第7話

 金曜日、少し残業をして店に到着。店内に入ると、俺の定位置には見知らない男がいて氷見さんに話しかけていた。


 当の氷見さんは目も合わせようとせずに気だるそうに頬杖をついて正面を向いている。


 俺が少し離れたカウンター席に立ち、荷物を床に置く。


 それとほぼ同時に氷見さんがグラスを持って隣に移動してきた。


「おそーい」


 氷見さんはそう呟いて俺の手を握ってくる。


「へっ……」


 いきなりのボディタッチに驚いていると、氷見さんは俺に後頭部を向けて、本来の俺の定位置にいた男を威嚇した。


「んだよ……彼氏持ちかよ……」


 男はそう言ってテーブル席の方へ立ち去っていく。それを見届けた氷見さんはすぐに手を離した。


「ごめんね、砺波さん。あの人がしつこくて」


「なるほどね……黒部は助けてくれなかったの?」


「今日はお休みなんだって」


「あ……そうなんだ」


「だから……お見送り、ないんだよね?」


 氷見さんは質問の意図を悟らせないような無表情で尋ねてくる。


「ま……そうだね」


 俺も特に感情を込めずに返事をすると氷見さんは「ふぅん」と言って焼酎のグァバジュース割が入ったグラスを手にした。


「けど……メンタル強いよね、ああいう人」


 氷見さんはそう言って誰もいない俺の定位置を見る。


「そうだよね。無視する氷見さんもなかなか強い気がするけど」


「内心ビクビクしてたよ。砺波さんも強そうだよね。落ち込む日とかあるの?」


「うーん……強いってか安定はしてるかも。単に無風で味気なくて、ルーチン化してるだけだろうけど」


「私もルーチンの一部?」


 氷見さんはニヤリと笑ってそう言う。


「どうだろうね。けど、最近は月曜から尻上がりに調子が良くなるんだよね。つまり……週の後半が楽しみだからってこともあるかな」


 最近は週の後半はテレワークで就業後に即新作ゲームをプレイできていてそれが唯一の楽しみだ。そんなことを考えながら答えると氷見さんはしばらく固まる。そして、唇を尖らせてそっぽを向いた。


「な……なにか変なこと言った?」


 氷見さんは俺から顔を背けたまま答える。ほんのり顔が赤いのは酔っているからだろうか。

 

