第11話
二階のロビー。いつも通りのベンチに現れた葵が猫目を大きく瞬いた。
「どうしたの? それ」
「何がだよ」
指示語で示されたものが何か分からなかったわけじゃない。その目ははっきりと広げた弁当箱を捉えている。だが、訝しまれる理由は分からなかった。
「なんか、豪華じゃない?」
そう指摘しながら隣へ座って、弁当箱を覗き込んでくる。
中身は卵焼きにウィンナー、プチトマトにほうれん草の煮付け。ミニハンバーグは二つ分。ご飯は五目ご飯だ。
……豪華じゃない、と言うには、手を砕いた自覚はあった。弁当が二人分になったのは、今日の昼からだ。
俺が弁当を持ってきていることは、隣席として分かりきっている。料理は俺たちの一番の話題だ。夕飯から昼飯へ話題が広がっていくのも、何もおかしくはない。その流れで俺が弁当を申し出るのも奇妙ではなかった。
小月さんは当然のように渋った。しかし、胃袋を掴むのはズルいという論は、弁当だけ除外されるものではない。俺の腕にかかっている話なのだから、小月さんが陥落するまでに、それほど時間はかからなかった。
そして、今日はその初日だ。見つかってしまうのもやむを得ないほどに、気合いが入っているかもしれない。それは初日ということもあるし、見栄を張りたくなったということもある。
だが、もう少し切実な話をすると、食材費が入っているからだ。
小月さんとの取り引きは続いている。というよりも、均衡を破ってしまうと、小月さんは弁当を享受してくれなくなるはずだ。だからこそ、食材費はアップしていて、一人分の弁当では消費に困るものも入れられるようになった。
おかげさまで、豪華ではある。
「気が向いただけだ」
「へぇ? いつもよりも節約してないの? 良いことあった?」
「まぁ、余裕があるってこと。それは良いことだからな」
事情を話すつもりは欠片もなかった。
擦り合わせていないけれど、暗黙の了解だ。元々、距離を測っていた。隣席だけの接触でも守れていたものが、隣人になったからといって反故にはされない。
むしろ、面倒なことを避ける意思は以前より増している。その心境に準じて、お互いに秘密は守っていた。
「ふーん? 何? 割りのいいバイトでも始めたの?」
「ちょっとだけ手伝いで割り増しされてるだけだ」
「何その怪しいバイトみたいな言い方」
「家庭の事情」
そういえば、深入りしてこない。おおよその人間がそうであろうし、大体お小遣いの変動だと予想するだろう。葵も、それ以上追及してくることはなかった。
代わりに、手が伸びてくる。俺はその手から弁当を避難させた。葵の目がそのまま弁当から剥がれて、俺の顔へと流れてくる。
アイコンタクトの攻防が起こるが、言葉もなく通じ合える土壌はなかった。
「……何だよ」
「いつもはくれるじゃん」
「いつもはいつもだろ。豪華だって分かってるんだから、勝手に持っていくなよ」
「豪華だからこそって思ったんだけどなぁ」
「強欲」
あえてと聞くと、文句のひとつも言いたくなる。
小月さんとお揃いの中身。夕食も同じことだが、弁当となると妙にそれを感じた。プライベートの繋がりを外へ持ち出している。その事象が特別だ。
だから、だろうか。胸の底がぞわぞわと蠢く。いつの間に、小月さんを特別な位置に置いていたのか。強欲なのは葵ではなく自分なのかもしれない。
芽生えている感情を見て見ぬ振りしたいわけではなかった。けれど、今それを膨張させたってどうにもならない。
俺はお揃いの弁当とともに、気付いた気持ちを噛み下した。
隣席と言っても、常に隣に座っているわけじゃない。当たり前のことだが、動きが少ない小月でも移動することはある。
そのほんの少しの隙間時間に、スマホを見ていた俺の机に影が落ちた。通っているスーパーの情報をアプリで確認するのは、休み時間の定番だ。
当初は使った食材を戻してもらう形になっていたが、今は弁当の関係で材料費になっている。余裕ができたこともあり、チェックする時間も増えた。
小月も慣れてきたのか。リクエストしてくれるようになっている。レパートリーも増えてきたし、挑戦欲も回していた。趣味に費やす時間は増えている。
そこに差した影に顔を上げると、和久田がこちらを見下ろしていた。
「なに」
「あのさ、聞いてもいい?」
長身の和久田が、机の縁に顎を乗せるかのように屈んだ。和久田はそわっと周囲を見渡してから、再度こちらに視線を戻してくる。怪しい行動には疑惑しか湧かない。
和久田は少し前屈みになって、声を潜めるかのように手のひらを口元に立てる。聞かれたくない話なのか、とは思うが、そんな内情を暴露される心当たりもなく、疑惑は解けなかった。
「小月さんとどうやって仲良くなったの?」
「小月……?」
この頃、俺は敬称を抜くようになっている。
