第23話

「……あんまり、よくないことだった?」


 俺が黙ってしまったからか。珠桜が不安そうに首を傾げる。俺は緩く首を左右に振った。


「そんなことないよ。珠桜にそう言ってもらえるなら、報われた」

「理充くんが頑張ったから報われてるんだよ」


 何だか、目の奥がぎゅっと縮まる。不覚さを隠すように、俺はオムライスを頬張って口を塞いだ。

 俺の下手くそな誤魔化しが通じているのか。伝えることを伝えたから引き際と判断したのか。珠桜は言葉を重ねることはなく、同じように夕食を食べ進めてくれる。

 一緒にご飯を食べる。

 それだけのことに、癒やされることはある。昨日、珠桜がここで食べていいか、と聞いたのも同じような気持ちからだったのだろうか。

 珠桜は一人でいることに難のないタイプだと思っていた。もちろん、平気なのだろう。俺と同じように、日常を過ごすのにそこまで一人であることを意識して、滅法へこんだりはしないはずだ。

 けれど、起こった物事を感ずる心は柔軟であるから、実績解除によってそこに惹かれる感情が育つ。

 俺だって、珠桜に甘やかされている自覚が芽生えてから、珠桜に対して気持ちが緩んでいた。許されると分かると、選択肢に含まれる。

 珠桜は一人でも大丈夫だけど、一人でいたいわけでもないのだろう。

 だが、と教室での姿勢を思い出す。公私を分ける人間はいるはずだ。俺だって、何もかもを和久田にも葵に見せているとは言えない。風邪をひいたとしても、珠桜のように甘えられるとも思えなかった。

 だから、多少の上下はある。それは分かるが、珠桜のそれは振り幅がでかい。教室じゃ、こういう柔らかい癒やし系な部分も、天才などの褒め言葉を繰り出すような部分も、ちらとも見せていなかった。

 それどころか、いつまでも腰が引けている。和久田との引いた一線も、一向にブレる気配がない。隣人として交流を持っている俺相手でさえ、隣席の間は境界線がある。

 それをもったいないと思うわけではないが、当人が面倒でややこしいのではないだろうかと思う。

 無理しているのではないか。

 この無防備な笑顔が素であるとすると、教室では大人し過ぎる。どこか怯えていると言ってもいいだろう。

 初日のそれは、緊張感から来るものだと思っていたし、いずれ中和されていくものだと思っていた。実質、中和はされている。俺も隣席としての付き合いしかなければ、そういう性格なのだろうと興味を失っていたはずだ。

 けれど、俺は隣人として嬉しそうに食事して、無邪気にこちらを褒めて、真心を込めた看病してくれる繊細さも知ってしまった。

 そうすると、どうしても教室での振る舞いに違和感が残る。それを尋ねていいものか。シリアスに触れようとしているのではないか。不躾ではないか。

 軟弱な気持ちにもなるが、同時に以前のように距離を測ろうなんて思えなかった。

 目の前で目を細めている珠桜に、距離なんて感じられない。

 だからこそ、それを大切にしたくもあるし、ここまで近付いたものを更に縮めたいという気持ちも擡げる。貪欲になっていた。甘えさせてもらった分、珠桜を甘やかしたくもある。

 失敗したなら、それはもう取り返しがつかないだろうか。その弱腰はある。それでも、と思う気持ちが膨れていけば、箍は外れるものだ。


「珠桜」

「ん?」


 食べている途中だからか。首を傾げるだけの珠桜を見ると、やっぱり昨晩はいっぱい話してくれていたんだなと分かる。相槌ひとつとっても、気を配られていた。

 それを手放すかもしれないことは恐ろしい。それでも、後に引くには自分の感情が先走り過ぎていた。


「珠桜はさ、学校慣れた?」

「うん、まぁ」


 首肯に躊躇はなかったが、表情は曇る。俺が聞きたいことの中身は、公然だったようだ。ならば、遠慮するほうがよほど具合が悪いだろう。


「……学校は苦手か?」

「……そうだね。あんまり、好きじゃない」

「話を聞いてもいい? 隣席として今まで通りにいるだけのほうがいい?」

「うーん。楽しい話じゃないよ」

「俺の話だって、面白い話ではなかっただろ?」


 口重たいのだろうが、その度合いを読むことはできない。どれほどの忌避感があるのか。探り探りになってしまう。それは俺もであるが、珠桜も同じようだ。


「……人気の男の子がいたの」


 出し抜けだった。想像していた始まりでなかったものだから、そう思ったのかもしれない。

 それでも、俺は相槌を打つことで話を聞いていることを伝えた。珠桜も俺をチラ見してから、小さく顎を引いて目を伏せる。


「その子と仲良くなったのは偶然だったけど、それって多分、すごく特別なことだったんだと思う。別に、その子が人を選んでいたとかじゃないし、珍しかったわけでもない、と思う。もっと、単純に、周りが勝手にかっこいいからってちょっと距離を感じてたりしてたのかもしれない。私は特に何も感じていなかったから」


