第16話
「嫌な相手だったりしたわけ?」
歯切れが悪かったからか。和久田は眉を顰めてきた。
「全然。美味しく食べてくれたし、充足感があった」
「だったら、何をそんなに難しい顔してるわけ? 顔色悪いよ」
「マジ?」
「マジ。そのうえでため息もついてるから、よっぽど何かあったのかと思ったんだけど。嬉しいことだったんだよね?」
「嬉しいから困ってんだよ」
つらっと零れたものは、紛れもない本音だった。顔色が悪いとまでは気がついていなくて、発言に用心していなかったとも言う。
「そんなの喜んでおけばいいじゃん。相手だって、楽しんでたんでしょ? マサくんって変なとこ気にするよね」
「……色々あんだよ」
気を遣っているわけじゃない。自分の本心が大きくなり過ぎていて、自分で自分に慄いているだけだ。小月の何かへ対して気を回して、悩んでいるわけではなかった。
実際には、何もなかったにも等しい。ちょっとばかり間接キスをやらかしたりはしたが、それはそれだ。
「ふーん? マサくんって人に料理を振る舞うのにも慣れているものだと思ってたけど」
「作るのは好きだけど、自分のためだし」
「まぁ、自炊ってそういうものだけどさ。でも、マサくんほどの腕があれば、頼りにされたりしそうじゃん? 今まで食べたいって言ってきたような子はいないわけ?」
「葵?」
「なるほど」
即座に動く葵には、改めて振る舞う機会を設けずともいい。和久田もその想像がついたのだろう。
「だから、改まったのは初めてだったんだよ。なんか、こう……嬉しかったのはいいんだけど、変な感覚っていうか。浮かれてたんだよ」
「へぇ。マサくんの料理は特技だけど、弱点でもあったんだねぇ」
言い返せる部分がない。自分の好みであり特技であったからこそ、それを認められて褒められたことに参っている。
好きだよ、とさらりともたらされた攻撃力を、小月はきっと気がついていない。和久田だって、簡潔にまとめているだけで、俺の感嘆を掌握しているわけではないだろう。我ながら、想像の埒外だったのだ。
いつも自分のために料理していた。
過去に一度だけ、同級生の女の子にお礼のために料理を作ったことがある。あのとき以来だ。あのとき笑ってくれた彼女の顔と、小月の顔が同じように心に刻まれていた。
「そんなに大ダメージを与えられることを知ったのはいいとして、ちょっとは寝ておいたほうがいいんじゃない? 本当に顔色悪いし、なんかフラフラしてるよ。反応も悪いし」
「……そうだな」
反応の悪さは、秘めておきたい物事が多くあるからだ。心中がまとまっていないこともだが、何よりも小月のことをバラしたくはなかった。優先事項が燦然と輝き過ぎていて、それもまた懊悩のひとつに加えられる。自分が沼に嵌まっているのが、ありありと分かった。
「じゃ、お大事に」
「どーも」
どれほど労ってくれているのか。軽い口調は、和久田の気遣いなのだろう。それくらいには和久田の性格を知っていた。その引き際は、今の機能不全に近い俺にはありがたい。
お礼を告げて机に伏せたのは、和久田のアドバイスも一助になっていただろう。
仮眠を取って顔色が戻ったかどうかは不明だ。
とにかく、その後は誰にも指摘されることなく一日を過ごすことができた。ただし、上の空で思索が回っているのは変わらない。
そのうえ、半端に仮眠を取ったからか。気怠さが身体に纏わり付いてきて、不快感がこみ上げてくる。調子が悪い。寝不足が祟ったのかもしれない。
昨日、買い物をしておいて良かった。そう安堵しながら、帰路へ着く。小月が帰ったかどうか。その確認を怠っていることにも、そのときには気がついていなかった。それほど疲弊していたことを、どうしてこのとき自覚できていなかったのか。後になれば分かるほど、そのときの俺は不調だった。
マンションのエレベーターに乗った浮上感に、胃の中がシャッフルされる。気持ち悪くて、廊下へ出るころには口を手で押さえていた。踏み出す一歩が重い。
ここまで来て、低調が体調のほうだと自認が追いついた。追いついたところで、こんなところじゃどうにもならない。部屋まで進まなければ。
