第7話
考える時間はなかったのか。俺は阿呆か何かか。速攻で後悔に襲われる。中身を吟味するまでもなく、危険な発言だ。取り下げなければ、と冷や汗が背中に伝う。
しかし、そんな俺の後悔を取り去るように、
「いいの……?」
と、恐る恐る確認をされた。小月さんはじっと俺を見つめてくる。
縋られているように感じるのは、俺の問題だろうか。無条件に頷いてしまいそうになる。慌てて後悔の尻尾を捕まえて、冷静さを取り戻した。
「いや、待って。いいの?」
「ダメなの?」
当惑した顔が傾げられる。眉尻の下がった困り顔に連動して、ストレートの髪の毛が揺れた。その毛先が、胸元に垂れて跳ねる。下世話な思想が引っ掛かったのは、現実逃避半分だったかもしれない。
「ダメっていうか……男だけど、部屋に入れてもいいのか?」
「あ」
たった今気がついたとばかりの発声は分かりやすい。同時に、可能性を失ってしまったような顔になった。
「……そうだよね。帯包くんだって、困るよね」
しゅんと項垂れて杞憂するところがおかしい。俺が困るのではなく、小月さんが警戒心を持つべき案件だ。
女だから襲わないとは言い切れないが、この場合は押し入ろうとしている俺への警戒を持つ場面だろう。感性がズレている。それとも、距離を保つ俺の行動を信頼の礎にでもしてくれているのだろうか。
「俺じゃなくて、小月さんが危機感を持つべきだと思うけど」
「わたし……?」
目を丸くする顔に、大息を零したくなる。腕を組んでしまった俺に、小月さんは悲しそうな顔になった。
「ごめんなさい」
多分、俺の考えに気がついていない。
謝ることではないだろう。俺の思考回路に引いてもいいところだ。どうすべきか。はっきり言うべきか。
「いや、そうじゃなくて……小月さん、男を部屋に連れ込むんだから、もう少し考えて」
「……」
ぱちぱちと長い睫毛を瞬いて数回。じんわりと頬に桜色が滲んでいく。理解してくれて何よりだが、反応が可愛らしくて胸の中が掻き乱された。
いやいやいや。
ここで微笑ましさを抱くのは、些か倒錯的だ。よくない。捕まえたはずの後悔の尻尾はどこにやってしまったのか。
「もちろん、そんな卑劣なことをするつもりはない。それでもいいなら、対処する。ちゃんとできるかどうかの自信はないけど」
俺のほうが背が高いし、天井の蛾を追い出すには適任だろう。だが、やったことのないことだ。手伝いを申し出ておいて悪いが、できると豪語はできない。男を引き込むリスクと釣り合うかどうかは、小月さん次第だ。
「……帯包くんには手間をかけて悪いなって思うの。私が自分ですべきことだと思うし、でも、苦手で……帯包くんが、私の意思を無視したことをするなんて思わないから。お願いしてもいいですか?」
どこまでも及び腰。これで最終判断までを俺に任せてくるようであれば、意志薄弱でイライラしたかもしれない。
けれど、お願いと頭を下げられてしまったら、こっちも真摯にならなければという気持ちになる。ここまでのか細い交流が、その感情を支えているかもしれない。
「小月さんがそういうなら、お邪魔させてもらいます」
頭を上げた小月さんは、ひどくほっとした様子だった。まだ解決もしていないうちからの態度を見ると、本当に困っていたらしい。
……それも、そうか。部屋を出てくるほどに苦手なのに、一人でどうにかしようとしていた。不安だったのだろう。それを手助けできるのならば、声をかけてよかった。
小月さんは意を決したように、扉に手をかけて怖々と開く。そっと中を覗いて、忍び足で入っていく。小月さんの意思を尊重して、俺も物音を立てずに動いた。意識すると途端に難しくなるのは、笑ってはいけない機会と同じだ。
そうして、リビングダイニングに到達する。テレビとソファとローテーブル。随分すっきりとした室内だ。テレビ台に引き出しがあるので、必要なものはそちらに置かれているのか。
細々したものもないし、奇麗に片付いている。自室のほうに荷物が多いのかもしれないが、それにしたって生活感がなかった。
そして、その白い天井に枯れ葉色の蛾が止まっている。小月さんはへっぴり腰になりながらも、動かずにそこに止まっている蛾に安堵しているようにも見えた。
部屋に入り込んだ虫がどこに行ったのか分からない。それほど怖いこともないだろう。
「窓、開けるね」
言いながら、そろそろと移動して、ベランダの窓を開けていく。泥棒もかくやという動きだ。面白くなってくるのは、どれだけ言っても他人の部屋であるからだろう。
そうして忍んでいても、窓を開く音を消すほどの技術はない。小月さんはちらちらと天井を確認しながら、窓を開いていった。
緩い風が室内の空気を混ぜていく。その微風でも、室内が様変わりしてしまうのではないか。それくらいに、小月さんはビクついていた。
やはり、他人事であるからか。どこか微笑ましささえ感じられた。だが、人の苦手をからかう趣味はない。何より、手助けすると進言してこの場にいるのだ。
「小月さん、椅子とかあるかな?」
話しかける声が小さくなってしまったのは、肝心の小月さんが物静かにしているからだった。頷いた小月さんが、キッチンから踏み台を持ってきてくれる。
