第35話

「珠桜ちゃんのお弁当ってマサのだよね?」

「えっだ、ダメ」


 珠桜でさえも、葵の行動は読めたらしい。咄嗟に弁当を抱き寄せて、ぶんぶんと首を左右に振る。

 えー、と思ってしまったのは、仕方がない。俺は珠桜にほだされているし、十二分に贔屓している。その子が、自分の弁当を抱えて幼い威嚇をしているのだ。可愛い。可愛いに決まっている。

 思わず、目元を押さえて天を仰いだ。

 珠桜は弁当を守るので俺の動きに気がついていない。しかし、珠桜の弁当を狙っていた葵からこちらは丸見えだ。事の行方を窺っていた和久田だって同じだろう。不審そうな瞳が刺さっていた。


「……あのさ、マサくん。普通に怖いよ」

「きもちわる」

「はぁ? 珠桜が可愛いって先に言ったのは葵だろ」

「あたし、今何も言ってないからね」


 あ、と思ったところで遅い。

 視線を移した珠桜の頬が赤らんでいた。どれだけとうに発言していたとしても、認めることが今更だと思ったとしても、改めて発信することに照れないわけじゃない。

 ましてや、珠桜が反応してくれようものならば、こちらとて狼狽する。


「理充くん、そういうの気をつけたほうがいいと思う」

「……ごめん」


 怒っている、と言うよりは照れ隠し。分かっているから、こっちも素直に返す。掘り返して開き直れるほど、こっちだって褒めることに慣れているわけではない。それも、葵たちの前でやりたいことではなかった。

 珠桜と二人ならあるいは、と考えたのは、どこまで本気だっただろうか。そちらのほうが、逃げ場がないだろうに。


「マサがそんなふうになるなんてねぇ」

「……どういうことだよ」

「珠桜ちゃんには頭上がらないんだなぁと思って」

「そういうんじゃない」

「頭上がらないのは、私のほうだよ」

「……どこが?」


 珠桜が横柄でこっちがタジタジになっている。なんてことはない。だが、逆の心当たりだってなかった。首を傾げると、珠桜のほうが不思議そうな顔になる。

 え、そんな横暴な態度を取っているのか。無自覚でそれはヤバい。


「え、だって、こんなご飯お世話になってるんだから、頭上がらないでしょ?」

「それはいいって言ってるだろ」

「理充くんがよくっても感謝が消えるわけじゃないから」


 こればっかりは、平行線だろう。俺だって、喜んでくれるのは嬉しいし、感謝してくれるのもありがたい。だが、頭が上がらないなんてほどに、恩に感じてくれなくてもよかった。

 だが、律儀でちょっと頑固な珠桜が、この点で引くとは思えない。半眼で見ると、珠桜も半眼でこちらを見ていた。


「本当に仲が良いっていうか、なんていうか。付き合ってるんじゃないんだよね」

「違うよ!」


 感応が良すぎて、心臓がひやっとする。

 いや、意味は分かるし、珠桜の心運びを理解できないわけじゃない。だが、あまりにも反射的なことには、気持ちが怯む。

 しかし、実際怯んでいたのは、そうした張本人だった。はっとこちらを見た珠桜はわたわたと目を泳がせて、手のひらで空気を掻く。


「ち、ちがうよ。違う。そうじゃなくて、ね。分かってるでしょ? 私、あの噂、いいって、そうじゃなくて!」


 人がパニックになっていると、変に冷静になるものだ。俺は目の前の珠桜の肩を叩く。こんなコミュニケーションを取れるようになっていることに驚くくらいには、冷静になれていた。珠桜は慌てて潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。


「大丈夫。分かってるから落ち着け」

「うん、うん」

「勘違いは困るんだよな」

「そうじゃなくて、理充くんに絡んで欲しくないの」


 ……いや、意味は分かる。分かっている、と思う。だが、額面通りに受け取ってしまうことで意味が付随していた。独占欲を剥き出しにしているみたいだ。勘違いどころの話ではなかった。

