第4話
いつものようにカウンター席に氷見さんと並んで立って金曜日の夜を過ごしていると、隣から「ヒック」と可愛らしい声が聞こえた。
チラッと横を見ると氷見さんが顔を真っ赤にして口に手を当てていた。
俺の視線に気づいた氷見さんがこっちを向く。珍しく慌てふためいた様子で瞬きを繰り返しながら唇を噛んだ。しゃっくりを聞かれたのが恥ずかしかったのかもしれない。
「記念すべきファーストしゃっくりかも」
「人生で?」
「だとしたらしゃっくりだって自覚すらできないかもね。もうあの頃の私には戻れないんだ――ヒック」
いつものように真顔でボケようとしているのにしゃっくりに邪魔をされてしまう。鬱陶しそうに顔をしかめた氷見さんは焼酎のグァバジュース割をグイッと流し込んだ。
どうやら恥ずかしかったなんていうのは俺の都合のよい妄想だったようだ。
俯きがちに酒を飲み込んだ後、また下を向いてしゃっくりを無理矢理抑え込んでいる姿は不治の病を抱えた幸薄の美女にすら見える。
「しゃっくりってさ、いつかは止まるはずなのに出てる最中は『もう一生このままなんじゃないか』って絶望しそうにならない?」
「分かる。今回は本当にこのまま止まらないかもよ?」
「それは困るなぁ――ヒック」
氷見さんはそんな事あるわけないだろうと高をくくったように笑うも、会話に割り込んでくるしゃっくりで再び顔をしかめた。
「しゃっくりが一生止まらなくなったとして、それってどれくらいのマイナス要素なんだろうね」
氷見さんが思いつきの雑談を放り込んできた。
「どれくらい、かぁ……」
「例えばさ、砺波さんが婚活していたとして――ヒック……婚活していたとして、すっごいタイプの人が街コンにいると。だけどその人のプロフィールの特技の欄に『健康上の問題はありませんが、しゃっくりが止まりません』って書いてあるとする。どうする?」
「うーん……それって特技なの?」
「じゃあ砺波さんならどこに書く?」
「備考欄とか……かな?」
「備考って言うほど軽くなくない? 一生止まらないんだから」
「確かに……一生ってわかってるなら持病だし初対面で言えるのかな……うーん……まぁけど、隠すわけにもいかないしなぁ……どうせ話してたらしゃっくりが出ちゃうわけだし」
「じゃ、特技欄ね。で、どうする? そんな人がいたら。冠婚葬祭でも止まらないんだよ? 結婚式も親の葬式もしゃっくりしてるの」
難しいお題だ。お坊さんが御経を読み上げている最中も隣からヒックヒックと聞こえてくるのはさぞかしシュールな光景だろう。
「ま、健康に影響がないなら良いんじゃない? 本人がそれでも前向きに生きているならそれが一番だよ。だから、死ぬまで一緒にいたいって思えるならしゃっくりはどっちでもいいかな」
俺の答えを聞いた氷見さんは目を見開いてパチクリとさせる。
「お……大人な答えだ……」
「もう30になるからね。見た目がどうだとかそんな事ばかり気にしてられないよ」
「ふぅん……じゃ、私もこのまましゃっくりが止まらなくても大丈夫か」
「というかもう止まってない? さっきから出てないよ」
氷見さんは真顔のまま固まる。しゃっくりの周期2回分ほど確認のためにじっとして止まったことを確認するとニッコリと笑った。
普段が無愛想な分、たまに見せる笑顔の破壊力がものすごい。思わずビールを口にして顔がほころぶところを隠す。可愛いだなんて思ったことがバレたらまたけちょんけちょんにイジられるんだろうし。
「良かった……止まってくれたみたい」
「そりゃいつかは止まるからね……さっきの話だってありえない前提だったわけだし」
「そうだよね――ヒック」
気を抜いた瞬間に氷見さんはまたしゃっくりをしてしまった。
その瞬間、二人で顔を見合わせニヤリと笑うのだった。
◆
氷見さんと二人でローテーションのまま盛り上がっていると、気づけば終電の時間になってしまった。
「氷見さん、そろそろ帰らないと終電なくなっちゃうよ」
氷見さんはスマートフォンで終電を確認して頷く。
「うん、今から出れば間に合うから大丈夫」
「そりゃ良かった」
帰り支度をする氷見さんを眺めていると、その視線に気づいた氷見さんが不思議そうに俺に視線を返してくる。
「砺波さんは帰らないの?」
「うん。うるさい人がいるから」
俺はちらっと閉店作業をしている黒部を見る。
「砺波〜今日も送って〜」
俺の視線に気づいた黒部がそう言ってくるので「了解」と返す。黒部の家はここから徒歩圏内なので、そこまで送ってから俺はタクシーで帰宅する。通り道に治安の良くない場所もあるので念の為の配慮だ。
遅くまで店に残った日はよくあることなのでそれ自体は普通のこと。
氷見さんを見ると、少しだけ唇を尖らせていた。
「ど、どうしたの?」
氷見さんはハッとした顔をする。そしてすぐに首を横に振った。
「ううん。なんでもない。また会おうね、バイバイ」
片付けを終えた氷見さんがカバンを持って立ち上がる。
「あ、駅まで送ろうか? 多分まだ時間かかりそうだし」
氷見さんは俺の提案に肯定も否定もせずにじっとこちらを見てくる。
少しの逡巡を経て氷見さんが出した答えは無言で俺との距離を詰めることだった。
満員電車の中でしかありえないくらいの距離。そこで氷見さんは人が減って静かになりつつある店内に響かないくらいの声量で口を開いた。
「砺波さん、覚えておいて。私を駅まで送ってくれる日は一緒に電車に乗ってもらうから。砺波さんの家の場所は関係なくて、下り方面に各駅停車で6駅ね。覚悟、ある?」
うーん……どういう意味だ? 終電なら普通に乗るけど……
「うーん……あぁ! じゃ、大森か! 家、近いね」
氷見さんは俺の言葉を聞くと呆気にとられた顔をする。
「あ……ご、ごめん! キモかったよね……方向が同じだから順番を覚えててさ!」
「ふっ……ふふっ……」
氷見さんはその場で身体を折り曲げるくらいにツボに入って笑っている。
「な……何か変なこと言った?」
「ううん。砺波さんのそういうとこ、いいよね」
「そのフレーズが俺のことをイジってるってやっとわかってきたよ」
「そんなことないよ。本気でそう思ってるから。じゃ、またね」
氷見さんはニッコリと笑うと伝票を持って店の出口前にあるレジへ向かう。黒部がその対応をしている様子を見ながら、妙に頭に残ってしまう氷見さんの笑顔を押しのけることに必死になるのだった。
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