第8話
タバコを吸い終わり店に戻るとまた氷見さんとローテーションな雑談を繰り広げる。
今日は黒部がいないため閉店時間が近づいてきたタイミングで帰ることになった。
氷見さんと各々が会計を済ませて外に出ると、いつの間にか天気は雨に変わっていた。
「あ……雨か……」
氷見さんは都内の照明によって明るく見える夜の空を見上げて呟く。
「傘、ないの?」
「うん。忘れちゃった」
黒部がいたら店の傘を借りやすかったのだが、さすがに顔馴染みでない店員にそこまでわがままを言うことは出来ない。
「駅まで入る? 折りたたみ傘があるから」
「相合い傘とかコテコテだね。けど背に腹は代えられない、か。砺波さん、入れてくれる?」
「どうぞ」
折りたたみ傘は一人用なので周りのカップルよりも一段と近づいて傘の下に二人で入る。
ポツポツと傘に雨粒が当たる音と終電に向かって走る人達の足音が混ざって夜とはいえ繁華街はいつもよりも騒がしい。
駅までは数分の道のり。傘がないとずぶ濡れになってしまうくらいに強い雨の中を進み、駅に到着した。
傘を畳んで雨水を落としていると、氷見さんが話しかけてくる。
「傘ありがと、砺波さん。私のこと駅まで送っちゃったね。覚えてる?」
氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。
「ん? あー……覚えてるよ。駅まで送った日は同じ駅で降りるんだよね? 俺、雨の中一駅分歩かないといけないのかぁ……」
「……え?」
「そうじゃないの? 氷見さんを家まで送って、そこから駅まで戻るくらいなら歩いた方が早いし」
氷見さんはポカンとした直後に頬を膨らませる。
「砺波さんのそういうところ、良いけど良くないよ」
「どっち!?」
「電車、乗ろっか」
氷見さんは良い悪いの基準すら教えてくれないまま改札へ向かう。
慌ててその横へつくと氷見さんは正面を向いたまま「ありがと」と言ってきた。
「傘のお礼はさっき聞いたよ」
「それもあるけど、私との話を覚えていてくれたことだよ」
「氷見さん、たまに変なこと言うから覚えてるんだよね。あはは……」
俺がそう言うと氷見さんは口元だけで笑う。
「砺波さん、ブイニーだね」
「……ブイニー?」
「ドイヒーなブイニーだよ」
「急な業界用語!?」
「それは分かるんだ……ふふっ。本当、すごくいいよ。そういうところ」
氷見さんは目を細めて笑いながらそう言った。
「……で、ブイニーって何?」
「どいひー」
氷見さんは笑いながら誤魔化すだけで、意味を教えてくれることはなかったのだった。
◆
金曜日は終電の手前であっても飲み会帰りの人が多く、俺と氷見さんは並んで立ち乗りとなった。それも数十分の話で、車内アナウンスで氷見さんの最寄り駅に到着する旨が流れた。
「次だね、氷見さん」
「そうだね。ねぇ、砺波さん。まだ雨降ってるよ?」
「傘、買ったら?」
「ワタシ、ビンボウガクセイ。オカネ、ナイ」
「お酒を一杯でも我慢したらビニール傘は買えたよね!? まぁ……仕方ないか」
「ありがと」
氷見さんはニコッと笑ってお礼を言ってくる。まぁちょっと遠回りをしたと思えばいいか。
電車が止まると、人の流れに乗って電車から降りる。
外に出ると、世界に存在する音は電車のモーター音と雨音、それと雷の3つだけになってしまったかのような大荒れの天気になっていた。
「これ……俺も降りて正解だったね。傘ないと家に辿りつけないよ……」
「うん……それはそうだけど……むしろごめん……タクシー乗ろっか。私が出すから」
氷見さんもここまでの天気とは思っていなかったのか、恭しい態度でそんな提案をしてくる。
「そうだね。タクシー代くらい俺が出すけどさ」
二人で人の流れに身を任せて改札を出てタクシー乗り場へ向かう。
