第五章

第21話

 目覚めて朝一番にしたことは、頭を抱えることだった。

 なぜなら、座り込んだ珠桜がベッドの淵に頭を伏せて寝入っていたからだ。もちろん、頭を抱えた原因は、昨晩のやり取りのこともある。

 しかし、一番の問題は健やかな寝息を立てている珠桜だ。可愛い。


「珠桜」

「うーん」


 そっと声をかけてみたところで、珠桜は呻きを上げて、ベッドに深く沈み込もうとするばかりだ。それもそれで可愛い。

 だが、こんな場所で眠って体調不良に陥っていないか。そちらの心配のほうが上回っていた。


「珠桜」


 声だけではどうにもならないのならば、肩を揺らすしかない。そっと触れると、珠桜は身体を揺らして飛び起きた。

 ピンと背筋を伸ばして周囲と俺を目視した珠桜は、一瞬ここがどこだが掴みかねたようだ。ひやりと胃が縮みそうになったが、すぐに状況を理解してくれる子でよかった。

 そうでなければ、悲鳴のひとつでも上げられていてもおかしくない。朝目覚めたら、男に起こされているのだから。


「おはよう。大丈夫か? 気分が悪いとか、そういうのは?」


 梅雨時期だ。じめっと暑い日もあるような、そんな時期に突入している。ちょっとの昼寝くらいなら、布団のひとつもなくてもいいだろうが、一晩というのは疑問が残った。

 ましてや、同じ部屋に病人がいたのだ。不安はいや増す。

 珠桜はまだ覚醒しきっていないのか。ぽやぽやした顔で話を聞いてから、深く頷いた。船を漕いだだけでは、というくらいには、まだぽやぽやしている。それでも、目覚め始めているらしい。


「理充くんは? 少しは楽になった?」

「うん、大丈夫。看病してくれてありがとうな。昨日のこともちゃんと覚えてる」

「うっ……忘れてると思ったのになぁ」

「なんで」

「相当ふわふわしてたよ?」

「それでも覚えてるよ」


 忘れるわけがない。嬉しかったのだから。

 珠桜の頬がかすかに赤く染まる。自分の言葉は覚えていた。照れるようなことを衒いなく漏らしている。珠桜がこうなるのも妥当だ。

 こちらも尻こそばくなって、後ろ髪を掻いた。ぺたりと濡れた感触がある。養生していたことを触感した。


「……調子は本当にいいの?」

「まぁ、ちょっとは疲れてるけど、大丈夫。珠桜こそ、そんな寝方して身体は痛くないの?」

「うーん。痛いかも。ごりごりする」


 言いながら、珠桜が腕を回す。

 昨日は意識していなかったが、ワンピースにパーカーを羽織った格好はよく似合っていた。薄手の服の身動ぎはよく見える。胸元の大きな動きからは目を逸らした。


「目が覚めたなら、部屋へ戻って休んでくれ」

「学校行かなきゃ。理充くんは今日はお休みだからね」

「……分かったよ。珠桜も不調になったら、無理しないようにな」

「うん。じゃあ、戻るね。鍵は昨日言った通りにする? それとも、もう平気?」

「ああ、後で閉めに行くから開けておいていいよ。眠ったりはしないし」

「でも、休んでなきゃダメだからね? 起きられるようになったからって油断しちゃダメだよ」

「分かりました」


 珠桜の忠告には、反論の余地がない。珠桜も心配だが、自分のほうが病み上がりだ。頷くと、珠桜は安心したように頬を緩めた。


「回復するまでは夕飯もお弁当も気にしなくていいからね?」

「昨日の調子なら、そこまで心配はしてない。総菜はいいけど、ファーストフード連続とかはやめとけよ」

「はーい」


 今度は、反論の余地がないのは珠桜のほうだ。そのくせ、軽めの返事がやってきた。眉を顰めると、珠桜は眉を下げて笑う。


「大丈夫だよ。理充くんのおかげで濃い味から離れてるから。病気の人に心配かけたりしません。じゃあ、私は学校行くね。また、放課後に来るから。夕飯、何か買ってこようか?」

「食べられる具合もまだ分からないから、連絡する」

「うん。待ってるね。じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 まさか、お見送りを自室でしあう朝を迎えることになるとは思ってもみなかった。イレギュラー甚だしい。

 お辞儀して、珠桜が部屋を出て行く。俺は手を上げて、その後ろ姿を見送った。




 その日の夕食は、コンビニのうどんを頼んだ。珠桜もコンビニのパスタにしたらしい。その相談をしたついでに、帰りに部屋を開けておくように言われて、珠桜は直接俺の家に帰ってきた。


