第17話
あやふやなまま、靴を脱がせてくれた手が、また脇の下から肩を掴んでくる。
「立ち上がるよ?」
「……うん」
事前準備ができるのは助かった。それで身軽になるわけではないが、タイミングが掴めないままにすっころぶのは回避できる。
壁をつてにして、小月に頼り過ぎないように踏ん張った。どうにか立ち上がった俺を、小月が身体で支えてくれる。筋力だってあるほうじゃないはずだ。それでも、小月は精いっぱい支えてくれている。
「ごめんな」
謝罪ばかりがどうの、と小月を窘めたのはまだ新しい記憶だ。それが頭を掠めたが、それでも漏らさずにはいられなかった。
小さな子に体重を預けている。自分の図体を思うと、尚のこと申し訳なさが強い。小月はきっと気にするなと言うと分かっていた。分かっていても、申し訳なさは消えない。
「帯包くん、大きいもんね。力入らないと大変だね。私だったら、もう転がっちゃうんだけどな。背丈があるからそういうわけにもいかないし。でも、もうちょっとでベッドに寝っ転がられるからね。寝室に入るの、ごめんね?」
「ううん……いいよ」
気にするな、というだろうと想像していただけでも、十分だった。小月はそれを軽やかに越えてくる。伝えたい感謝はたくさんあったが、安易な返事しかできなかった。
小月は話しかけてくれるときはこちらを見て、微笑んでいる。正面を向くと、表情が力んでいるのが分かって、やっぱり申し訳なさが膨らんだ。
それでも、遠慮することはできない。下手に遠慮してこけようものなら、小月にかける迷惑は今の比ではないのだ。
俺が動けているうちはまだいいが、それこそ倒れてしまったら、小月に抱き起こして運ぶなんて芸当はできない。それを考えて踏ん張りを利かせる。自分一人では、多分廊下で力尽きていただろう。小月がいてくれてよかった。
「左? 右?」
「みぎ」
同じ間取りだ。リビングダイニングから扉が二つ並んでいる。答えるだけで、小月はそちらへ向かってくれた。
だが、リビングが一番の難関だ。体重の頼りになるものがないので、小月に頼り切りになって歩みが鈍くなる。ただでさえ鈍いのだから、ナマケモノレベルだ。
それでも、小月は文句もなく、着々と寝室へと向かってくれた。
そうして寝室に辿り着いて、ベッドに腰を落ち着けた瞬間、がくんと力が抜ける。頽れた俺の身体を、小月が寝かせようと奮闘してくれていた。
「乱暴にしてごめんね? 介護のやり方は分かんないし……力尽くだけど力ないから。役に立たないね」
「いてくれるだけでいいよ」
通すべきフィルターがあったように思う。けれど、思考は茹だっているし、体力も削がれていた。ほろほろと口から言葉が漏れる。
小月はへにょりと眉を下げながら、俺の重い動きをサポートしてくれた。ようようベッドに横になれて、深いため息が零れる。小月も力を使い果たしたように、ベッドのそばに座り込んでいた。
「たすかった。ありがとう」
「ううん。いいから眠っていて。病院には行く?」
ふるりと首を横に振る。行くべきだと思いもするが、小月に保険証の場所を伝えてどうこうをする余力がない。
救急車の考えはそのとき、頭になかった。小月も一緒だったのかは分からないが、意思疎通はできているからか。小月は俺の言葉に従ってくれたようだ。
「分かった。ゆっくり休んでて。寒いとかない? 暑いのは我慢してね」
言いながら、布団をかけてくれる。それから、ぽんぽんと叩くようにしてくれる仕草は、なんてことのない。だが、俺には効果抜群だった。人の温かさに溺れる。
薄らと意識が遠ざかり、視界が閉じられたところでばつんと電源が落ちた。
意識が浮上したとき、どれくらいの時間が経っていたのか。寝落ちたときと比べたら、身体が軽く息もしやすくなったような気がした。頭も少しは冴えている。
疲れてはいた。だが、眠る前よりはずっと楽だ。のっそりと上半身を持ち上げようとして身体を動かしたところで、がちゃりと扉が開く。
「……小月」
「目が覚めた? 大丈夫?」
駆け寄ってきた小月が、勢いそばに腰を下ろした。それから、枕元に置かれていたビニール袋を開く。
