第四章

第15話

 小月との一晩。

 というのは、色気がありすぎだろう。夕食の一飯。時間にすれば、二時間程度に過ぎない。その時間内に、どれだけ動乱したのか。感情を揺れ動かされて、意識を突かれるような感覚があった。

 直前に、和久田の指摘があったこともよくなかったのかもしれない。一緒に夕飯を取っておいて、仲が良くないと言うのは無理がある。

 そう思いこそすれ、小月がどう思っているのかは分からなかった。確認するタイミングもなければ、勇気もない。そんな調子であるから、自宅に戻ってからも落ち着かない夜を過ごした。

 だからこそ、一晩という表現が出てくるのかもしれない。集中力がなく、意識が浮かぶ。浮き足立っていた。

 それは翌日になっても続いていて、朝方登校前に小月に弁当を渡すときもまだ、その感覚から抜け出せていなかった。

 小月にも


「大丈夫?」


 と首を傾げられたほどだ。

 そこまでか、と頭を抱えそうになりながら大丈夫だと頷く。

 小月は怪訝を消してなかったが、気にせずに送り出した。弁当が開始されてから、俺たちの朝はこんなものだ。挨拶を交わして、小月を送り出す。それから、数分を待って後ろからゆっくりと追いかけていた。

 これは小月がそこまで慎重にならなくていいと言ったから実行されているものだ。最初こそ、周囲の目が気になっていたが、通学路では俺たちだけが目立つこともない。慣れはすぐだった。

 しかし、今日に限って言えば、そんなこともない。どこか浮ついた感情が内臓を引っ掻き回していた。いっそ気持ちが悪い。その嫌気を小月に押し付ける気はないが、それでも、小月が原因の動揺には間違いなかった。

 相当に踏み込んでいた。その事実を再確認してしまったこともある。今までは、食事を渡すだけだった。

 そこに同席した。作るところから食べるところまで。小月は徹底的に楽しそうにしてくれていて、俺だけにその姿を見せてくれる。この特別感を特別だと認識できないなんて嘘だ。

 懐かれていた。和久田が伝えてくれなくたって、それくらい分かる。それを顕著に突きつけられて、自意識が肥大した。

 ふとした瞬間にどうしようもなく可愛く見えて、胸が締め付けられる。今までだって、可愛い子だなと思っていた。だが、そこにはどこか遠巻きな部分があったように思う。自分の感情であるのだから、そんなわけもないというのに。

 そのどこか遠かったものが、思いがけず近付いてきた。その波に逆らえずに揉まれている。ぐるぐると回る感情を無視することはできない。

 外側にあるのなら、俺は隣席として適度な距離を保てていただろう。けれど、内側に住んでいるものを排除できるほど器用ではない。

 そうした懊悩を抱えたまま、小月の後ろ姿を追うように登校した。




 登校してからも、隣席の姿が視界から消えることはない。

 そのために、俺はずっと上の空だった。未だかつてなく、小月に気持ちを持っていかれている。振り返ってみても、どこにそこまでという気持ちがないわけでもない。

 やはり、好きだよと告げられたことが皮切りだっただろうか。それとも、相合い傘という至近距離に並んだシャンプーの香りにだろうか。髪を拭いてくれた滑らかな手つきからか。

 ……思索すれば、いくらでも心当たりが湧いてきて、自分の首を絞めた。

 小月の小さな表情を異常なほど鮮明に覚えている。脳内に映し出される映像に、心が浮遊感を覚えて、ますます懊悩を深めた。

 頭を抱えてしまいそうになるのをどうにか堪える。そんな露骨な態度を取れば、隣席の小月に不審さが丸出しになってしまう。悩みに気付かれるとしても、小月だけは勘弁だ。口を割ることなどできやしなかった。

 自分に懐いてくれている女の子に意識していると思われたくはない。そうして、要らぬ距離を測られたりしたら、俺は大層落ち込む自信がある。それくらいには、小月に気持ちを移していた。

 自分の内を認めないほどの悪足掻きをするつもりはない。だからこそ、俺はこんなにも動揺しているのだろう。友情以外の何かを認めねばならぬような気がしてしまうから。

 だが、それが正式な感情であるのか。それは認める認めない以前の問題だ。考えはまとまらず、目が回る。眉間を揉んでも、眩暈はよくならない。

 内側の状態なのだから、外部刺激でよくなる道理などないだろう。心理を揺さぶるような外部刺激ならば話は別だが、肉体的な刺激でどうにもならない。

 靄を晴らすかのように、細く長く息を吐き出してみても、体積が変わることはなかった。根を張り巡らせている気持ちはあっけなく排出されはしない。何度か繰り返したところで、新しい空気に澄み渡るような爽快感は得られなかった。


「どうしたの?」


 声をかけられて、びくりと肩を竦める。

 眼前にいたのは和久田で、俺は思いっきりため息を落とした。ふいと視界を広げると、いつの間にか小月は離席している。休み時間になっていたことも気がついておらず、広げたままのノートにはよく分からないシャーペンの線が描き出されていた。


「寝不足」

「なんか悩み事? 特売逃したとか?」

「和久田の中の俺像がなかなかひどい」

「だって、今までレシピだとか料理だとか、それ以外の悩みなんて毛ほど聞いたことないし。なんかある?」

「……ないな」


 和久田に……和久田に限らず、第三者に小月のことを伝えるつもりは更々ない。小月だって、そのつもりだろう。秘密は暗黙の了解だ。仮にそうでなくても、情緒の話を和久田に明かしたくはなかった。


「それで? どうしたわけ?」

「まぁ、ちょっと……他人に料理を振る舞う機会があったんだけど、不思議な感覚だったなぁと」

「あおちゃんに弁当盗まれてなかった?」

「つまみ食いされるのとご馳走するのは違うだろ」


 近頃は、無意識に味付けを小月に合わせていることがある。昨日の一端から、色々なことに気がついてしまった。そういうところもまた、懊悩を深くしているのだろう。


「人に食べられるって点では一緒じゃん?」

「葵のはお裾分けでしかないから、改まった感じじゃないんだよ。作るところからの振る舞いなんて滅多にないし、落ち着かないっていうか。そういうことってあるんだなぁと思って」

「いいことじゃん?」

「まぁ」


 和久田はなんてことなく肯定してくれる。

 まぁ、確かにその通りだ。ともに料理を作って食べて片付ける人がそばにいる。それはいいことだろう。実際、いい時間だった。気楽で、癒やされる。そういう時間だった。

 高揚感に足元はふわふわしていたが、それはそれで楽しいことだった。一食の時間を悔いているわけではない。

 だからこそ、だ。あの時間が稀少で、快適で、小月が可愛くて、どうしていいか分からなくなっている。

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