 葵も和久田もぎょっと珠桜を見ていたが、俺に意見を告げることに懸命な珠桜は周りが見えていない。


「……それは、俺をやり玉に挙げて欲しくないってことだよな」

「うん。そう。不動さん」


 頷くと、珠桜は空気を掻いていた手のひらをぎゅっと拳を握り締めて、葵に向き直った。


「理充くんが探られて、迷惑をかけたくなくて……だから、そういうのはやめてほしい」


 珠桜は過去のことをすべて話していないだろう。その中に、相手の男のことが含まれていたであろうことは、反応を見ていれば想像できた。問い詰めようとは思わないが、安寧を得るために動こうとする珠桜を止めようとも思わない。

 葵には俺がそこまで迷惑に思っていないことは透けているだろう。こんなものだ、と割り切っていた。

 珠桜と急激に仲良くなったのだ。突かれるくらいは想像の範疇だった。葵であれば、そうしてくるだろう。鬱陶しくはあるけれど、それはそれだ。

 だからか。葵は驚いて返事ができていなかった。もしくは、珠桜がはきはきと意見を言うことに驚いたのかもしれない。


「珠桜ちゃんって、真面目なんだねぇ」

「ダメかな?」


 冗談が通じないわけじゃないのだ。ここだけがフックになってしまっている。真面目なことに反駁することもなく、珠桜は確認を重ねた。

 それは場を白けさせることもなく、葵の毒気を抜いたようだ。まずもって、葵は悪意を持って真面目だと言ってはいないだろうけど。


「からかい過ぎないように気をつけるよ」

「……理充くんが大丈夫なら、いいの。邪魔したいわけじゃないから」

「もちろん。マサに遠慮なんてしないから気にしないで!」

「う、うん……?」

「それは気にしろよ」


 珠桜は言うべきことを言ったことで、半分押し切られて頷いている。横から口を出すと、葵はへらへら笑っていた。


「落ちるところに落ちたんだから、それでいいじゃん。マサくんこそ、真面目だなぁ」

「俺に遠慮しないことを落ちに使うなよ」

「小月さんとあおちゃんが仲良くしてくれたら、マサくんだって嬉しいくせに」

「……」


 否定はしない。葵がどうしようといいが、珠桜の関係が穏健にいけばいいとは思っている。二人が良好な仲でいられるのならば、俺に文句はない。

 黙った俺に、和久田がしてやったりの顔をする。釈然とはしないが、反論の余地もない。


「ふふっ、マサは人が良いもんねぇ。可愛い珠桜ちゃんのためなら何のそのでしょ」

「やかましい」

「否定しないじゃん」

「気をつけたほうがいいって言ったのに」


 二人に口々に言われて、俺は白旗を揚げる。

 割りには合わない。微妙なバランスの上であったし、順調とは言い難い。まだまだ、中途半端なんだろう。それでも。ひとまず、珠桜の気合いが空回りせずに終わったことには違いない。一段落、であるのだろう。

