言った感じで俺達の方へ寄ってきた。
「砺波、どしたん?」
「氷見さん、隣駅なんだ。送っていくから一人で帰れる?」
「何歳だと思ってるんだか……ま、でもありがとね」
黒部は変に勘ぐってこないし『お持ち帰りか?』なんていじってきて空気を悪くもせず、笑顔でそう言ってまた仕事に戻っていく。
横を見ると氷見さんは恥ずかしそうに俯いていた。
「ど、どうしたの?」
「絶対お持ち帰りって勘違いされたなって」
「ええ……そんな感じしなかったけどなぁ」
「黒部さん、ニヤニヤしてたよ」
「あれ……そうだった?」
「砺波さん、ブイニーだね」
「ブイニー……?」
「ま、いいや。誤解、解いておいてね。それか……本当に持ち帰る?」
氷見さんはそんなつもりは毛頭ないだろうに妖艶な顔つきでそう言う。
「ら、ラーメンの話だよね……?」
「……そうだよ」
氷見さんは不満気にそう言って残りの酒を一気に飲み干した。
◆
電車に乗って移動し深夜営業をしているラーメン屋に二人で飛び込んだ。麺が茹で上がるまでぼーっと人気の少ない店内で音楽に耳を傾ける。
「ラーメン屋っていいね」
「そうなの?」
「カウンター席が多いでしょ? 砺波さんが正面じゃなくて隣りにいるのが落ち着くんだ」
「な、なるほど……」
氷見さんはちらっと俺の方を見ると、水を一口含んで話を続ける。
「今日、学校で褒められんだ。自分のためだけの絵だったのが誰かのための絵になってるって」
「良かったね。先生に褒められたってことか。今日、テンションが高かったのはそれが理由?」
氷見さんは俺の方を向く。相変わらず良く言えばクール、悪く言えば無感情な目つきだ。
「誰だから、とかないよ。絵を褒められたのが嬉しかったんだ」
「けど俺みたいな素人に褒められても微妙じゃない?」
俺の質問に氷見さんは顎に手を当てて考え込む。やがて結論を出したように俺の方を向いてニッコリと笑った。
「撤回。やっぱ人によるね。砺波さんなら……なお嬉しいかな」
「ふぅん……素人目線だからこそ参考になるのかな……」
氷見さんが上体だけでずっこける。
「と、砺波さんのそういうところ……いいよね」
「顔が引きつってるよ」
「砺波さん、ブイニーだから」
氷見さんはまた楽しそうに微笑みながらそう言ったのだった。
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