第8話

「……帯包くんは料理するんだね」

「一人暮らしみたいなもんだから」

「みたいなのものなの? 一人だと思ってたんだけど」

「一応、父と一緒に住んでるよ。滅多に帰ってこないから、一人で料理も生活もしているけど。……小月さんは、一人なんだよね?」


 隣席としては順調。隣人としては遠いくらい。こんな会話をするようになるなんて、欠片も想像していなかった。かなり踏み込んでいる。それも、小月さんの部屋で。


「うん。一人暮らしだよ。自炊はできていないけど」

「もう隠す気ないな」

「だって、帯包くん容赦ないんだもん」


 ぷくりと頬を膨らます小月さんは初見だ。

 こんなコミカルな態度を取るのか。表情の変化がない子ではない。けれど、ここまで分かりやすく拗ねるとは意外性がある。教室では見せない姿だった。

 適度。適当。

 そんな線は他愛なく踏み越えてしまったのだと、自認が追いついてくる。


「悪かったよ。でも、その冷蔵庫の中身は心配するしかないだろ。飲み物も入ってないんだし。今日の夕飯、どうするんだよ」


 口出しするつもりなんてなかった。距離を測るつもりでいた。それを打ち崩されるのが早すぎる。たったの二週間。なんなら、一足に飛び越えてからはたったの数十分くらいしか経っていない。


「何か……頼もうかなって」


 指先をぐにゅぐにゅと絡ませるように動かしながら、顔を背ける。

 恐らく、出前は今日に限った話ではない。憚るような頻度で利用しているがゆえの態度に見えた。

 大丈夫か、これ。

 余計なお世話なのは分かっている。けれど、弱々しい姿を見てしまった。食事に関することではないし、首を突っ込む動機には弱い。それでも、教室での様子をよく知っている。隣席としての知識が現在の特殊性を浮き彫りにさせて、気を剥がすことが難しかった。


「何を?」

「ピザとか」

「……昨日は何を?」

「……ハンバーガー」

「おい」


 今までは、強い口調を控えていた。意図していたわけじゃない。けれど、自分が声を荒らげれば厳つい自覚はある。小月さんを不用意にビビらせない配慮はあったはずだ。

 そこから外れた声音に、小月さんは首を竦めた。しかし、それは恐怖というよりは気まずさらしい。苦い顔になる。


「もうちょっと自炊しようとしたほうがいいんじゃないの?」

「……苦手っていうか……できないっていうか……」


 全力で逸らされた視線は、ふよふよと泳ぎまくっていた。

 蛾の件では、苦手と言いながらも取り繕っていたし、最初は一人でどうにかしようとしていたはずだ。それが、炊事に関しては体面を保とうともしない。

 想像以上に苦手な人というのは、この世には存在する。極度の方向音痴も、運動音痴も、画伯と呼ぶほどの下手な絵を描くものも。何もしなくても機械を壊す謎の能力を有している人もいるくらいなのだから、自炊が壊滅的な女子高生なんてありふれているだろう。


「それでよく一人暮らしをしようと思ったよな」

「……ごめんなさい」


 ぐっと唇を噛み締めて、俯かれた。その瞬間、踏み込み過ぎたことを自覚する。そして、それが自炊の面ではなく、一人暮らしの事情への踏み込みだったことも。

 片腕の肘辺りを擦るように、身体を小さくする。身を守るかのような仕草を見て、失態を悟れないほど愚鈍になったつもりはなかった。

 ……どうだろうか。小月さんでなければ。こうして、二人だけの空間でなければ、気がつくこともなかったかもしれない。

 ここには、他に気取られるような物事が何にもない。否が応でも、小月さんだけに視野が絞られる。検分することに難はなく、感覚が尖っていた。


「俺こそ、事情も知らずに余計なことを言った。ごめん」


 縮こまっていた肩が開く。緩く上がってきた顔は困り顔だった。誤魔化すような薄い笑みが浮かんでいる。その姿が無性に痛々しくて、自分のやらかしの大きさに胸が痛んだ。


「責めようと思ったわけじゃないし、小月さんが一人暮らししているのに俺が言えることはないから、戯れ言だと思ってもらっていいから。ごめんな」

「……ううん。心配してくれて、ありがとう」

「ううん。お詫びになるか分からないけど、俺でよければ、何か作ろうか」

「え」


 自分でも口走った後に、そう思った。まったくの無自覚で、手料理の発想もそのときまで露些かもなかったというのに。


「あ、いや……」

「帯包くんが、私に……? えっと、そこまでしてくれなくても……?」


 大混乱しているのは、お互い様だ。

 発案側だって藪から棒過ぎて意味が分かっていないのだから、小月さんが状況を把握できているはずもない。フクロウのように深い角度で首を傾げている。頭の上にクエスチョンマークが視認できそうだった。


「もし、困ってるなら、ついでだし」

「わたし? えっと、それは、助かるけど??」

「じゃあ、お詫びってことで」

「私のお礼はどうしたらいい?」

「え?」


 後からでなら、もう少しまともな考慮ができる。けれど、渦中ではそうもいかない。それにしたって、お互いに混沌へ飛び込み過ぎていた。


「蛾のこと。そもそも、私がお礼をするための時間だったと思うんだけど。帯包くんは何か困っていることはある?」

「えーっと、俺は特に」

「それ、お得なのは私ばっかりになって困る」

「困らなくない?」


 得をするのだから、小月さんに迷惑をかけるわけではない。首を傾げると、小月さんも反対側へ首を傾げた。からころと揺れ動くおもちゃのようだ。


「恩が増えたら困っちゃうよ?」


 義理堅いらしい。もらえるものならばもらっておけばいいのに。

 こっちだって、小月さんのお礼を受け取らないでいることを失念して、そんなことを思っていた。そのくせ、お礼を押し付けている。

 俺は料理を振る舞いたい妖怪か何かなのか。


「俺は気にしないけど」

「なのに、私は帯包くんにご馳走してもらうの??」

「いらない? ファーストフードよりは健康的なものを作れると思うけど」

「それは魅力的だけど」


 正直、話の筋も見失ってしまっていた。

 揃って失った筋道を戻してくれる他の人なんて、この密室にはいくら待ってもやってこない。そうなると、本格的な五里霧中。自分たちでもどうしようもなくなってしまっていた。