「……らしくない」


「え?」


「砺波さんらしくない発言。心をくすぐってくる。そういうところ、良くないよ」


「初めて良くないって言われた気がするよ……」


 落ち込んだ素振りを見せると氷見さんが急いで俺の方を向いた。


「あ、いや……なんだろ……砺波さんが悪いわけじゃなくて……」


 氷見さんは自分の言葉を反芻するように俯き首を横に振る。


「ごめん、言い過ぎた」


 氷見さんが謝ってくる。


「気にしてないよ」


「けど不意打ちだよ。金曜を楽しみにしてくれてるなんてさ。私は別に楽しませてないのに」


「ん? 俺そんなこと言った?」


「……え?」


「最近新しいゲームを買ってさ。週の後半はテレワークがしやすいから時間がたくさん取れて楽しいんだよね」


 氷見さんはポカンとする。その直後、頬を大きく膨らませて俺の腕を何度も叩いてきた。


「いたっ……えっ……な、何!?」


「変な期待させるな、ばーか」


 不機嫌になった氷見さんはそう言うとやけ酒のようにぐいっと飲み物をあおって手で口元を拭う。


「期待って――」


 話を続けようとした時、俺達の方にメイド服のコスプレをしたお姉さんが近寄ってきた。


「あのー……今お時間よろしいですか?」


「あ……はい」


 気まずかったので俺はお姉さんの方を向く。メイド服の胸元からは特大の胸の谷間が見えていて目に毒だ。腕にかけられているバスケットには煙草の箱が大量に入っている。


「これ、試供品でお配りしているんです? タバコって吸われますか?」


「あー……もらっておきます」


 俺は吸わないけど。黒部が欲しがるのでもらっておいて今度渡すためだけに受け取る。


「ありがとうございますぅ!」


 お姉さんは俺の手を握り、その場で飛び跳ねて胸をたゆんたゆんと跳ねさせてお礼をしてくる。


「ど……どうも……」


「お姉さんもどうですか?」


「いらない」


 氷見さんはナンパを断る時と同じくらいのローテンションで断る。


 メイド服のお姉さんは用事が済むとすぐにテーブル席の方へ移動していく。


 氷見さんはまた唇を尖らせていた。


 話しかけづらいオーラを放っている氷見さんの第一声は「爆乳だったね」だった。


「そ……そうだった?」


「見てないわけ無いよね?」


 氷見さんはジト目で俺を見てくる。


「う……ま、まぁ……」


 俺がたじろぐと氷見さんはまた我に返ったように俯いた。


「いや……まぁいいんだけど。私がとやかく言うことじゃないし……砺波さんは今日もいい感じ。良くないのはわたし。本当、こういうところ良くないよ、自分」


 自分に言い聞かせるように氷見さんが呟く。


「ナンパ対応で疲れちゃった?」


「そうかも。外で頭冷やそうかな」


 氷見さんはそう言ってカウンターにある煙草の箱を見る。


「砺波さんって吸う人?」


「ううん、吸わない人」


「そうなんだ。じゃ、クールダウンがてら一緒に吸う人になってみない?」


「大丈夫なの?」


「人生経験かな。一回だけ」


「なるほどね」


 俺は店のバイトの人に声をかけてライターを受け取る。


 そのまま氷見さんと二人で店を出て入口の隣ににある喫煙コーナーへと向かう。


 喫煙コーナーと言っても空の一斗缶が置いてあるだけ。その近くの壁に並んでもたれかかり、氷見さんに煙草を一本渡す。


 氷見さんが口に煙草を咥えて目を積むり、ライターで火を付ける。その一連の動作がなかなか様になっていた。


「……ん? あれ? つかない……」


「吸いながら火をあてるんだよ」


「うーん……つけて?」


 氷見さんは自分が咥えていた煙草を俺に差し出してくる。


「えぇ……新しいやつでいいじゃん」


「もしかして砺波さんって間接キスとか気にする人?」


「いやまぁ……一応気にしてみただけかな。いちいち過剰反応はしないけど」


「だよね。コテコテだし。じゃ、これで」


 俺は氷見さんから受け取った煙草を咥えて火を付ける。


 煙が出始めたところでまた氷見さんに受け渡した。


 氷見さんはそれを咥えて一吸い。


「けほっ……うぇえ……なにこれ……」


 氷見さんは目に涙を浮かべて感想を述べる。


「ま、そんなもんだよね。もらうよ」


 氷見さんは「ん」と言ってまた煙草を俺に渡してくる。


 俺が一人で吸うところを氷見さんが眺める構図が完成した。


「女の人が吸ってるとさ、よく男の影響って言われがちだよね」


 氷見さんは俺の吐き出した煙の行方を眺めながら呟く。


「確かにね」


「もし私がこれでハマっちゃったら、なんて言えばいいのかな。砺波さん、彼氏じゃないし」


「なんだろうね」


「砺波さん、でいいか。誰かに『元カレが吸ってたの?』って聞かれたら私は『ううん、砺波さんだよ』って答える。『砺波さんって誰?』って言われたら笑って誤魔化すんだ」


「なにそれ……」


「私がヤニカスになった時のシミュレーション」


「ならないでしょ……」


 氷見さんは「まぁね」と言って笑う。


「それに、どっちかと言えばあのお姉さんを思い出すのが正解な気がするけどね」


「煙草を吸うたびに爆乳を思い出すのかぁ」


「言い方」


 俺が突っ込むと氷見さんは俺に向かって手を伸ばしてきた。


「もう一回吸ってみたい」


「ハマった?」


「ううん。ただの検証」


 俺は吸いかけの煙草を氷見さんに渡す。


 氷見さんはそれを人差し指と中指ではさんで咥えると煙草をふかした。


 俺にかからないように顔をそらして煙を吐き出す姿は様になっていて一回り年下には見えない。


「分かんないね」


 氷見さんは俺に顔を見せないまま呟く。


「何が?」


「タバコも間接キスも爆乳も。何が良いんだか」

   

「きちんと爆乳を思い出してるんだね……」


 この日以降、俺と氷見さんの間ではタバコの匂いと爆乳がイコールで結ばれるという不思議な等式が出来上がってしまったのだった。

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