 つらつらと連ねられていく間に、何となく先を読もうとしている自分がいた。そして、おおよそ、想像できないものでもない。

 狭い世界の人間関係は、起こることが限られている。そして、狭いからこそ過激になりがちでもあった。

 俺はそこまでの体験をしたことはないが、小学生のころでさえ、母さんが亡くなったと言えば同情を買ったものだ。もう少し年齢が違えば、嫌な気遣いをするものも出たのかもしれない。

 自分のこととして想像しえるがゆえに、その煩わしさは他の物事よりも手前にあった。


「でも、そうやって自然に近付いちゃったのがよくなかったんだよね。気がついたら、やっかみを受けるようになってて……」


 そこまで滔々としていた声が潜まり、揺れる。

 やっかみにおいて巻き起こる事件など、想像だけで片手は越える。それを一言で取りまとめてしまえば、いじめと呼ぶのだろう。せいぜい嫌がらせで収まるものや犯罪行為。ざっと思い浮かぶだけでも、枚挙に暇がなかった。


「ハブられてちゃって」


 捻り出すように言う珠桜のそれが、軽い仲間はずれでないことは想像だにできる。

 何より、やっかみのハブなどは、感情的な屁理屈がつく分七面倒臭い。正当性はなくとも、理由はあるのだ。やるほうには。理不尽で一方的な我が儘でしかなかろうとも。

 人気な男子に平和協定なんてものが結ばれていたりすれば、その数だけ敵に回す。ハブられるが、無視だけであったとしても、数が多くなればそれだけダメージだって深くなるものだ。


「それは悲しいし、苦しかったな」

「だからね、逃げ出して来たの」


 手にしているスプーンの握りが強くなる。いじめられていた経緯よりも、そのことがよほど耐えがたいとばかりに。

 俺の勘違いなら、それでいい。けれど、それは割り切っていいものではないだろう。少なくとも、俺には予測した考えを拭い取ることはできない。珠桜を放っておけない気持ちは、看病されたことで急増していた。

 そもそも、食事の世話を進言したのは俺だ。初めからそうだったのだから、距離を詰めてから離れようなんて難しい。


「走るのは疲れるよな」

「……そう、だね」

「疲れたら休んで食べなきゃな」

「……うん」


 こくんと頷いた珠桜の顔から、ぽとりと雫が零れた。心臓が冷える。


「珠桜」

「嬉しいの」


 慌てて名を呼ぶのに被さるように、珠桜が嗚咽混じりに零した。スプーンは置かれて、手のひらが目を擦る。涙に濡れながら、へらりと笑みを浮かべる珠桜に胸が締め付けられた。


「ありがとう、理充くん。理充くんの料理で、元気になれたよ」

「俺だって、珠桜が来てくれなきゃ会えなかったから、嬉しいよ」


 面と向かうには、些か照れる。昨日の暴挙がなければ、口走れたものではなかっただろう。だが、俺は一度侵したラインを戻せるほど器用ではない。だからといって気恥ずかしさが消滅するわけでもないが、こんなふうに泣いてくれる珠桜に躊躇うことなどなかった。

 珠桜はぼろぼろと涙を零す。今度は心臓が冷えはしなかったが、それでもハラハラはした。女の子に泣かれるのは分が悪い。

 はたして、他の女子でも同じように動揺して様子を窺って心を割いたかどうかは定かではないが。


「ティッシュで悪いけど、どうぞ」


 移動すればタオルも持ってこられたが、そこまで沈着ではなかった。ハラハラして、目を離せなかったのかもしれない。咄嗟に手の届く範囲で涙を拭けるものを差し出した。

 珠桜は


「ありがとう」


 とぐすぐすとお礼を言って、目元を拭う。

 ただのティッシュのお礼にしては、いくらか重く聞こえた。俺の自意識がそう聞かせるとしても、俺が答えることはひとつだ。


「どう致しまして」


 珠桜が困ったように笑ってくれたことがすべてだった。

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