第13話

 とはいえ、傘を撤去するってわけじゃない。小月の走り幅に合わせて、傘を差し出すように走る。

 難易度は高いが、びしょ濡れにさせたいとは思わない。これは、傘を借りているからこそだろう。……決して、庇護欲が増幅されているがゆえの贔屓ではない。

 とにかく、豪雨の中を駆け抜けていく。そうしてマンションに辿り着くころには、俺も小月もそれなりに濡れていた。ブレザーを着ているので、下着が透けるなんてハプニングは起こらない。それでも、髪の毛はしとりと濡れて張り付いている。

 傘を閉じて、エレベーターへ乗り込んで自室の廊下へ辿り着くまで、俺たちは無言で急ぎ足になっていた。

 マンションでも十分、自分たちの領域だ。だが、隣人としてのテリトリーは廊下だと認識していた。いや、そんなつもりがあったのかも定かではない。単純に別れるまで会話するつもりがなかっただけだったとも言える。

 廊下に辿り着いてから、俺たちはようやく肩の力を抜いた。


「小月」


 傘を返さなければ。そう思って声をかけるころには、小月は自宅の扉を開いていた。


「玄関どうぞ。ちょっと待ってて」

「え」


 何か用事があったのか。思いながらも傘はまだこちらが持ったままだ。中へと引っ込んでしまった小月を追って、玄関へ入って傘を備え付けの靴箱へと立てかけた。

 同じ間取りの部屋に住んでいる。傘立てを購入していなければ、他に傘を置く場所がないのは知っていた。

 返し終わると、框にスーパーの買い物袋を下ろして、俺は端のほうに尻を軽く乗っけた。小月は手にタオルを抱えて、すぐに戻ってくる。


「使って」


 そう言って、タオルが差し出された。それほど素っ頓狂なことではない、だろう。多分。自分たちの間の普通が揺らいでいるので、その辺りの感覚に自信がなくなっていた。

 けれど、雨に濡れたものにタオルを差し出すことは、異質ではない。だが、わざわざ玄関へ導かれるだとか、なぜこんな扱いを受けているのだとか。そうした疑問は拭えなかった。

 混乱しつつタオルを受け取ったために、拭こうと動き出せない。鈍い俺に、小月はテキパキと手を伸ばしてきた。

 状況がすべて突発的で、俺は機能不全に陥る。渡したはずのタオルを俺の手から抜き取った小月の手のひらが、頭へと移動してきた。タオルで髪の毛を包まれて、くしゃりと拭かれる。腰を下ろしていたことで、身長差はなくなっていた。


「風邪ひくよ。私より濡れてる」

「……悪い。ありがとう。大丈夫だから」

「私に傘傾けてるからでしょ? 傘代をカンパしたほうがよかった?」

「なんで小月が払うんだよ。これくらい土砂降りの中なら想像の範疇だろ。平気だから、心配しなくていい」

「帯包くんって、気を遣うよね」

「お前が言うな」


 思わず漏らした口調は砕けていた。

 別段、気をつけようなんて心がけていないけれど、人にビビるところのある小月相手には乱暴さを潜めていたようだ。自戒とまでは言わずとも反省しそうになった俺を、小月は気にした様子もない。


「私……? あんまり空気読めてないと思うけど」

「小月はあんまり人と関わりたくないだけで、空気を読んでないわけじゃないだろ」


 小月相手に取り繕うのは砕けた後では、アホらしいことだ。

 料理を作って渡す。たったそれだけでありながらも、食事をともにするような関係は、心を開くまでの障壁を取り除いていた。隣人としての線を越えたものに、過剰な気遣いをするのもさせるのもごめんだ。

 小月は動かしていた手を止めて、ぱちくりと俺を見下ろしてくる。


「帯包くんはそうやって人のことをよく見てるから。気遣いができるし、気遣いをするでしょ? 今はそういうのはいいから。自分で何でもできるからって、私のことまで抱え込まなくていいんだからね」


 今度、ぱちくりと目を瞬くのはこちらだった。

 何でもできるなんて、どこから導き出したものなのか。それに、抱え込んでいる気なんてなかった。

 世話は焼いている。それを拡大解釈すれば、料理分くらいは抱え込んでいるのかもしれない。けれど、俺にそんなつもりはなかった。

 驚いている俺をよそに、小月は手の動きを再開させる。くしゃくしゃと掻き乱してくる指先が、時折首筋や耳に触れる。くすぐったいのは物理であると思いたい。


「……抱え込んでるわけじゃない。料理するのは好きだ。小月が美味しいって食べてくれるのは、見てて嬉しい」


 ここまで流れでやってきた。

 俺から小月の態度について言及したことはない。それを伝えるのは、むず痒い気持ちになる。けれど、決して抱え込むなんて、負担に感じてはいないのだ。


「だって、帯包くんの料理はとっても美味しいんだもん。魔法の手だよね」

「大袈裟だよ」

「そうかな? 私にとっては十分魔法みたいなんだけどなぁ」

「……それは小月の手がポンコツなのでは」


 砕けたついでに、いつもよりも深く冗談へ踏み込んだ。小月が頭を拭く手が乱雑になる。わしゃわしゃされているだけなので痛みはないが、頭が振られてぐらぐらした。


「悪かったよ。やめろって、小月」


 じゃれているようなものだ。小月の手に触れて止めようと振り返り、その近さに心臓が跳ね上がった。触れた小月の手のひらがしっとりとしている。血流が耳の内側でうねった。


「帯包くんが悪く言うからだもん」


 幼く砕けた声が、内側の音を捻じ伏せて鼓膜をくすぐる。近い。可愛い。分かっていたはずの小月の姿が、怒濤のようになだれ込んできた。

 普段見ない姿。それを見て、特別性を抱くことはあるだろう。だが、それにしたって。自分のこととなると、途端に雑魚過ぎて頭を抱えたくなった。


「だから、悪かったよ。もう髪の水分もだいぶ拭けたし、大丈夫。戻って夕飯作らないと」


 やるべきことを並べ立てている。それは、ドキドキと騒がしい心臓への抗弁であるような気がした。

 小月の手をタオルごと引き剥がして立ち上がろうとすると、腕を掴まれる。裾を引かれることはあったし、それだけでも動揺していた。それが腕となると、距離感がもう一段階近付いたような気がして動揺が強まる。


「戻って作ってまた持ってくるのって大変でしょ? うちで作っていっても……」


 言いながら、実行するために越えるべきハードルに気がついたのか。それとも遠慮が顔を出したのか。語尾がうやむやに立ち消える。

 動揺していた。そんな状態で誘われれば、思い浮かぶ下世話な想像はある。連想ゲームでしかないにしろ、その躊躇が生まれた。

 もちろん、やろうだなんて気は欠片もない。かといって、ここで引けるほどの言い分も持ち得ない。意識してしまったからこそ、下手に引けなくなった。語尾を消しても腕を手放さない小月がいることで、突き放しがたくなる。

 馬鹿だ。隣人として、またひとつ何かを踏み外すことは明白だ。それでも、突き放せないのだから、頷く以外にない。

 俺は長く息を吐き出して、小月に向き直った。


「お邪魔するよ」

「……うんっ」


 こっくんと頷いた顔が嬉しそうで、胸が膨らむ。

 折に触れ、俺の料理にほだされていることを伝えてくれていた。けれど、こうして喜ぶのを目の当たりにすると、面映ゆい。それをどうにか飼い慣らして、キッチンへ向かう小月の後を追う。

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