第10話
奇麗に洗ったタッパが戻ってきた代わりに、新しいタッパを渡したのは気まぐれに過ぎない。空っぽの冷蔵庫を見てしまったがゆえの手心でしかないだろう。小月さんは散々困っていたようだけれど、そのうちに諦めたようだ。
「胃袋を掴むってのは卑怯だと思う」
と不貞腐れたように漏らされたときは、手負いの猫に懐かれたような達成感を覚えた。
それから、小月さんからのお礼は食材という形で戻ってきている。あちらが気にするために、俺が希望したことだった。そうした塩梅をメッセージで話し合った結果だ。
小月さんはメッセだと対面しているよりも砕けた雰囲気があった。それは文字とは別に送られてくるスタンプが大いに関係しているだろう。それから、喋りも落ち着いていた。
謝罪を避ける時間がある分、横道に逸れる時間がない。会議をするには、メッセが相応しかっただろう。そして、そのやり取りの間に、小月さんも隣人としての俺にも慣れてくれたようだった。
教室と何がそんなに違うのか。小月さんがどう区切りをつけているのかも分からないが、俺だって無意識に差をつけている。
メッセでのやり取りは、プライベートを明け渡している感覚が強い。教室でも外面だけで付き合っているつもりはなかった。けれど、距離を測ろうとしていたことは事実だ。メッセではそれがなくなって、砕けた気持ちになるのだろう。
「本当にこれ、お返しになってる?」
「そういう話にしただろ。急になんだよ」
タッパの往復が二桁に突入したころ。小月さんが俺の部屋の玄関先で不意に零した。お互いの部屋の玄関を訪ねることは、このやり取りを始めてから二週間。もうすっかり気にしなくなっていた。
もちろん、相手の都合を無視することはない。ただ、放課後から二時間ほど。それくらいを目処にしようと、メッセで確認してあった。それに倣った訪問であるし、変更になる場合はちゃんと連絡している。やり取りは滑らかだったはずだ。
そのやり取りに横やりを入れられて、眉を顰める。小月さんはまだまだ弱気な顔にはなるが、縮こまることは少なくなっていた。慣れたというよりは、初手が過剰だったに過ぎない。
「そりゃ、お金を払っているからいいってことなんだろうけど、手を煩わせてるのは本当でしょ?」
「自分の分を作るついでだから気にしなくていいって。大体、食材だってじゃがいも一袋全部使うわけじゃなくても小月さんが戻してくれるんだから、俺としてはラッキーなんだけど」
「なるほど……そっか」
自炊しないだけに食材の使用感覚がなかったらしい。道理で、返品されてくる食材の量が多いと思っていた。持て余すほどではないので口にしてこなかったが、その謎が解けた。
「帯包くんは毎日料理してすごいね」
「今更」
「今、一番その恩恵を理解してる人間としては言わずにはいられないっていうか」
「作り置きしてるものもあるし、そこまで手間じゃないよ」
「それは帯包くんが作り慣れているからだと思うよ。私じゃ、野菜を準備されてもレシピが分かんないもん」
「それは本当にやる、やらないの差だろ。小月さんもやっていれば、そのうちに慣れていくよ」
「その前にまず、やれるようにならなきゃっていうめちゃくちゃ高いハードルがあるんだけど」
「そんなに苦手なの?」
俺が知っているのは空っぽの冷蔵庫だけだ。小月さんはつっと視線を逸らす。答えは聞くまでもなかった。それから、小さく唇を動かす。
「……だって、味付けが上手くできないんだもん。いつも失敗しちゃうの。火加減も」
指先を組み合わせて、ぐにぐにと動かすのは癖なのだろうか。じっとしていられないところがあるようだった。手すさび程度なので、微笑ましい。
ただ、発言内容は不得手の中でも重度であるような気がした。それは何もできないと言ってもいいのでは。
当人も自覚があるらしく、だらんと腕を垂らして脱力する。聞いたこっちが悪いような気分になるのは、俺が気にしすぎなだけだ。
「いつか、教えてやるよ」
「本当?」
ぱっと一歩足が踏み出される。小月さんが前のめりになることは珍しい。
道端に咲く可憐な花のような子だ。当人は遠慮しているだけなのだろうが、それがお淑やかに見えている。そんなものだから、こうも食いつかれると度肝を抜かれた、
「そのうちな。それまでは俺が作るから」
「うー。上手くほだされてる気しかしない」
「不満?」
「嬉しいから困る」
「ちゃんとイーブンだしな」
「それはどうか微妙なんだよなぁ。部屋の掃除とかしようか?」
そう首を傾げて、室内へ視線を向けられる。俺はその視線を遮るように移動して、小月さんを睥睨した。
「男の部屋に積極的に入ろうとするなよ」
「あえて露悪的に言うことはないじゃん」
「俺はこれから先の心配をしてるんだよ」
小月さんは押しに弱そうだ。俺の手料理についても、流されていると言ってもいい。俺に悪意はないし、心配という大義名分があるとは言え、流されていることに変わりはなかった。
男でもまずいが、可愛い女の子はますますまずい。
「とにかく、俺は釣り合っているから気にしなくてよし。はい。今日の分のピーマンの肉詰め。こっちにスープ入ってるから」
タッパと一緒に魔法瓶を差し出すと、小月さんの動きが一瞬止まった。静々と受け取って、まじまじと手元を見下ろしている。
「至れり尽くせり……」
ぽつねんとしみじみ。そんなふうに言われると、大層なことをしている気分になる。
俺としては、作るのも趣味だし、振る舞うのだって悪くはないことだ。小月さんは美味しく平らげてくれるものだから、つい色々と食べて欲しくなる。
その解決策として魔法瓶を持ち出した。過分なつもりはなかったが、相手の反応で伴う感情もある。
「ありがとうございます」
「こっちこそ、食材は助かってます」
深々とお礼されると、こちらまで改まってしまう。小月さんの流されやすさをどうこう言えたものではないのかもしれない。
「……そのうち、もうちょっとお礼するから。今度、ご飯奢るよ」
「じゃあ、そのときを楽しみにしてる」
俺の返事がどことなく実体のない口約束だと気がついているのだろう。小月さんは不服そうな目を向けてきた。
しかし、なあなあに丸め込まれることも分かっているらしい。プライベートを割いた隣人としての付き合いは、隣席のときとは比べ物にならないほどに想像できる範囲が広がっている。万全であるはずもないが、増加は間違いなかった。
「じゃあ、今日もいただきます。おやすみなさい」
「お粗末様。おやすみ」
一緒くたにする挨拶としては妙だろう。けれど、俺たちには普遍的な挨拶になっていた。そうして、背を向けて自室へ帰っていく小月さんを見送るのも日常だ。俺が小月さんの部屋を訪ねたときも同じだった。
これが隣人としても外れてきていることには気がついている。
けれど、俺たちはただの隣人ではない。クラスメイトであり、隣席だ。複合的なものが結びついている。だから、ただの隣人でいることも難しかった。その一線を飛び越えたのは俺だろうし、そのままなし崩しに突き入っているのも俺だろうけれど。
小月さんが受け入れてくれる気安さに、甘えているところもある。俺は世話焼きでしかない。それでも、じわじわとメッセや訪問でルールが作られて、関係が構築されてきていた。
何より、趣味の腕を発揮できることが楽しい。そんなものだから、俺はこの手を引けないのだろう。小月さんが本気で迷惑がっていないからこそ、ルールが整備されている。そこに甘えて、俺たちは粛々と隣人関係を深めていた。
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