第七章
第30話
もうすぐ帰りのホームルームが始まろうというころ。廊下がにわかに騒がしかった。
ざわざわとした空気が伝播していて、目で廊下を撫でていく。顔を出して確認するほどの好奇心はなかったし、他人事だった。
そのざわめきの中を教室へ戻ってきたのは和久田だ。そのときもまだ、俺は他人事だっただろう。それは和久田が委員長だということも加味されていた。
何かがあれば動く。特に和久田は能動的なほうだ。だから、物事に当たる真剣な顔をしていても、その時点では強い興味を引かなかった。大変そうだな、と思っていたくらいだ。
それががらりと様相を変えたのは、和久田が真っ直ぐにこちらへ向かってきたからだった。真剣なときにふざけることはない。それが分かるからこそ、ぴりっとした緊張感が脳髄を駆ける。嫌な予感、というには、感じるのが遅過ぎただろう。
「小月さんが倒れて保健室に運ばれ」
「分かった」
聞き終える前に、答えて立ち上がっていた。和久田が瞠目しているのを視野に捉えながらも、相手もせずに席を離れる。
考えるよりも先に身体が動く。そんな経験はあまりない。勢いに飲まれることもあるが、よそからの刺激に反応しているだけだ。今もそうだと言われればそうかもしれない。
それでも、今ばかりは余所事に意識を回す暇もない。珠桜が倒れた。その衝撃度は、他の何よりも大きい。
大人しくて華奢で、いつも何かに耐えている。俺の前では生き生きしていたが、その性質がそう簡単に変わるわけじゃない。
その珠桜が倒れた。
何があったのか。嫌なことか。ご飯は食べていたのか。巡り出す思考を放棄して、運動神経に回す。
帰りのホームルームをサボることになっても、どうということはなかった。それでも、移動を早歩きに留めたのは、引き止められたりしないためだ。
見つかれば、教室に戻るように言われる率は高い。走って目立とうとは思わなかった。そうした姑息な思考が働いたのは僥倖だったのか。判断はつかない。ただ、無事に保健室へ辿り着けたのだから、どうだっていいことだった。
扉を開いた瞬間に、保険教諭の目がこちらを向く。身が固まったのは一瞬で、脳内はフル稼働していた。一極集中して動ける。その即応力は、ある種の火事場の馬鹿力だったのかもしれない。
「……小月さんが運ばれたと聞いて来たんですが」
「ああ」
「理充くん?」
教諭が頷くと同時にカーテンが緩く開いて、珠桜が顔だけを出してくれた。顔色はよくないが、起きていて反応がある。そのことにどっと力が抜けて、足元がフラついた。
教諭は何も言わなかったが目顔で珠桜を示したので、俺はそちらへと向かう。カーテンの前で止まって、珠桜を見下ろした。
「入っても良いか?」
「あ、うん」
「少し留守にするから、小月さんのことを頼むよ」
珠桜が頷いたところで教諭から声がかけられる。返事をする間もなく、教諭は保健室を出て行った。もしかすると、忖度されたのかもしれない。どういう理由に起因するのかは考えないようにして、許されたカーテンの内側へと足を踏み出した。
珠桜はベッドの上に腰を下ろして休んでいる。白い空間にある艶やかな髪色が、一段と目を引いた。俺はそばに置かれている丸椅子を引いて、そばへと腰を下ろす。珠桜の眉尻がへにょんと垂れ下がった。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっとふらっとして、立てなくなっちゃって」
「……それは大丈夫とは言わない。ちゃんとご飯食べてるのか?」
自然に眉を顰めてしまう。平気だと言われても納得はできなかった。
「珠桜」
「食べてないわけじゃないもん」
子どもじみた言い草で唇を尖らせた珠桜は、掛け布団の上に出している指先を弄りながらそっぽを向いた。
「おい、こら。こっちを見ろ」
ベッドの淵を指で叩くと、珠桜がぎゅっと目を瞑ってから、こちらを一瞥する。縮こまった姿は可哀想だ。俺は珠桜に萎縮して欲しくはない。だが、ここで取り逃がすわけにもいかなかった。
一瞥した後は、また手のひらに視線が逃げる。それを捕まえるために、俺は椅子からベッドの淵に移動して座り直した。ぎしりと鳴るスプリングに、冷静さが呼び起こされそうになったが、引くに引けない。
珠桜も音に反応して、こちらを向いた。
「心配してる」
「……ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃないよ。ちゃんと生活しないとダメだろ」
「……本当に、食べてないわけじゃないの。ちゃんと食べてたけど、上手く眠れなくって、ぐるぐるして……だから、あの、不動さんに声をかけられて」
「葵?」
珠桜の言葉はとりとめがなかった。その中に挙がった名前に眉間に力が入る。
やはり、何かあったのか。葵であれば、悪気なく何かをしでかすことはある。珠桜が倒れるほどのこと。考えると、腸が煮えくり返りそうになる。注意はしたはずだ。葵はそこまで迂闊だったか。いや、直接的とは限らない。
戦う思考を飲み込んで黙っていると、無意識に握り締めていた拳が低い熱に包まれた。はっと我に返って、珠桜を見つめる。
「変なこと言われたわけじゃないから、大丈夫」
「……本当だな?」
しつこく確認をしてしまうのは、珠桜が我慢してしまうこと。葵が強引であること。そのどちらもを鑑みてのことだった。
「本当だよ。大丈夫。すごく、普通だったから。大丈夫なんだって思ったら、気が抜けちゃったの」
俺を引き止めるように手を握り締めたまま、弱気な顔で笑う。こちらもいくらか気を散らして、息を吐き出した。動揺して暴れる心理を落ち着ける。
「体調のほうは?」
「大人しくしてなさい、って」
「おおよそのことに当てはまることを言うなよ。もう歩けるのか?」
「もう少し休んでから、かな」
「……一緒に帰ろう」
するんと飛び出たのは、病人に対する台詞としては的外れではない。しかし、俺たちの間では、特殊事例だった。
珠桜は瞳を真ん丸にして、俺を凝視する。こうも著しい反応をされると、居たたまれない。
「変かよ」
「だって、理充くんはずっとそうしないんだと思ってた」
「それは珠桜だって同じだろ?」
お互いに、暗黙了解だと守ってきた。
相手のことを知られないように。それは後ろめたさからではなく、秘密を守るというポジティブな心理状態からだ。少なくとも、俺の行動はそうした感情からだった。
珠桜はそわりと目を逸らす。
「だって、理充くんと隣人だって二人だけの秘密でしょ……?」
遠慮したような言い方に、横目が混ざる。お淑やかで繊細で、どこか甘えているようにも見えた。これには俺の欲目が入っているだろう。
「そうだよ。でも、だからって、体調不良の珠桜を一人で帰らせたりしないよ」
「……そっか」
小さな相槌だったが、深いものだった。その行間に含むものがあるのか。ないのか。それを看破するのは余談であるだろうし、知っても知らなくても、俺の意見も重さも変わらない。
珠桜が送り届けられるのであればそれでよかった。
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