和久田を和久田と呼んでいるところを聞いたらしく、別にさん付けじゃなくてもいいとあっけらかんと告げられたのは玄関先でのことだった。
出されたその名を復唱すると、和久田がこくこくと小刻みに頷く。
「相変わらず、ガードが堅いんだよね」
小月がコミュ障で人見知りで、引っ込み思案なことは嫌というほど知っていた。だが、これは不特定多数……教室にいるときに、より強くその性質を帯びる。
転校前の話をしたいから話せと葵に言われたことがあるが、小月の口から過去話が持ち出されたことは一度としてない。
断片的でも、いくつかの材料が揃ってくれば想像できることはある。かつて教室で何かあったのだろうと。あくまで想像の域を出なければ、俺との交流に支障はないので、追及する気などなかった。そんな確証のない想像を他人に明け渡す気もない。
そこまで仲を深めているとさえ、伝えるつもりはなかった。
「隣だから話す機会も多いし、慣れてくれただけだろ」
「私って百八十センチオーバーの無愛想男子より話しかけづらいのかな?」
「何で人のことを貶めた?」
「だって、私だって話しかけてるし、マサくんよりは話しかけやすいと思うんだけど?」
まぁ、それはそうだろう。小月だって、俺より和久田のほうに懐いたほうが過ごしやすいはずだ。
けれど、小月はクラスに馴染むことに尻込みしているところがあるわけで、和久田のようにクラスに引き込もうとする手引きは得意ではないのだろう。
俺が距離を縮めることに成功したのは、初手の距離感を間違わなかっただけだ。そして、俺自身に友だちが多くないこともあるだろう。和気藹々と雑談する友人は教室にいない。和久田と話すことはあるが集団になるわけではないので、俺が他人と小月を引き合わせる心配はなかった。
そうした性質が合ったという土台の上に、隣人のアドバンテージが乗っかっている。ただそれだけの話で、和久田が悪いわけでもなければ、小月が悪いわけでもない。
まぁ、少しは馴染んだほうが気が楽になるのでは、と思わないこともないが。そんなのは小月の自由だし、食事以外に口を出すつもりはなかった。
「そう言われてもな。小月は大人数が得意じゃないんだろ」
言えることを漠然と伝える。和久田は如才ないのだから、これくらいを伝えれば多様性に納得できるはずだ。
「うーん。それでも、マサくんよりも威圧的だと思われて慣れてくれないのは悲しい」
「自分の悲しさを表現するのに、いちいち俺を下げる必要はないよな? 和久田さん? 委員長としての優等生感はどうしたんだよ」
「ズルいんだもん。マサくんばっかり」
「そんなこと言われても。和久田だって話してるほうだろ」
正直、小月が俺以外と滑らかに会話しているところを見たことがない。何かと頭を下げているし、何かあれば謝罪からスタートしている。
俺と距離を詰めるきっかけになったあの日と同じだ。遠慮しっぱなしで、見ていて不安になる。
その中では、和久田はまだマシなほうだ。移動教室では一緒に移動しているのも見かける。
和久田が案内を買って出ているのだろうが、小月は無計画ではないので校舎の構造について無勉強ってことはない。和久田が誘うからって、小月はついていかなくても移動できる。だから、多少は心を許しているのだ。小月の中では。
「マサくん、席変わってくれない?」
「そのうち席替えするからワンチャンあるだろ」
「そういう現実的なことは聞いてないんだよねぇ」
「じゃあ、俺にどうしろっていうんだよ。仲を取り持てとかわけ分かんないこと言わないだろうな」
そんなことをするつもりがないからこそ、先手を打ったつもりだった。けれど、それが呼び水になってしまったようだ。和久田の垂れ目がくるりと丸くなって輝く。
「やらんぞ」
追撃をしたところで、いいことを思いついたという顔に変わりはない。
「なんで?」
「逆になんで俺が手伝うと思ったんだよ」
「マサくんにはあおちゃんがいるじゃん」
「どういう理論なんだ」
理解不能な理由に眉を顰める。和久田は何食わぬ顔で首を傾げてきた。そうしたいのはこちらだ。
「あおちゃんと一緒に過ごしているんだから、小月さんと仲良くする時間なんてないでしょ?」
「なんで俺は一人の子としか仲良くできない設定になってんだよ」
「やっぱり、小月さんと仲良しなんじゃん。なんでマサくんだけ??」
「だから、和久田も会話してるだろって。話がループしてる」
「うーん。だって、仲良くなりたいんだもん」
「和久田も葵もなんでそう小月が気になるかね」
「だって、可愛いし、なんかこう……静か過ぎて大丈夫かなって。ていうか、あおちゃんが特攻かけてると思うけど」
「は?」
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