「このくらいで、届くかな? 一応、手持ちのモップには柄があるけど……使える?」
「ああ。ありがとう。助かる。端に……キッチンとか、廊下側から覗いておくとか、それでもいいぞ」
「……一応、ちゃんといる」
制服のスカートの太腿辺りを握り締めている。視線が天井から剥がれない。逃げ出したいのだろう。それでもここにいるのは、義務感に似た律儀さか。
俺としても、任され過ぎない程度はありがたい。けれど、我慢させているのは忍びなく、預かったモップを手に踏み台へと上がった。
五・六十センチほどの踏み台は、小月さんにはさまざまな場所へ手を伸ばすに役立つ高さなのだろう。俺には楽に天井へ手を伸ばせるものだった。
そうして、モップの柄部分で天井を叩く。飛び立った蛾に、どんと音を立てて小月さんが後退した。俺は小月さんの方面を身体で防御しながら、手のひらやモップを使って窓のほうへと蛾を追い立てる。
誘導したからって上手くいく根拠はなかった。こういうときに限って、泥沼に嵌まることも多い。しかし、今日は物事が上手く運ぶ日のようだった。
交流を持つことになってしまったことが良好であるとは一概に言えないけれど。蛾だけは、すぐに飛び去っていってくれた。
瞬間、力が抜けたのは俺もだが、それよりも小月さんが思いっきり脱力する。呼吸さえも抑制していたような大きなため息が吐かれた。
「大丈夫か?」
「うん。平気だよ。本当にありがとう。帯包くん」
俺がベランダの扉を閉めている間に、小月さんがこちらへ近付いてくる。できるだけ現場にいるつもりだったようだが、それでもリビングの端まで逃げてしまっていた。中心へと戻ってきた小月さんが、ぺこりと頭を下げる。
「いいよ。上手くいってよかった……気をつけてな」
「うん。助かったよ。何かお礼をしないと」
「そんなこと気にしなくても」
口を開こうとする俺をよそに、小月さんは楚々とした動きでキッチンへと入っていく。どうするつもりなのか。
まったく想像できなかったが、キッチンは気になった。それとなく、カウンター越しに様子を見る。キッチンもリビングと同じように、清潔感が保たれていて、生活感がなかった。
もしかすると、潔癖性なのだろうか。そうだとすると、虫が入ってくるなど、恐ろしくてたまらなかったのも分かる。
俺が気軽に入ってもよかったのか。汚れるような動きはしていないが、生活で持ち込む菌を払えているはずもない。
いや、でも小月さんも自分の身を小奇麗にしてから部屋に入るなんて工程を経ていなかった。
どういう線引きなのだろうか。それとも、引っ越したばかりで奇麗にしているだけなのか。物が揃い切っていないのか。プライベート空間にお邪魔しているという実感が湧かない。
「何か、飲み物くらいなら……」
言いながら、小月さんが冷蔵庫を開く。その中は、目を剥くほどに空っぽだった。飲み物くらい、という言葉すらも大言で、飲み物すら入っていない。
小月さんの口元がひくりと震える。
「……小月さん」
「ひゃい」
何それ、甘噛み? 可愛いな。
葵なら、狙い過ぎていると感じたかもしれない。けれど、怯えるように肩を竦めた小月さんが、本気であることは明白だった。ちらりとこちらを振り向いてくる小月さんは、顔面に気まずさを大書している。
「生活、できてる?」
「え、あ、だって、総菜とか、あるし、料理はできなくても、生活はできてるよ? ちゃんと、片付けてるし」
……リビングのことは信じるとして、キッチンが片付いているのは料理していないだけだろう。
「……食べてるんだよな?」
「……まぁ」
上っ面だけでも、快活に頷いてしまえばいいものを。
嘘がつけない性格なのか。ハプニングで浮き足立った状態から気を落ち着けることができていないままなのか。どちらにしても、それを真に受けることはできそうにもなかった。奥歯に物が挟まったような相槌は、健康的な食生活を想像することはできない。
思わず、腕を組んで眉間に力を入れてしまう。
「ごめんなさい」
あっさりと謝罪されると、こちらが過敏になっている気持ちになる。
ぐりぐりと眉間を揉んで、気を落ち着けた。自分が料理に興味があるからといって、小月さんの不得手を指摘する立場ではない。ましてや、今まで適度な距離で済ませようとしていた間柄だ。突然、親身になるなんて不気味に過ぎる。
それでも、この謝罪具合も含めて、看過するには心配に足が出ていた。
「……謝ることはないけど、心配はしてる」
「やっぱり、自炊したほうがいいかな?」
「できるなら」
料理ができなくても生活できるだろう。一人分の手料理をするには、存外腕がいる。やりくりが分かっていないと、結局総菜よりも食費がかかるなんてことはよくある話だ。俺はすっかり身についているから、実感することは少ないけれど。
だから、確認されてもお勧めに留めることしかできない。頷いた俺に、小月さんの瞳が俺の荷物へと視線を移した。そこにはスーパーで買った食材が詰まっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます