第32話
帰宅部は下校が済んでいる。部活生や生徒会。まだ残っている生徒のいる校舎を二人で並んで歩いた。こんなふうに過ごすことになるとは。突如として回ってきたタイミングには、ちょっとばかり浮ついている。
それでも、本来の目的は忘れずに。珠桜の様子を見ながら、マンションへの帰路を辿った。
声をかけられずとも、知り合いでないにしても、誰かに見られるのは間違いない。即座に噂になんてなりようがないだろう。だが、今まで伏せていた秘密を人の目に晒す。その緊張はあった。
それがマンションへ着くにつれ弛んで、日常に戻ってくる。いつか明かすときがきたとしても、この気楽なテリトリーがなくなるわけではない。その気付きがあったことは、甲斐があった。
二つの扉の前で、立ち止まる。こんなことも初めてでくすぐったい。
「じゃあ、これで」
「食材持っていくから、休んでて」
「いいの?」
「しばらくはもう解除でいいんだろ?」
「急じゃない?」
「いつからでも再開できるようにしてあったから」
口にしてから、そのときを待ち侘びていたような自白だったと気がつく。
珠桜は申し訳なさそうにはにかんだ。控えめな笑みが、心のツボを押していく。
「ちゃんと横になっててくれよ」
「そんなに心配しなくても」
「いいから。過信しない。気が抜けただけで倒れるくらいなんだから、休んで損はないだろ。そっちで作るから」
「過保護」
「結構だ」
それほど、心臓に悪かったのだ。
ここまで安全に来られたと言っても、部屋に入った途端に気が抜けることは大いにありえる。部屋を訪ねて倒れていたら。そんなもの想像だけでぞっとした。
俺が心底真面目に言うからか。珠桜も観念したようだ。頷くのを見届けて、俺は自室へ戻ってキッチンで移動する準備をした。
珠桜に元気を出して欲しい。精神的なものと結びついているのは、肉じゃがだった。珠桜の部屋にも、一通りの調味料は揃っている。煮物を作るのには問題ない。それを計算しながら、冷凍ご飯を取り出してから部屋を出る。
珠桜が部屋の鍵を閉めずに奥へ入ってくれたことを見送っていた。俺はその扉を開いて、
「邪魔するよ」
と声をかけて上がり込む。
今は別れてから訪ねるまでが即時であるから、問題はない。だが、これから先もこんなことがあったときには困る。
逆にしても、行き来に扉の開閉問題はつきまとうものだ。今まで気にしていなかったのは、どちらかがいるときだけに限っていたからに過ぎない。だが、相手が不調であれば、こういう状況は発生する。
合い鍵、と浮かんだ思考は、あまりにもこちらに都合が良い。提案するには、ハードルが高かった。
それを一旦棚に上げて、珠桜のキッチンへと入り込む。自宅と同じ作り。初めてここに立ったときよりも、身体に馴染んでいるような気がした。
その中に立って、料理へ集中する。しばらくの間、面倒くさがって手抜きをしまくっていた。その気怠さはどこへいってしまったのか。げんきんなまでに、動きが軽くなっていた。重傷だ。
珠桜は言いつけを守っているのか。寝室と思しき扉から出てこない。自分から言いつけておいてなんだが、いいものか、という疑問も浮かんでくる。
男が入ってきてこの平穏。慣れと言われればそれまでで、信頼と言われれば裏切れない。そもそも、そんなつもりもないけれど。けれど、やっぱり少しは思う。葵たちに散々突かれた面が幅を利かせていた。
内側の形が掴めていない。そのままにしているから、周囲の言葉で容易に変容する。……本当に、変容だろうか。光に塗れて見えていなかったものが、徐々に姿を現しただけに過ぎないだけではないか。
それを感じながらも、手を動かす。後回しにしているわけではないが、キッチンにいる以上は、動きが鈍ることはなかった。
そうして、完成した肉じゃがと味噌汁。青菜漬を用意して、テーブルに並べる。うちとは違って、ダイニングテーブルは少し狭いけれど、向かい合えば二人分を並べることはできた。
当たり前にそうして準備している自分の図々しさに気がついたのは、後のことだ。準備を終えてから、リビングで声を上げる。
「珠桜、準備できたぞ」
寝室が二部屋のどちらか聞いていれば、ノックして静かに声をかけることもできた。けれど、知らぬものは仕方がない。
間もなく、珠桜はリビングへと顔を出した。俺の夕飯を目に留めると、ぴかりと目を光らせる。しばらくぶりなのは、俺も珠桜も同じだ。
「美味しそう」
表情にも声音にも、その感想が滲んでいる。全身で喜んでくれるだけで、心が満たされた。俺はいつからこんなに安くなったのだろうか。食べて欲しい、という欲求が満たされて初めてというものだろうに。
珠桜が席につくのと同時に、こちらも席につく。
「いただきます」
「召し上がれ」
この辺りは、俺の部屋でのやり取りと同じだ。同じであるからこそ部屋の違いが顕著になるし、久しぶりの感慨も持つ。
それを感じながら、珠桜が箸を動かすのを漫然と眺めていた。凝視するものじゃない。そう保健室で言われたばかりだというのに、反省も何もない。珠桜に目を奪われるのは常になりつつあった。
「とっても美味しいよ」
「……ありがとう」
「理充くんの肉じゃがは優しくて素敵。私、大好きだよ」
とろりと目を細めて笑う珠桜の奥では、夜の始まりのような薄い紫色が広がっている。その中で笑う珠桜は、一番星よりもずっと眩しい。はっとするほどに奇麗で、暴力にも等しい真っ直ぐな言葉にぶん殴られた。
「そう、か」
「うん」
俺の感動など、ちらとも届いていないのか。気に留めていないのか。それとも、普段通りに喜んでいると流しているのか。満面の笑みで頷いてくれる。受けた衝撃が、じくじくと痛みを残していた。
「いつも、ありがとう。元気、出たよ」
もう、やめてくれ。そう叫び出しそうになるくらいに、大盤振る舞いだった。珠桜にそんなつもりはないだろう。それでも、追い打ちをかけられて平然とはしていられない。
思わず、額を押さえて肘をついてしまう。堪えきれなかった俺の行動に、視界の隅で珠桜が瞬きを連射していた。
「理充くん?」
「……、珠桜が元気になる力になれたなら、それはよかった。珠桜が元気になれるなら、俺はいつだって、食事を用意するよ」
「いつだって、って大言じゃない?」
珠桜が苦い顔になる。
……確かに、大言かもしれない。この関係がずっと続くはずもないのだ。いつだって、なんて理想論甚だしい。ただ、心意気を持ち出すのなら、存立する。
珠桜は俺がそこまで大仰に捉えているなんて、考えてもいないのかもしれない。俺の生活をどれだけ侵食しているのか。珠桜は分かっていないのだろう。生き甲斐をなくしたかのような、そんな虚脱感を抱いていたなんて思いもしないのだろう。
もちろん、それは知る由もないことであるし、伝えるには重すぎた。そもそも、気恥ずかしくて口にできる気がしないけれど。
けれど、大言じゃないのだ。
「……振る舞うよ。珠桜が嫌にならない限り」
「嫌いになんてならないから、困っちゃうなぁ」
本当に困ったような言い方が、余計に胸をくすぐる。追い打ちが数度に亘り過ぎていて、珠桜は俺を再起不能にするつもりなのではないか。それほどに破壊力しかなかった。
そして、珠桜は手を休めてはくれない。
「私、もう理充くんの料理がないと生活できなくなっちゃうよ」
心臓が痛過ぎて呼吸が苦しい。鼻の奥がつんとして、涙腺が緩みそうになった。無意味に瞬きをして、気持ちを落ち着ける。
「冥利に尽きるよ」
「冗談じゃ済まないんだけど」
「しばらくは心配しなくてもいいんじゃないか」
捻り出す軽口が、軽口として機能しているのか分からない。珠桜はぱちくりと目を瞬いて、表情を緩めた。
「しばらく、か」
オウム返しにされて初めて、その期間の不透明さに気がつく。どちらかが何かを言い出さない限り、その期間は続く。終わり時は、自分たち次第だ。そして、現状、お互いに終わりを言い出そうなんて思っていない。
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