第6話

 夕方に雨が降る。

 小月さんが教えてくれた予報通りに小雨が降っていた。濡れて帰っても構わないような小雨だったが、じきに止みそうなものに無茶をする気はない。残って待つに困らなかった。

 小月さんと帰りの時間をずらしていることを考えれば、むしろ好都合だ。予報を見ていた小月さんは傘の用意があったようで、すぐに帰宅している。

 逐一、観察しているのもどうか。その自覚はあるが、バッティングしないためには気にしないわけにはいかない。俺は習い癖のように、小月さんが帰っていくのを見送っていた。今日はそこに、雨脚の確認を追加して、それからスーパーへ寄って帰路へ着く。

 スーパーへ寄るのは、遠回りに数えていない。それくらい以前から身についている習慣だ。

 小月さんも利用しているだろうが、生活のためには仕方がない。店内で鉢合わせたときはマンション内と同じ対応をしてくれるだろう。その希望を胸に、買い物は普段通りに行っていた。

 スーパーを出るころ。空はいまだに曇天だった。不安はあるが今のうちだろう。知れず早足になりながら、マンションへと急いだ。

 マンション内で、小月さんと顔を合わせることは少ない。それとなく示し合わせているのか。偶発的なことなのか。生活のリズムを把握するほどに、気を回されているのか。その辺りはあやふやだが、少なかった。

 そうして、半月以上。慣れとは恐ろしいもので、会うことはないだろうとどこかで楽観視していた。頻度が少なくなれば、その視点は強くなる。

 ましてや、小月さんは干渉してくるタイプではない。スルーしてくれるという安心感から、俺は悠々とマンションの廊下を歩いて自宅へと向かっていた。

 そうして、部屋の前で小月さんに邂逅する。扉の前。俺の部屋のほうがエレベーター側から奥へあるので、その廊下の途中に小月さんが立っていた。

 なんでそんなところに、と思いながら足を止めることはない。日頃はスルーしている。触れるほうがおかしな話だ。だから、そのまますれ違おうとした。

 しかし、扉の前に突っ立ってスマホを触っている小月さんの違和感は拭えない。目を向けようとしなくても、視界に入ってくる。

 その小月さんの眉尻の下がった顔には見覚えがあった。記憶の引き出しを引いたのは反射だ。その引き出しが正解だったことも、偶然でしかないだろう。

 教科書を持っていない。困っているときの顔色。その顔で、扉の前に棒立ち。思いつくのは……


「鍵、忘れたの?」


 スルーするつもりだったはずの声が出ていた。スーパーの袋片手に、扉と扉。その狭間に立ち止まって、半端に声をかける。何とも不格好だった。声をかけない原則を無視したわりに、声をかけるにしても無礼だ。

 勝手に相手の状況を想像して、出し抜けに尋ねる。もう少しやり方はあっただろうに。案の定、小月さんは何度も瞬きを繰り返していた。


「え、どうして?」

「そりゃ、そんなとこ突っ立ってたら、何かあったのかと思うけど」


 あちらも不思議そうだが、こっちのほうがよっぽど不思議だ。

 鍵じゃなきゃ、こんな行動を取る理由がない。俺と交流があるのならば、用があって待っているということもあるだろう。だが、俺たちにそんな基礎はない。そんな事態にはなりようがなかった。

 唯一の想像が削られてしまえば、不審者という冷血な判断を下すしかなくなってしまう。本人も、自分が不審な行動を取っていることに気がついたらしい。


「あ、えっと……」


 と口ごもり、視線が逸らされた。伏せるように視線を逃がし、手にしていたスマホを両手で握り込んで縮こまる。

 ひ弱でビクつく姿には、罪悪感が芽生えた。お門違いだろう。そう分かっていても、庇護欲に似たものが湧き上がる。このまま放っておけるわけもなかった。


「何か困りごと?」

「……うん、はい。あのね、蛾が天井に張り付いちゃって」


 蛾が天井に張り付いちゃって。

 言葉を精査してしまったのは、上目遣いにやられたからってわけじゃない。なかなか聞かない状態であるからだ。少なくとも、俺はそんな体験したことがない。

 初耳のことに即応できるほど、俺の反射神経はよくなかった。そんなスマートさがあるなら、小月さんへの態度ももっとマシなことができている。


「……外にいても仕方がなくないか?」

「目を逸らしてどこ行っちゃったのか分からなくなるのも怖かったんだけど、部屋にいるままどうすればいいか調べるのも集中できなくって」


 そういう小月さんは、踵と爪先へ小さく体重を移動させて身体を前後させていた。落ち着きがなく、目線が部屋の扉へ向く。


「解決法は見つかったの?」

「長物で天井に音を当てて、窓から外へと追い立てるしかないみたい……捕まえられるなら、直接ってのもありらしいけど……」

「長物はあるの?」

「……ないかも。直接もちょっと、っていうか天井って、高いよね」


 そういって遠い目で廊下の天井を見上げた。それは、半分俺の身長を見上げているようにも見える。

 俺と小月さんの身長差はおよそ三十センチ差。天井が高いと思ったことがないと口に出したら、羨ましがられそうだ。


「……手伝おうか?」

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