第三章
第9話
「やっぱりおかしいと思うんだよね」
「俺もそう思ってた」
タッパの中に野菜炒めを入れて、ご飯も一緒に準備したうえで、小月さんの部屋の扉を叩いた。その出迎えの第一声に、激しく同意する。
「ただ、もう作っちゃったらこれはもらってくれ」
「ありがとうございます」
ここで押し問答をしたってどうにもならない。行き着くところまでいかないとリセットもかけられそうにもないので、小月さんが受け取ってくれて助かった。
部屋着はワンピース一枚で防御力が薄い。その袖から伸びる腕の細さを見ると、もっとがっつりしたものを食べさせたほうが……と、余計な思考が擡げ始める。
それをぐっと抑え込んで、一度かかったリセットからまた知らぬ道に突っ込もうとする自分の手綱を引いた。
「じゃあ、これで」
「待って」
踵を返そうとしたシャツの裾が、再び摘ままれる。たたらを踏むように止まった俺が振り向くと、小月さんは半分靴の上に足を置いてまで引き止めていた。さすがにそんな体勢の小月さんをそのままにしておくことはできずに、身体を反転させて向き合う。
だからといって、小月さんが元の位置へ足を引くことはなかった。
「私からもお礼をしなくちゃいけないと思うんだけど」
「……それはまた今度ってことで」
「……また?」
小月さんの目が細められた。元が大きな分、落差が冷たさを放つ。今まで感じたことのないひんやりとした温度に、胃の腑が縮まった。いつも縮こまっているのは小月さんのほうだったので、違和感が強い。
「だって、今までちゃんと距離を保ってきたでしょ?」
「……それは、まぁ。小月さんもそうしてきたでしょ」
俺一人の労力で、環境が整うものではない。隣なのだ。お互いに意識していなければ、こうも適度に知らん顔をしていられない。
小月さんもこくんと俯くように顎を引いた。
「感じ悪くてごめんなさい」
「俺もそうだから、それは気にしてないけど……今までがそうだったから、またはないって話?」
「帯包くんが気にしてないなら、いいの。またを考えていないのは、帯包くんのほうだと思ってた。またなんて、あるの?」
こちらが距離感に気を回していたことは気付かれていただろう。しかし、こうして口に出されると途端にぎこちなくなる。苦く笑って、後ろ髪を掻いた。
「こうなっちゃったら、変に距離を取ることもないし」
「ごめんなさい」
今日の事情は、小月さんが発端だ。謝罪する心理は分からないでもなかったが、それにしても謝り癖がついているようだった。……いい傾向とは思えない。自己肯定感が低そうで、見ているこっちも不安になる。
「俺こそ、不用意に知らん顔しようとしたのは悪かったよ」
「それは、私も一緒だから。どうしたらいいか分からなくて、そうしてたから。でも、帯包くんのほうがずっとこっちにいたんだから、私が後からやってきたわけだし、帯包くんのほうが、私……」
言いながら、動転していく。人付き合いが苦手なのは、今までだって分かっていた。淀む瞬間もあった。しかし、こうまで言葉に詰まって、説明できないほどに崩れたことはない。
「あの、だからね。帯包くんは、私と仲良くする気ないでしょ?」
さっきと同じことを言っている。より辛辣になっていることには、気がついているのだろうか。疑問形でありながら、どこかで確定しているようで、俺の返事を聞かずに続けざまに口を開く。
「だから、お礼もさっさとしてしまって、今まで通りに戻ったほうが、帯包くんのためかなって」
……相当に気を遣うタイプらしい。この場合、俺が使わせてしまっているのだろう。それくらい、距離を保とうとする態度が明確に伝わっていたということだ。
小月さんは、それをどう捉えていただろう。概ね、測り方としては間違っていなかったはずだ。だが、どんな態度でも許せるかどうかはそれぞれの基準がある。いい印象を持たれていないのかもしれない。
たとえば、こうして夕飯を作るほどの大胆な詰め方をしたとしても、別の点でシャッターを下ろすような人間だと思われるほどに。
「ごめん」
ひとまずの謝罪は、多分捻じれて届いた。謝罪を受けるようなことを言ったのだとばかりに、小月さんの身体が竦んでいる。
「そこまで、遠ざけようとしていたわけじゃないよ。ただ、ちょっと……隣はバレると面倒くさそうだな、と」
ここまできて、真意を伏せる意味もない。小月さんがここまで人の目を気にするのであれば、尚のことだ。
案の定、小月さんは深い相槌を寄越した。その深さが深刻さに直結しているような気がして、心の底がざわつく。