「スポーツドリンクあるよ。熱、測れる?」
ペットボトルを差し出した後で、すぐに体温計が出てきた。
「買ったの?」
「体温計はうちのだよ。でも、薬はなかったし、急いでコンビニまで行ってきたの。風邪薬も買ってきたから、ちゃんと夕ご飯を食べてから飲まないと」
「ああ、うん」
小月にしては怒濤の勢いに飲まれて頷く。どれもやるべき項目ではあったが、一息で驚いた。ひとまず、体温計を受け取る。
「おかゆを作ってあるからね」
「小月が?」
「……一番シンプルで簡単なのにしたから、大丈夫。薄味にしてあるから、もし足りなかったら足す形で」
「無理しなくて偉いな」
「馬鹿にしないでよ」
むぅと頬を膨らまされて、ちょっとだけほっとした。
今までに交わしたことのやり取りが挟まるだけで、看病されている現実を希釈できるような気がする。関わりを希釈したいわけじゃないけれど、今が日常から逸脱していて、動揺を誘うことに違いはない。
今、自分がどれほど理性的か。自信がなさすぎて、行動が慎重になる。
「賢明な判断だって褒めてるだろ。小月があんまりできないって念押しするからビビってるだけだよ」
小月の料理が怖いのは事実だ。このまま続いていたら、もう少しまずいことを言っていたかもしれない。
だが、ちょうどいい具合に体温計が鳴ってくれた。俺が脇から出した瞬間に、小月が奪っていく。
「おい」
「だって、帯包くんは気を遣って適当言いそうだから。高かったら、低く見積もるでしょ」
当たり前のように性質を理解されていて、言葉もない。体温計を確認した小月が眉根を寄せる。
「高いね」
「何度か教えてくれないのか」
「八度五分」
「思ったよりあるな」
「それでも、多分下がったほうだよ」
言いながら、小月の腕がこちらに伸びてきた。何をされるのか分からずに面食らっている間に、ひんやりとした手のひらが額に押し当てられる。そんなことは初めてやられたはずだ。そのくせ、どこか遠くでそうされた記憶があるような気がした。
そして、その違和感の正体は小月が明かしてくれる。
「うん。やっぱり、さっきよりも熱くないと思う」
「……分かるものか?」
「うなされてたんだよ? よくなってるはず」
しょんぼりと言われると、胸が痛んだ。小月がへこむようなことではない。
「心配かけてごめんな。ここまで世話してくれてありがとう」
「まだお世話終わってないよ?」
きょとんと言う小月が、さも当然としていてむず痒かった。
どこまで付き合ってくれるつもりなのか。どこまで、なんて想像できてもいない境目を考えても考えなくても、苦笑するより他になかった。
「小月は人を放っておけないよな」
「帯包くんは他人じゃないでしょ?」
「友だち?」
「友だちの中でも、夕食を作ってくれるとっても近いお隣さん」
「そんなに近しい相手だと思ってるとは知らなかった」
「……甘えていると思ってたんだけど」
隣席だけの付き合いとは深さが違うのは分かっている。だが、公私の差と言えばそれまでで、仲の良さへの確証は持てていなかった。
それを直截に伝えられて、喜びが湧く。
「甘えてくれているんだったら嬉しいよ」
「夕飯もお弁当も作ってもらっておいて、甘えてないなんてことある?」
「ちゃんと交換条件が成立してるだろ」
「でも、昨日作ってるところを見たら、甘えてるなぁって思っちゃったんだもん」
実感が湧くのが、いつどんなタイミングなんて読めるものではない。小月がそれを感じたのが昨日であるなら、その点で食い下がれるところはなかった。
けれど、交換条件について引くつもりはない。看病するのが当然だと納得できるほどに天秤の傾きがあるとは思えなかった。
「だからって、そんなに気を遣ってくれなくてもいいよ」
「心配してるんだよ。おかゆ、食べられそう?」
「……少しだけ」
「持ってくるね」
至れり尽くせりらしい。返事するよりも先に、小月が素早く移動する。早急だ。そんなに焦らなくていいのに。そう思いながらも、自分のために頑張ってくれる小月に歓喜もしている。
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