「じゃあ、そういうことで。後で持ってくるから」


 どうしようもなくなっている場所に在中していられるほどの肝は持っていない。言い捨てるようにすれ違おうとしたブレザーの裾を捕まえられる。くいっと摘まむような仕草は細やかだけど、振り払うことはできない。

 足を止めて見下ろすと、焦ったような顔の小月さんが見上げていた。


「そんな一方的なことってある?」

「……でも、そろそろ作らないと夕飯遅くなるよ」

「うー」


 子どものような呻き声には、意外性しかない。ここまでも意外性しかないのだから、もはや知らない隣人だ。小月さんがこんな感じだなんて、隣席だけでは知ることもなかっただろう。それを嬉しいと感じる余裕が、このときはなかった。


「ダメかな?」


 小月さんが子どものような態度を取るものだから、こちらまで幼い子に接するような柔い態度になってしまう。しかし、小月さんは同級生だ。縋るような甘さになって、臓腑の中がぞわぞわした。


「ダメじゃないけど……私にも、ちゃんと恩を返させてよ?」

「分かったから、今日はもういいだろ?」

「絶対だからね?」

「そんなにムキにならないでくれよ。夕飯を持ってきたときに、ちゃんと話をするから」

「分かったよ」


 ムキになっているのもお互い様だった。俺だって、夕飯を振る舞うことに意識が取られていて、妥協が浮かんでいない。

 突っ込み所なんていくらでもあったはずだ。振り返ってみれば、自分のおかしさに気がつける。何だったら、そのときだって何を意地になっているのかという疑問は胸中にあった。

 それでも、止まれない坂道を転がっている。それは、小月さんがいるということもあっただろう。同じくブレーキの壊れた同乗者なんていいものではない。

 頷いた小月さんが、そっと裾を離してくれる。それから、お辞儀を繰り出してきた。


「本当に、ありがとう。蛾のことも、料理のことも。心配をかけてごめんなさい」

「こっちが申し出たんだから気にしなくて良いよ。謝らないで」

「感謝は受け取ってくれるよね?」

「もちろん。どう致しまして」


 対句として間違ってはいない。しかし、話の流れがズレているわけだから、きちんと着地できている感覚はなかった。ずっと落ち着かない。


「じゃあ、作るのに家に戻るから……」

「あ、うん。はい……えっと、私はどうしてたらいい? 帯包くんの家に行く?」

「できたら持ってくるよ」

「う、うん」


 流れに押されて、頷くは頷いている。だが、語尾に残った疑問は消せていないし、俺も何を言っているのか吟味できていなかった。


「じゃあ、また後で」

「うん。……気をつけて」

「ありがとう」


 一度曲がり角を間違ってから、迷子になり続けている。自宅への道筋がたっても、なぜここに辿り着いたのか分からない。よく分からない裏道を迷っていたら、自宅のマンション裏に出たみたいなものだった。

 だから、返事があっているのかもよく分からないままに、俺は玄関へと移動する。小月さんもよく分からないままに見送りに出てきてくれた。


「じゃあ」

「ああ」


 挨拶も繰り返せば、レパートリーはなくなってくる。そもそも、道が分からないままに歩き回っているのだから、正常な会話ストックが適応されない。掴み所のない挨拶を交わして、落ち着かないままに小月さんの家を後にした。

 自宅はたった数メートル先だ。何を考えるまでもなく、さくっと辿り着ける。そうして、鍵をかけた拍子に、混乱が一塊になって襲いかかってきた。

 がくんと重さが肩にのしかかり、框に座り込んで頭を抱える。適度な距離感を保つ隣人。そんな思考はどこに置いてきたのか。積極的に関わり合いになろうだなんて微塵も思っていなかったくせに。どうしてあんな申し出をしたのか。いくらハプニングに首を突っ込んだ結果だとしても、こんな道に迷い込んだのは俺のナビがおかしかった。

 小月さんのせいじゃない。はずだ。いや、これはどっちがどうとかそういう問題じゃない。とにかく、よく分からない顛末だ。

 大息を吐き出してみたところで、身体が軽くなることはない。頭が痛くて胃がムカムカした。頭の中と言わず、体内が引っ掻き回されている。内臓の場所が取り換えられてしまいそうだ。

 そうして懊悩して数十分。それで解決するはずもない。だからこそ、人は開き直ってしまうのだろう。

 そして、俺はそういう道を採りがちだ。そうでなければ、ここまで意味不明な状態になり得ない。そのうえ、今の俺には開き直り先が用意されている。

 夕飯の準備だ。

 いつも通りのこと。そこに飛び込んでしまえば、他のことを考えることはなくなる。

 まったく、とはいかないが、それでも悶々としているよりは生産的だ。俺はそこに一意専心して、飛び込むことしかできない。作ると申し出たのだから、やるべきことをやるしかないのだ。

 俺は開き直って、キッチンへと立ち向かった。

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