外界へ繋がっている廊下の塀を手すり代わりに使って進む。こほんと咳が零れた。熱い。なるほど。気分も悪いはずだ。それを理解する頭の中が霞がかっている。
浮ついて堂々巡りをしていた思考が、単に頭が回っていなかっただけだと気がついてももう遅い。和久田のフラフラしているという注意をまともに聞いておけばよかった。
一歩一歩を左右に振られながら、自室への数メートルを進む。歩幅が小さいどころではなく、ほとんど踵を浮かさずに引きずっているだけだった。
テリトリーに戻ってきてしまったことで、気が抜けたのかもしれない。もう少し。自室の扉は見えているというのに、なかなか辿り着けなかった。じれったくて、苦しい。風景の変化があまりにもなく、消耗具合が余計に身体を重くする。
ふらりと大きく揺れた視界が、一定の傾斜で止まった。肩口に香る柔らかい匂いと肉体に、そちらへ視線を流す。
緩慢としたその移動よりも先に、
「無理しちゃダメだよ」
と不安そうな小月の声が耳朶をくすぐった。
「小月……」
漏らした声の掠れ方に、疲労度が増していく。
隣で支えてくれる小月が、脇の下から腕を回して肩を組んでくれた。身長差三十センチ。支えるにしたって、限度がある。それでも、壁と逆側に支えができたことで、いくらか身体が楽になったような気がした。心の支えであったかもしれない。
「やっぱり、大丈夫じゃなかったんでしょ? 無理しないでよ。でも、部屋までは歩いて。私じゃ抱きかかえて運べないから」
「ごめん」
「ううん。いつも頼りにしてるから。それに、昨日の雨でしょ? 私のほうこそ、ごめんね。料理させるんじゃなくて、部屋へ戻すべきだったね」
「小月のせいじゃない」
提案してくれたのは小月だが、面倒くささに乗ったのは自分だ。
そして、このときまで雨のことを失念していた。そうか。雨に濡れたのをタオルで拭っただけでそのまま。果てには、動揺しくさって寝不足。体調を崩す条件は揃っている。
だからって、小月のせいにするつもりは毛頭ないけれど。
「それでも、ちゃんと付き添うから。もう少しだけ、ね」
小月がぐっと俺を支えて歩いてくれる。重いだろうに。
ただでさえ、男女の肉体差がある。それがどの程度の差になるのかは知らないが、俺たちの間にはプラスアルファで換算される身長差がある。絶対に重い。付き添うと易々言っているが、小月には重労働だろう。
「……ごめんな、迷惑かけて」
「いいから。喋らないで」
冷たくも聞こえる言い回しは、小月に無茶させているのではないかと不安になった。
けれど、彼女は決して引かないだろう。こうしたことに律儀で頑固なことはもう知っていた。それに、小月は人と関わることには消極的だが、人を放っておけないほどには気遣い屋だ。それが分かるし、俺も喋る体力がない。懸命な小月に頼って、じりじりと部屋まで進んだ。
塀を手すりにしていられた間はよかった。だが、扉の前へ辿り着くには手を離さなければならない。小月に体重をかけ過ぎないようにしながら、扉の横へ手を伸ばして移動した。思いきり振った身体が重い。
小月がいなければ、フラついて倒れていたのではないか。ここまでこなくては自覚が追いついてこない自分に愕然とする。
ごそごそと時間をかけて鍵を引き出して、ようやく自室の扉を開いた。靴を脱ぐために腰を落としたら、どっと腑抜ける。身体が傾ぐ寸前で、小月が隣に座って身体で俺を支えてくれた。
「ありがと」
どうにか漏らした声はほとんど呻きと変わらない。
「大丈夫だよ。もうちょっとだけだからね」
小月は決して、頑張れとは言わない。
その心遣いに気がついてしまったら、色んなものがいっぱいになる。ただでさえ、容量はなくなっているのだ。小さじ一杯を注ぎ込まれたって吹きこぼれてしまう。
挙げ句、靴を脱ぐのが覚束ない手を小月が手伝ってくれた。こんなもの、小さじなどとうに越してしまう。
この感情はどうしたらいいものか。そうでなくても頭が回っていないのに、余計なことを漏らしかねない。そんなことが思いついては、蒸発していく。ダメかもしれない。
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