 はぁと息を吐いて、俺は約束の昼休みを過ごした。




 スーパーへ通うことは日常だ。数日分を買いだめすることは以前と変わりがないが、そのスパンは短くなっている。そして、今日はその道に、イレギュラーが混ざり込んでいた。


「これ、朝の工作無意味にならないか?」

「マンションは私たちだけだから、大丈夫じゃない?」

「その確証はどこに……」

「だって、一度も見たことないよ? 理充くんずっと住んでるんだよね?」

「確かに」

「大丈夫でしょ?」

「そういうことにしておこうか。それより、今日はどうした?」

「たまにはいいかな、って。買い出しも何もかも全部理充くんに任せっぱなしだったから」

「別に気にすることないのに」

「一緒にやってみたいだけ」

「……珠桜はさ、俺のことを気をつけるように言うけど、珠桜だってもう少し気をつけたほうがいいと思う」

「気をつけてるよ、私は」


 どこが、と言うより他にない。

 じっとりと見下ろしてみたが、珠桜はけろりとしていた。人の目を気にする珠桜がこんなにも自由でいられるのはいいことなのだろう。それは嬉しい。

 だが、気をつけているとは言い難い。その意見を翻すことはできなかった。


「そんな顔されてもなぁ。私は理充くん以外に言ったりしないもん」

「俺だって、珠桜以外に言ってないからな」

「……そういうとこじゃない?」

「ブーメランだろ」


 お互いに、気恥ずかしい台詞を相手にぶつけている。どちらから一方的なんてことはなく、それこそバランスが取れていた。

 はたして、これを公平と呼べるのかどうかは定かではないけれど。


「不動さんたちといるときに言わなくてもいいと思う。付け入る隙は理充くんが作ってるって分かったから、あんまり気にしなくていいってことが分かったのはいいことだけど」

「葵に影響を受けるのはやめてくれ」

「不動さん、良い子じゃん」

「遠慮がないのは見てれば分かるだろ。困ってたくせに」

「それはそれっていうか」

「げんきんだぞ」

「料理してもらえるって分かったら頷くくらいにはげんきんだよ?」

「開き直るなよ」


 葵たちとは対応が違う。それでも、生き生きと並び歩く珠桜が見られるのなら、まぁあいい。

 俺は珠桜に対してかなり甘くなっているだろう。何より、今日はその感覚が強い。乗り越えたばかりのその日くらいはいいだろう、というのは、いかにも贔屓だろう。


「理充くんと仲良くなれたからいいんだよ。着替えてそっちに行くね」

「……分かった」


 もう言っても無駄だろう。もしかすると、珠桜も今日はテンションがおかしくなっているのかもしれない。イレギュラーばかりの一日の挙動にこだわっても仕方がない、はずだ。今日だけだという希望に縋ることにした。

 うちに来ることは、もう異質でも何でもない。くすぐったさが消えるわけではないけれど、動揺することはなかった。

 部屋に戻って、鍵は閉めずにキッチンでの作業を始める。手を動かして数分。ノックと


「お邪魔します」


 と礼儀正しい声かけで扉が開かれる。

 赤の他人でないことを伝えるには、こういう原始的な方法を採るしかない。マンションだから、まだできるやり方だ。または、別れてから訪ねてくる時間までが短く、分かっているからこそのもの。続けていくには、問題しかない。

 いつだって、この時間配分とも限らないのだから、勢い告げてしまった合い鍵の提案は妥当なはずだ。

 ……ふとした瞬間に、こうして自分の発言へ理屈をいくつもくっつけていた。悔いているわけではない。だが、大胆過ぎたのでは、と小心になる。それだと言うのに、珠桜は軽々そこを越えてくるのだ。


「理充くん」


 カウンターの向こうで俺の調理を見ているのはすっかり見慣れた風景だった。狭くもない部屋で、俺たちはキッチンのそばの狭い区画で交流を持っている。

 そこに寄ってきた珠桜が、片手に何かをぶら下げていた。


「合い鍵だよ」

「……自分から言っておいてなんだけど、それ本当にいいのか」

「もう不動さんたちと引き合わせてもらったし」


 何事もないように告げる珠桜は、からっとしている。衒いなど微塵もない。

 信頼は暖かいが、がっかりもしていた。そうしたものを飲み込んで、鍵を受け取る。自分から言い出したことだ。


「分かったよ。ありがとう。うちのは引き出しにあるから、持っていってくれ」

「ふふっ、何だか照れくさいね」

「分かってるなら言うなよ」


 飲み込んだもののひとつをさらりと告げられて、ぶっきらぼうになった。珠桜はクスクスと笑い声を上げる。

 手のひらの上のようで腑には落ちない。けれど、リラックスしている珠桜の姿は、自分だけが許されているものだ。

 隣人として、理解していた。けれど、しばらく距離を置いてみて、それが切実であることに気がつく。葵たちへの態度を見れば、より一層に顕著だ。その特異性に気がついてしまったら、ただでさえほだされていたものがブーストされる。底など見えるはずもない。

 観念した俺は、引き出しに向かう珠桜の姿を横目に、包丁を手に取った。

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