頼むから、俺への忌避感込みではありませんように。
「だから、話しかけないでいたりもしたけど、こうなったら気にしない程度にはクラスでは話してたと思うんだけど」
「そっか……そうだね」
クラスでの関わりを引き合いに出したのは、正解だったらしい。縮こまって浮いていた小月さんの肩が落ちた。
「帯包くんは、バランスが取れてるんだね」
「そうかな? 小月さんが誤解していたんだったら、成功していたとは思わないけど。これからは、挨拶くらいはする」
「お礼の話、忘れてない?」
「気にしなくていいのに」
あれくらい、言葉ひとつで済ませてしまって構わない。
俺が虫が大嫌いにもかかわらず、何としてでもどうにかしてくれと無理難題をふっかけてきたってんなら、俺だってお礼をしろと迫っただろう。だが、そんな事実はなかった。
虫が得意だとは言わないが、蛾を追い払うくらいなら、絶対的に避けたいとは思わない。だから、自身から助力に名乗り出たし、小月さんが拘泥せずともいいのだ。
生活のことに口を出す不躾な態度を取ったのだから、それでイーブンにしてもいい
「ご飯までもらっておいて、何もしないってのは、なんか……気持ち悪いから」
「気持ち悪いってな」
「ごめ、ごめんなさい。違うの。モヤモヤするっていうか。気持ちがちゃんとしないっていうか、そういうので、帯包くんが気持ち悪いってことじゃないよ」
「大丈夫。分かってるよ」
……気遣いというよりも、他者の目を気にし過ぎている。それは不特定多数なのか。一対一の相手なのか。その辺りはよく分からないし、俺だからなのか。他者に対しても同じなのかも分からない。
思えば、小月さんが他の誰かと雑談に興じているところなど見た覚えがなかった。和久田もコミュニケーションに苦労し続けている。俺が順調であったことが異質であったのだろう。
「……ごめんなさい」
すぐに縮こまってしまう小月さんは、教室ではどれだけ気を強く持っているのか。クラスではここまで卑屈ではない。
「謝らなくていいから、落ち着いてくれ。俺はそこまで神経質じゃないし、小月さんに悪感情なんてないし、そんなに気にしなくていいよ」
「ごめ、あ、うん。うん」
謝ろうとした声を止めて、泡を食うように何度か頷く。小月さんのことを理解するには、何ひとつ足りない。それでも、きっと小月さんにしてみれば、これでもいっぱいいっぱいなのだろう。
「だから、その調子でお礼のことも気にしないってことには」
「それはならないよ?」
「なんでそこだけ頑ななんだよ」
つらっと零れてしまった言葉に、小月さんの視線が泳いだ。それでも、引く気はないらしい。
「さっきも言ったと思うけど、やっぱり恩は返しておきたいの。私がそうしたいってだけだから、帯包くんに迷惑をかけるのは悪いと思ってるよ。でも、してばっかりじゃ、割りに合わないでしょ」
「別に見返りを求めてやってるわけじゃないけど」
小月さんの瞳がわずかに見開かれる。不自然なことを言っているつもりはない。
……これで感じるところがあるというのは、明るい人間関係が想像できそうになかった。そんな可哀想な想像をするのは身勝手だろう。飲み込んで素知らぬ振りをするのは、それほど難しくはない。
「だから、そういう意味なら気にしなくていい。でも、小月さんが気になってしょうがないなら、何かお願いするから。ひとまず、また今度ってことで」
「あ、あの、じゃあ。連絡交換とか」
その手が宙を掻いていて、懸命に引き止めてくる。面倒だと思わないわけでもなかった。けれど、一生懸命なのは通じる。それを蔑ろにできるほど、俺は豪胆ではなかった。
「分かった。ちょっと待ってて。スマホ持ってくるから」
「あ、私も」
俺が踵を返すのと同じくらいの素早さで、小月さんがリビングへ引っ込んでいく。俺へ対する危機感がなさ過ぎるのではなかろうか。上がり込んだ実績を持っている身で何を言えた義理もないが。
俺も大慌てで自室へ戻り、スマホを持って戻る。そのときには、もう小月さんは玄関で待っていた。行きがかり上、自然だ。リビングで待たれていても困る。だが、そわそわと待たれていると、子犬のような可愛らしさがあった。
「じゃあ、交換しよう」
「うん。連絡するね」
「ああ」
結局、その着地が正しかったのかも分からない。まだ迷子のままだったのだろう。わたわたと不器用な小月さんと連絡を交換して、自分用に残しておいた野菜炒めを食べてその夜を過ごした。
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