第18話
やはり、頭のネジは外れているのだろう。スポドリで水分を補給しても、冷静さが戻ってくる気はしなかった。煮詰まった思考は、熱由来のものでしかなければいいのに。そう願わずにはいられないが、そうでないだろうと否定する思考くらいは戻ってきていた。
くしゃりと髪の毛を掻き乱すと、額の淵にじっとりと汗を感じる。そこに、さっきまで小月の手が触れていたのだ。そう思うと、居たたまれない。
発汗した肌に触れるのは不快だろう。こっちだって、気まずい。汗臭くはないだろうか。病人として気にしていられないこととはいえ、割り切るには自意識が刺激される。
これは友だち相手でも思うもののはずだ。そうした予防線を張っている時点で窺い知れる。掻き乱したついでに頭を抱えてしまった。
「帯包くん? 調子悪い? 頭痛い?」
戻ってきた小月に見つかって、顔を上げる。苦虫を噛み潰してしまったのは、そんな心配とは別の心境によるものだったからだ。
「大丈夫だけど、熱はあるから」
「……じゃあ、早く食べて薬飲んで休んで」
「心配しすぎだよ。おかゆ、ありがとう。小月は? ご飯大丈夫か?」
おぼんの上に載せられた土鍋からは熱波が感じられる。おかゆ独特の香りがしていた。土鍋のそばに置かれた小皿には、塩が添えられている。味付け調整のための気遣いだろう。
……自信のなさの表れかもしれないが。
「大丈夫だよ。どうにでもなるんだから」
「俺がせっかく栄養にも気をつけて食育してきたことをご破算にしないでくれよ」
「そんなところまで気を回してたの? やっぱり、釣り合いが取れてないんじゃない?」
「趣味だからほっといてくれ。おかゆ、もらうよ」
「食べさせてあげる」
言いながら、ベッドの淵に腰を下ろしていた。この子は看病になってから、当然のように振る舞ってばかりいる。古典的な行動は、テンプレートをなぞっているだけとも言えた。それだけでしかないのなら、どれほど気が楽か。
それが分からないものだから、胸の内がじたばたした。俺だから、という傲慢な感情がわずかにでも顔を出せば、暴れ回ってしまう。
「自分で食べられるよ」
「動くのしんどいでしょ?」
「気恥ずかしいから勘弁してくれ」
体調面で粘っても、小月が引くとは思えない。本音を暴露するのも気恥ずかしいが、更なる事態に転がり落ちるよりはマシだった。これなら、小月だって意識を改めてくれるはずだ。
そう思っていたが、小月は唇を尖らせる。感情の移り変わりについていけない。元より、そこまで把握できていないのだ。こんな例外に対応できるわけもなかった。
「帯包くんだって、昨日したじゃん」
子どもじみた言い方に、思わず額を押さえる。忘れておいてくれよ、と思ってしまったのはバツが悪いからだ。
お互いに流した。というか、タイミングを逸して流れたような空気になった、というほうが正しいのかもしれない。とにかく、昨晩のことは、一食の事柄として表向きには過ぎたことだった。
自分の中では延々と考えて風邪の初期症状をがっつり見逃してしまっていたが。それはそれだ。
「あれは、味見だったからつい……思惑があったわけでも何でもない」
「私だって看病だから」
「悪かったって」
「間接キスじゃないだけ気恥ずかしくないでしょ?」
伏せていた部分をずばり口走る小月の頬には、桃色が乗っている。羞恥心があるのなら、抜粋せずともいいだろうに。
「あのなぁ……」
「あんまり言い争ってると疲れちゃうよ」
「何をそんなにムキになってんの」
「私のせいだから」
打ち返されて、時が止まった。小月は土鍋の蓋を外して、れんげでおかゆを回し始める。これ以上、話を聞く気はないかのように頑なな態度だ。
私のせい。
胸中で復唱して、嚥下する。
「……小月」
「何」
つっけんどんな返答を聞く日が来るとは思わなかった。
普通なら、気分を害すところなのかもしれない。けれど、小月だ。謝罪ばかりでおどおどしている。あの小月が、ここまで砕けた態度で素を見せてくれるのだ。
これで無感情でいられるほど、俺の感性は死んでいない。手前勝手な解釈かもしれないが、大抵の物事は主観で捉えるものだ。
「小月がいなきゃ、土砂降りの中を走って帰ってたと思う。傘があるのとないのとじゃ、天と地だよ。これくらいで済んだのは、小月のおかげだ」
励まそうとする気はあった。だが、極端に泥を被ってやろうとはしていない。詭弁でも何でもなく、俺はびしょ濡れになっていたはずだ。どっちにしろ、風邪をひく未来は変えられなかっただろう。
「着替えさせずに料理させたのは私だよ」
「俺だって面倒くさがって小月の言葉に乗ったから。自室に帰ったって、俺はちゃんと風呂に入ったりするより先に料理をしてたよ」
「……庇ってくれなくてもいい」
「小月はそう言うよなぁ」
頑固で気遣いができる。なんてことのないことで謝罪を繰り返す。自罰的かどうかは言い切れないが、そういうところはあるはずだ。
苦く漏らした俺に、小月はしょぼんと肩を落とした。れんげを持つ手だけが、のんびりと動いている。その物音が、やけに鮮烈に響いた。
「小月。心配してくれてありがとう。でも、俺は小月のせいだなんて思ってないから、そんなに非を感じなくていいんだよ。ひいたのは俺なんだから、しょうがないだろ? ひくときはひくんだから」
「……うん」
面倒くさくはある。けれど、項垂れながらも息を整えている姿を見れば、飲み込もうとしてくれているのが分かる。
それに、自分の感情は操縦しきれるわけじゃない。持て余すことだってあるだろう。周囲からはどうしようもないことに拘泥し、センチメンタルに沈むことだってある。俺にだって、へこんで周りが見えていなかったことがあった。年齢が違うと言ったって、感情の手綱を取り扱うのが困難なのは、今も一緒だ。
小月との昨日の一食に踊らされまくっていたのだから。直近ですら、思い当たりがある。だから、折り合いをつけているのが見えれば、励まそうという気になった。
「小月」
「あ、うん」
緊張したというか、気まずいというか。馬鹿な所業に、きまりが悪い。その意味が乗っかった呼びかけを催促と受け取ったのか。ぱっと顔を上げた小月は、咄嗟におぼんごとおかゆを渡そうとしてくれていた。
それを制すように、先手を打つ。
「……食べさせてくれ」
頭の裏側から熱が広がっていく。ただでさえ熱が出ているのだから、その暑さといったらない。それでも、小月が折り合いをつけようとしているのだから、と慮る気持ちのほうが上回っていた。
ぽかんとした小月の表情がへにょんと崩れる。
「じゃあ、どうぞ」
あーん、と言われなかったことは、不幸中の幸いだった。
それでも、小月がおかゆを掬って冷ます。その動作を見ているほんの少しの時間でも、うずうずして逃げ出したくなった。
改まって、食べさせてもらう。この手順を踏んだことで、気恥ずかしさが倍増しているような気がしたが、これは自業自得だ。それを飲み込んで、小月が差し出してくるれんげにかぶりついた。
「味は大丈夫?」
「うん……美味しい」
正直に言えば、味付けを吟味していられない。羞恥心的な意味でも、体調的な意味でも、本調子ではなかった。
「遠慮しなくていいんだからね?」
「自信があるのかないのかどっちなんだよ」
「ないから、塩を準備してるし、帯包くんにお世話になってるんでしょ? 教えて欲しいって話したよ」
「ちゃんとできてるから、心配しなくてもいい」
「ものすごくレシピと睨めっこしたもん。病気の帯包くんにマズいものを食べさせるわけにはいかないでしょ」
話ながら、手が動く。小月が続けるならば、俺に否を言えるはずもなかった。一度目で流されておけば、引くのも簡単だっただろうに。
「お金、後で渡すな」
「いいよ、大丈夫。今度の食材費をちょっと引かせてもらえたらいいから」
「当たり前だろ」
自分たちのバランスが取れているのか。シーソーのように均衡を入れ替えながら、どうにか成立させている。そんなものだ。
平衡感覚など、端からズレている。こういうやり取りに意味があるのかは分からない。それでも、体裁を整えようという気くらいはあった。だから、繰り返しているし、どこかでこだわってもいる。不安定でも守るべきラインに指定しているような気がした。
そうしたバランスの上で、小月が手を動かす。小月のおかゆは優しい。味を敏感に感じ取れている自信は引き続きないけれど、それでも優しさに胸は満たされる。
肝心なのは、俺のため、という部分だ。そこを明言されただけで俺の身は容易く満たされた。
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