第29話
*********************
しばらく、という前振りが正しかったのか。自分の中でも答えは出ていない。けれど、平静を保って理充くんと接せられるのか。その自信がなかった。
出がけに顔を合わせれば、挨拶くらいはしている。健康を気遣うような雑談にもならない一言、二言を交わすこともあった。
けれど、それ以外の交流は断ってしまっている。断絶とは言いたくない。それでも、急接近の反動による喪失感と言うのは計り知れなかった。
日常の張りがなく、胸の中がすかすかする。その隙間に、理充くんが責められていないか。嫌な思いをしていないか。どうしているのか。そうした不安と疑問が容赦なく詰め込まれていく。矛盾した胸の内を抱えながら、毎日を過ごしていた。
自分で乗り越えなければ、と再三考える。
ただし、実際のところ、不動さんと大揉めしたわけではない。具体的な事件もないのに、現状を打開する。そのやり方は、ひどく不透明で見通しが立たなかった。手探りどころの話ではない。暗中模索もいいところだ。
そのうえで、理充くんのことに意識が取られ過ぎている。二進も三進もいかなくなっていた。
そのせいで、しばらくと自分が切り出してしまったことに、後悔し始めている。
理充くんが生活に根づき過ぎている。胃袋を掴まれていた。そんなことは、初めて――初めて、肉じゃがを食べたときから、ずっとそうにも等しい。
古い記憶でもそうだったのだ。春から理充くんにご飯を与えられ続けてしまえば、陥落してしまうのも常道だろう。食生活を支配されてしまっては、生活を握られているのも同じだ。食べずに生きていけないのだから。
理充くんに握られている生活の面が多過ぎて、離れてその甘えっぷりに愕然とした。このままではダメになってしまう。
しばらく、は言葉通りにしばらくだ。交流を止めるつもりはなかった。とはいえ、このまま食生活を甘えっぱなしではいられない。
教えて欲しいと話の流れで何となく話したこともある。それを実行に移すべきなのかもしれない。これもまた甘えではあるが、すべてを押し付けるよりは成長するはずだ。
理充くんは料理が好きで、私の分の調理にも苦心していないようだった。カウンター越しの姿は、手際も良くて、とても楽しそうだ。私の遠慮なんて、本当に杞憂でしかなかった。そう見ていて分かるほど、理充くんは料理が好きだ。
だから、過剰に遠慮するのはやめた。それが甘えに繋がっているのだろう。結果として、しばらく距離を置こうと決めた途端に、生活が破綻してくるのだ。
破綻というのは大袈裟かもしれない。私は淡々と生活している。だが、その淡々とした生活こそが、理充くんのいない虚無感だった。
依存している。よくない。
その思考がくるくると回る。下手をすると過去のことよりも、理充くんのことに思考が割かれているかもしれない。
そう思うと、ふっと浮かぶ。馬鹿らしいことで離れる選択をしているのではないか、と。
そうして楽観することもあれば、和久田さんに声をかけられている理充くんを見かけて悲観することもある。
和久田さんが理充くんに声をかけるなんて、日常的にあったことだ。冷や冷やすることなんてない。過剰反応でしかない。そんなことは百も承知だ。そうして承知していたって、どうにもならないのが感情だ。
理充くんは責められているわけではない。理充くんに変化はなかった。いくらかこちらへ視線を投げてくることはあるが、その訴えが自分への悪意だとは思わない。それくらいの信頼はあった。
その信頼に寄りかかってしまえばいい。既に甘えているのだから、何を回避しようとしているのだろうか。
ただ、理充くんに嫌われたくないだけだ。
面倒に思われたくないだけ。
すべてを受け入れて欲しいなんて思っているわけじゃない。他人を面倒に思う瞬間は、いくらだってあるだろう。今までだって、そんなふうに思われたことがあるかもしれない。
けれど、一線を越えて呆れられてしまったら。
そう考えると、不安と恐怖が撹拌された。日々、複雑な感情に翻弄されて、気持ちを乱高下させる。意識が散漫として、目が回っているような気がした。集中力に欠けて、身体が重い。こんなにも感情に身が引きずられてしまうとは思いもしなかった。
美味しい食事って大切だ。
思考が濁ってくると、そんな根源的な感想が浮かんだりもする。思考が拡散されて、有効に時間を使えていない。分かっていても、それを改善するだけの体力もなくなっている。二進も三進も、どころではない。坩堝に陥っていた。そうして、ふらふらとしている。
そこに割ってきた明るい声に、背筋が震えた。
「珠桜ちゃんだ!」
「あ」
杜撰だろう。苦手意識があるにしても、対人関係が難点であったとしても、不都合のある態度だ。
しかし、声をかけてくれた不動さんは気にすることなく、笑顔でそばに駆け寄ってきた。快活な動きにアッシュグレイのベリーショートが似合っている。猫目がにこやかだ。愛想が良くて眩しい。
私とは違う、と思ってしまうのは、卑屈が過ぎるだろう。
「この間は急にごめんね!」
「あ、うん」