途中、駅の構内に何かの行列があり嫌な予感がしてくる。
外に出てもその行列は続いており、先端には『タクシー乗り場』の看板が立っていた。
「えっ……あの行列って全部そうだったんだ……」
「砺波さん、もういいよ。ごめんね。まだ電車もあるから。本当、変なことに付き合わせちゃったよね。ごめんなさい」
氷見さんは自分の言動に心底後悔している様子でそう言う。
「うーん……」
タクシーには乗れないし、土砂降りなのは変わらない。突然の雨で傘の売れ行きは絶好調らしく、コンビニの店頭も在庫はない。
俺はカバンから傘を取り出して氷見さんに手渡す。
「じゃ、これ氷見さんに貸すね。来週返してくれたらいいよ」
「え……いいって! 私が忘れただけなのに……砺波さんの家、駅から近いの?」
「うん。近いよ」
本当は歩いて15分くらいかかるけど。
「……嘘ついてるでしょ?」
「うっ……はい……」
氷見さんは超能力者か何かだろうか。すぐにバレてしまった。
「じゃあ送るよ。ここから歩いてもそんなに時間は変わらないから。家の方向ってどっち?」
氷見さんは無言で駅前の大通りを指差す。
「なら反対方向でもないし余裕かな。途中まで送るよ」
「……途中って、どこまで?」
氷見さんがクールな目つきのまま尋ねてくる。
「家を知られないくらいの場所の方が良いんじゃないの?」
「今更砺波さんにそんなこと思わないよ。入口までお願いします」
ペコリと頭を下げた氷見さんは俺の傘を広げて雨が降りそそぐ道へ一歩を踏み出した。俺もその隣に行って氷見さんの持つ傘の下に入った。
◆
氷見さんの自宅は駅からそう離れていない場所の路地を入ったところにあるなんてことないワンルームマンションだった。
エントランスの前、屋根のあるところに入ると氷見さんは傘を畳んで水滴を落としてから俺に返してくる。
「ありがと、砺波さん」
「どういたしまして」
「雨、すごいね……」
氷見さんがそう言うので俺も後ろを向いて雨の状況を確認する。
「浴槽をひっくり返したみたいな雨だね」
俺がそう言うと氷見さんがふふっと笑う。
「バケツじゃなくて?」
「それのもっとすごい版かな」
「そうだね。結構足元とか濡れちゃってるし……ね、砺波さん。雨が落ち着くまで寄ってく?」
「どこに?」
「私の部屋」
「えっ……」
それはモラル的にどうなんだ、という懸念と、土砂降りで濡れた足が蒸れていることを思い出し、このまま靴を脱ぐととんでもない臭いを発してしまうことに気づく。
と言うか何なら後者の問題のほうが大きいまである。
「あー……ど、どうかな……」
「別に何もしないよ。髪を拭くタオルとお茶くらいは出すけど」
氷見さんはにわかに緊張しだした俺をほぐすように穏やかに微笑む。
だがこの時間に女の子の部屋に上がり込む行為がどうだというよりは足の臭いの方が気になっているだけなのだ。
「こっ、この時間にお邪魔するのはさすがに悪いしなぁ――あ」
どう断ろうかと思っていた矢先、外の雨音が急に弱まった。
「今がチャンスかな。今日は帰るよ」
「今日は……ね。ばいばい、砺波さん。また来週ね」
氷見さんは残念そうに俯きながらも小さく手を振ってくれる。
「うん。また来週。おやすみ」
俺はそのまま踵を返し、傘が不要なんじゃないかと思うくらいに弱まった雨の中、自宅へと向かった。
◆
氷見は砺波が見えなくなるまでエントランスに立って後ろ姿を見送る。
曲がり角の先に砺波が消えていったことを確認すると、氷見は鍵を取り出してエレベータへと向かった。
「今がチャンスだったはこっちもなのにな。天気のばーか。空気読めっ」
エレベータに乗り込んだ氷見はボソリと下を向いて呟いたのだった。
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