第33話

「そう。しばらく。俺は作るの好きだし、珠桜は食べるの好きだし、ちょうどいいよな」

「私、別に食べる専門じゃないけど」

「作れるようになりたいんだっけ?」

「……ちょ、ちょっとだけ?」

「何だよ、それ」


 少し前までは、もうちょっとやる気があったような気がする。その姿勢がなくなっているように思えた。

 苦笑すると、珠桜は唇を尖らせる。仕草のひとつひとつが、逐一心を痺れさせられているような気がした。俺は今、珠桜に対する防御力を失っている。


「だって、理充くんが心配しなくてもいいなんて甘やかすんだもん」


 不貞腐れたような言い方が甘く聞こえるのは、俺の自意識がおかしい。色眼鏡が幾重にもかかっている俺に判断力などあるはずもなかった。


「だって、珠桜が俺の料理がないと生きていけないなんて可愛いこと言うからだろ」


 ぽろっと零れたものに気がついたのは、珠桜が目を見開いてからだ。

 可愛いことじゃない。嬉しいことだろう。いや、思っていることに変わりはない。けれど、それを口にするつもりはなかった。今度は額では済まずに頭を抱えそうになった。


「しょうがないだろ! 嬉しかったんだよ」

「嬉しいと可愛いが同一にはならないよ!」


 こちらも大概だが、あちらも恥ずかしかったらしい。赤くなっている。可愛いのなんて、明らかだろうに。何を照れることがあるというのか。


「可愛いよ、珠桜は!」

「パニックにならないでよ!」

「本気で言ってるわ!」


 パニックだった。珠桜の指摘はもっともだ。けれど、主張だって本気だった。

 珠桜は薄い灰色の瞳を落とさんばかりに見開いて、耳まで真っ赤になっている。唇を引き結んでしまった林檎は美味しそうだった。


「……嬉しかったんだよ」


 取り繕うには後の祭りだ。

 どうにか気を取り直して、言葉と話を元へと戻す。戻せている気が更々しなかったが。それでも軌道修正するより他に、状況を推移させる方法がない。

 ここには二人しかいないのだ。他の誰も、この状況をひっくり返してはくれない。この状況をずっと望んでいたのだから、自分たちでどうにかすることを厭うつもりはなかった。ただ、すわりの悪さにじたばたしたくなるというだけの話だ。


「肉じゃがは、俺にとって大切な料理だし、珠桜が気に入ってくれて嬉しいし、そのうえでそういうことを言うから、調子に乗る」

「……理充くんは、もっと調子に乗っていいと思う」

「珠桜は俺を甘やかし過ぎてる」

「理充くんに言われたくないんだけど」


 珠桜に殊の外甘えられているなんて、改まって感じることはあまりない。自意識過剰な面がそういう感想を抱かせることがあるが、それとこれとは別だろう。


「珠桜には負けるって話。本当に調子に乗ると何言い出すか分からないぞ」

「試しに言ってみるって言うのはありじゃない?」


 程度の予測は立てて発言するべきだ。

 甘える側が忠告することではないけれど。けれど、珠桜の発言は迂闊としか思えなかった。そう思える自分の発想が一方向へ傾いているだけだろうが。それを振り払っていくと、残ったものは直前の発想だった。


「合い鍵、交換しないか?」


 粗略にまとめると、いくらでも深読みできそうな発言にしかなっていない。元より、棚上げにすべきだろうと判断した発想であったのだ。それを放言すれば、そうなるのも必然と言えた。

 珠桜はぱちぱちと瞬きをする。癖なのかと思うけれど、それだけ俺が驚かせているだけに過ぎないのかもしれない。俺自身、口にした響きには面食らうものだった。


「今日みたいなことがあったら、いつも扉開きっぱなしってわけにはいかないだろ? だったら、と思って。珠桜だって、しょっちゅうこっちに来るし、合い鍵あれば楽だろ」

「……看病するときも、戸締まりを気にしなくてもいいもんね」

「だろ」


 本気で言っているのか。混ぜっ返しているだけなのか。ただのノリなのか。

 珠桜のテンション感は分からなかったが、発案したほうとしては相槌を打つしかなかった。求めたのはこちらだ。アグレッシブな感情に突き動かされていた。


「じゃあ、そうしようか」


 自分で発案したし、精力的に動いているのも自分だ。頷かれて驚くなんて馬鹿だろう。けれど、スムーズに事が運び過ぎて驚きが隠せなかった。


「なんでそんな顔するの」


 むぅと唇を尖らせられる。可愛いからやめてくれ、とは重ね重ね過ぎて言えない。


「あんまりあっさり言うから。誰でも彼でも心許すなよ」

「理充くんのことは信頼しているから特別なんじゃん」


 人のことをどうこう言えた義理か。今度こそ、本当に頭を抱えてしまった。珠桜の反応を視界の隅に捉えることも難しい。


「本当に、そういうの、簡単に言うなよ」

「理充くんも大概だから、お返し」

「……そりゃ、どーも」


 風邪のときに、自分がどれほどの発言をしたのか。

 もしや、記憶にあるよりもずっと、妙なことを口走ったのではあるまいか。確かめたほうがいい気もしたが、知らぬが仏という言葉もある。これ以上の墓穴を掘るのはやめておいた。事あるごとに引き合いに出されるのは困惑するが、だからといってこれ以上居たたまれない気持ちになりたくはない。


「お互い様ってことでいいでしょ? そうしてきたんだもん」


 お互い様というか、お互いに交換条件を挙げていたというか、助け合ってきた。そういう意味では、台詞回しは合っている。内容がそのまま即しているとは言い難いが。

 それでも、表面上はバランスを取ってきたつもりだ。その流れを汲んでいると言われれば、苦笑いながらも頷くしかできない。


「だからね、合い鍵は本当はお互い様だからちょっとズルいんだけど、お願いがあるの」

「ズルいってことはないよ。俺から言ってるわけだし。どうした?」


 珠桜がお願いなんて言い始めるのは、初めてであるかもしれない。夕飯のリクエストくらいはあったが、あれはこちらが先に聞いている。

 そうではない。自主的なことは珍しくて、俺は心持ち背筋を正した。気負いが生まれるのは、庇護欲のひとつであったかもしれない。


「お昼、一緒にしてもいい?」

「それくらいいけど……」


 構えたわりになんてことのないお願いにけろっと頷いてから、理解が届く。それはつまり、と辿り着いて止まった。

 それに、珠桜はへにゃんと眉尻を下げて笑う。


「不動さんとかと、話してみようかなって」

「平気か?」

「私、そこまで苦手じゃないよ。でも、勇気がなかったから」

「……そうだな」


 確かに、珠桜は交流を持ち始めれば、軽やかに会話できる。そりゃ、最初は躓いていた。ただその期間は、俺の戸惑いも大きかったので、それこそお互い様だろう。それくらいのもので、他人に比べて飛び抜けて問題があるわけではない。

 そうでなければ、こんなにも仲良くなっていなかったはずだ。


「だからね、理充くんの友だちだし、話しておこうと思って」

「そう……話しておこうと思って?」

「色々と探られそうだから、それより先に言っておこうと思って」


 ふんすと箸を持つ手を拳のようにしてみせる珠桜は、コミュニケーション方法がズレている気がする。勇気を持って行うことがおかしい。けれど、会話してみようという意気に水を差すのは野暮だろう。


「じゃあ、今度から弁当の渡し忘れを気にしなくてもいいな」

「朝、会う理由はなくなっちゃうね」

「……出る時間は、一緒だろ」


 昼休みをともに過ごすのと、朝の時間を失うこと。合計すれば、恐らく時間は増える。

 けれど、朝方の時間というのはテリトリー内でのやり取りだ。いってきます、と互いに言い合う時間は悪くない。

 自分だけとのやり取りに、こだわっていることを実感する。そんなものは分かっていたつもりだ。だからこそ、ここのところめっきりやる気をなくしていたのだから。そうして遠ざかっていたものが、戻ってきている。その一部が削られると思うと、もったいなさが擡げた。

 いみじく漏らした俺に、珠桜はくつりと喉を鳴らす。見透かされているようで、間が悪い。


「一緒に登校する?」

「……いいのかよ」

「理充くんが噂になろうかって言ったんじゃん」


 それは今日。送り届ける限定的なものだと思っていた。連続したものとして想像できていない。とはいえ、その覚悟がないわけではなかった。


「珠桜がいいなら、そうしようかな」

「隣人なのもバレるかも」

「それはちょっと困る」

「理充くんの基準ってどこにあるの?」


 暗黙の了解は、暗黙のままだ。擦り合わせなんてしていないのだから、すれ違うことも疑問が浮かぶこともある。俺自身、その基準は見定めきれていない。


「うーん……隣人はバレると家に来たいとか言い出しそうだから。それはちょっと? せっかくの時間を邪魔される感じが?」


 口にしてみると独占欲や優越感が滲んでいるようで、気忙しくなる。珠桜がどんな反応するか分からなくて怖い。


「そっかぁ。私も家ではのんびりしたいから、理充くん以外はいいかな」


 大息を吐き出しそうになるのを堪える。

 蓄積したダメージはどうすれば回復されるのか。それを治癒してくれるのも珠桜なので、俺は混沌に陥っている。これを珠桜のせいというのは、八つ当たりだ。


「……だから、隣人なのは秘密な」

「うん。じゃあ、適当なところで落ち合う?」

「登校は諦めないのかよ」

「だって、微妙に大変だったでしょ? ずっとちまちま様子見ながら後ろをついてくるの」

「まぁ……近付き過ぎないようにって変に意識してたしな」


 マンション付近でなければ、普通にしていればいいのだろう。登校する生徒の中に埋もれて、自分たちの関係が見えるわけでもない。だから、無用の気遣いではあったが、自分たちの中では関係性が分かっている分、気を回さずにはいられなかった。


「それはナシ」

「……分かった。適当にそうやるってことで。お昼、ロビーのベンチでいいのか?」

「うん。行くね」


 ふんすと気合いを入れているのは、やっぱりズレているような気がする。

 けれど、前向きな笑顔を見られるのならば、俺はそれでよかった。何ともげんきんだし、贔屓ばかりだし、視野が狭い。

 それでも、そうしてご飯を食べて笑う珠桜がそばにいてくれることがすべてだった。

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