「ただいま帰りました。調子はどう?」

「おかえり。もうすっかり熱も引いたよ」

「よかった。お昼も食べられた?」

「袋ラーメンに卵を落として食べた。珠桜こそ、お昼はどうしたの?」

「売店の総菜パンで済ませたよ。並ぶの大変だったのを思い出した」

「すっかりご無沙汰だったもんな」

「うん……ねぇ、理充くん」

「どうした?」


 リビングダイニングのダイニングテーブルに珠桜が夕食を運んできてくれていた。立ったままだった珠桜が、窺うように座ったこちらを見つめてくる。


「あのね、一緒に夕食食べてもいい?」

「どうぞ」


 イレギュラーの連続で、感覚がバグっていた。今更、断る気にもならない。同室にも、不和はなくなってきている。

 意識はないにしても、一晩をともにしたことは障壁を壊してしまっていた。向かいの席を指し示すと、珠桜は


「お邪魔します」


 と席に着いた。

 心境的な不和は消えつつあるが、風景としての不和はある。

 自宅のリビングに珠桜がいる。そこだけ桜が咲いたように色づいて見えた。昨日の感情を引きずっているのかもしれない。

 甘えていた。

 その後遺症は真新しく身体に残っている。このままずるずるといってしまいそうな恐ろしさがあった。


「もう、食べるか?」

「まだちょっと早いかな? 今日の授業ノートを持ってきたけど、いらない?」

「借ります。ありがとう」

「どう致しまして」


 制服姿でそのままうちに帰ってきた珠桜は、学生鞄の中からノートを重ねる。そのままこちらへ差し出してくる冊数は四冊。今日は特別授業があったはずなので、その分のマイナスだろう。


「一気に借りて大丈夫か?」

「今日、金曜日だよ?」

「ああ、そうか。土日も休めるのか」

「回復するにはちょうどよかったね」

「もうほとんど回復しているし、明日か明後日の夜には何か作るよ」

「いつも作ってくれてるじゃん」


 きょとんとする珠桜に、昨日どこまで話したのか思い出せなくなった。

 自分が思ったよりふわふわしていたらしいことに気がついたが、確かめるわけにもいかない。覚えているといった手前もあるし、自覚のある部分でもまぁまぁなことを言っていた。まずいかも、という感情が胸の内に湧く。


「もうちょっとできたてが美味しいやつ。オムライスふわとろにしよう」

「本当?」

「ああ。こっちに来てくれ。一緒に食べよう」

「……うん」


 嬉しそうにはにかむ珠桜に、胸がくすぐられた。

 度外れた振る舞いではない。特殊な料理を作ろうなんて考えてもいなかった。できたて、と考えていただけだ。けれど、そんな顔を見れば、より豪華なものをという気持ちになる。

 ピザとかローストビーフとかやるかな。


「連続だな」


 気がつけば、同じ部屋で過ごす日々になってしまっている。その感想が端的に零れたが、あまりにも端的で出し抜けだったのか。珠桜は不思議そうに首を傾げた。


「こうやって過ごすのが」

「部屋にいれちゃダメだって言ったのは理充くんだったのにね」

「……不測の事態ってことで」

「ふふっ、しょうがないよね。お互い様ってことで。でも、こうやって過ごしてても気楽って変な感じ」

「人がいるのも悪くないよな」


 お互いに一人で過ごしている。いつだって一人で、看病されたのだって久しぶりだった。珠桜がいてくれることで和んだ気持ちは残っている。


「理充くんは存外、甘えん坊なところあるよね」

「病気のときはって話だっただろうが」


 そんな自覚はない。一人で生活できている。金銭的に自立しているわけではないけれど、自分の世話くらいは自分でできるくらいの生活力はあるのだ。一人でいることに不安を覚えることはあまりなかった。

 まるで寂しさはないとは言い切れない、のだろう。昨日、珠桜に甘えてしまったことを考えれば、物悲しさくらいは感じていたはずだ。

 それでも、突かれると照れくささが幅を利かせる。拗ねるようになってしまったそれがまた甘えているような気がして、腹の底がむずむずした。


「でも、私も理充くんと一緒にいられると安心するから」

「……それ、だいぶ恥ずかしいけど」

「昨日の理充くんのほうがだいぶ恥ずかしいこと言ってたよ」

「忘れてくれ」

「無理だよ」


 眉を下げながら、相好を崩される。


「嬉しかったもん」


 表情に言葉が追加されると、こちらも答えようがなくなった。まさに恥ずかしい。


「だから、私もちゃんと言っておこうと思って」

「それは、どうも。じゃ、明日の夜も一緒に食べよう」

「うん。楽しみにしてるね」

「ああ。任せてくれ」


 ご飯の話ばかりしている。なんだかんだ言いながら、自分たちがナチュラルに話せる話題はこれだった。恥ずかしさが払底されるわけではないけれど、いくらか腰を落ち着けられる。

 そうして明日の夕飯の相談をしながら、俺たちはその日の夕飯を一緒に取った。

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