勢いに負けていた。ほぼ反射で頷いて、遅れて脳内が言葉を読み込んでいく。
ごめんね。
とても、健全な言葉だ。こざっぱりした口調は良い具合の軽さで、気持ちも軽くした。
「マサがお弁当を渡すくらい仲良くなっているとは思わなかったから、ビックリしちゃって」
「理充くんが振る舞うのってそんなに珍しいの?」
何の葛藤もなく発案されたはずだ。慣れているとそのときは思わなかったが、肩肘を張ってはいなかった。稀有な行動ではないのだろうと、帰着していたのだ。
しかし、不動さんも答えを知っているというわけでもないらしく、首を傾げている。
「うーん? そこまで詳しくは知らないけど、なんか一人の女の子と自分から仲良くなるのが珍しいみたいな? 一人でもへっちゃらなタイプだからさ」
「ああ、うん」
それは間違いない。
私が見つけていなければ、風邪も一人でやり過ごしていたことだろう。ひょっとすると、だましだましで私に夕飯を届けに来たかもしれない。いや、衛生面を気にして、中止にしただろうか。けれど、風邪であるだなんてことは言わなかったはずだ。へっちゃらかどうかはさておき、一人でやってしまう。
頷いた私に、不動さんはそうでしょうとばかりに何度も頷いた。
「だから、珍しいなぁと思ったんだよね。それに、私だって珠桜ちゃんと仲良くしたかったのに、勝手に仲良くなっちゃって教えてくれないから。ズルいなぁって」
ズルい。
私が言われた気持ちになっていた。
確証があったわけじゃない。けれど、ズルいという単語が蘇らせた記憶は、男の子との仲を責められたときのものだった。だから、無意識に自分に向けられたものだと。そう思い込もうとしていたところがあるような気がする。
そこに向けられた真相に、呼吸がしやすくなった。単純だろう。けれど、真実を知るのは大切で、私が臆病になり過ぎていた証左が得られたことは大きい。
不動さんとの衝突ではないのだ、と。冷静さが取り戻されていく。
「不動さんは、どうして私と?」
何度か声をかけてくれていた。気さくもいいところで、誰とでも仲良くなる子なのだろうと断じていたところがある。私個人への感情で動いていたとは知らなかった。首を傾げると、不動さんも不思議そうに首を傾げる。
「転校生だから気になったんだよね」
「それだけ?」
「うん。マサが隣だって聞いたから、接点できるかなぁって期待してたのに釣れなかったんだよね。それなのに、仲良くなってたからズルいなぁって。マサがね、珠桜ちゃんには押せ押せでいっても無駄だろうって」
「……理充くんが?」
「そう。だから、ほどほどにしようかと思って」
「え、あ? うん?」
急カーブというほどでもない。しかし、突然の宣言には勢い頷いてしまう。
これはよくない癖で、考えて発言すべきだ。相手が不動さんだから無事に済んでいるが、そうでなければ大惨事だろう。
「じゃ、今日はこれくらいで!」
さくっとしている。というか、マイペースな不動さんに振り回されていた。
一驚している間に、不動さんはぶんと手を振って去っていく。今度は相槌を打つ暇すらなかった。
宣言は宣言であり、私の返事は関係ないらしい。理充くんへの態度も、同じようなものであったのだろうか。そう思うと、気が休まる。
不動さんは、あのころ責めてきた女子ではない。ズルいと言いながらも、悪趣味なことはしない。淡泊と言うほど、あっけらかんとしている。
大丈夫だ。
すぐに納得して飲み込めるものではない。それでも、呼吸がしやすくなったことに変わりはなかった。これまでの重さから解き放たれたような気がする。
去っていった不動さんと次に出会ったときには、もう少し会話ができるようになりたい。そうした感情が湧くほどには、前向きになっていた。
もちろん、またぞろ、ふらりと弱虫が顔を出してフラつくことはあるだろう。理充くんは、私が意外に頑固だと言っていたことがあった。
そんなことはない。臆病で自信がないだけだ。そのことに拘泥しているから、変に気を遣って引けない。理充くんはそれを言いように言い換えているに過ぎなかった。
実際は、優柔不断だ。意見が揺れて、自信をなくしてしまう。前向きになったり後ろ向きになったり忙しなくて面倒くさい。
だから、今は不動さんへ前向きな感想を抱けているが、今後も引き続けていけるのかは分からない。疑うほどの邪念はないけれど、信用はならなかった。
それでも、と思う。
理充くんをどうこうしようなんて考えはしない。それが分かっただけでも、気は随分と抜けた。ずっと張っていた気がぷつんと切れる。そうして切れてしまった糸は、気力だけでなく、体力の何かも切ってしまったようだった。
ぷつんと切れた瞬間に視界が揺れて、足元が覚束なくなる。咄嗟に伸ばした手のひらが壁に触れたとほぼ同時にその場に崩れ落ちて、そのまま意識を手放した。
遠くから誰かが近付いてくる足音と、
「小月さん!」
と叫ぶ声が聞こえていたのは、気のせいであったかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます