第二章
第5話
通学路を少し変えて一週間。隣の小月さんとの付き合いは、穏当と言えるだろう。
挨拶は怖がらずに交わすようになった。外出時に遭遇したときも、挨拶だけ交わして離れるのが暗黙の了解になっている。
これは小月さんが努めてそうしているのか。初日に俺がそうしてしまったからそうしているのか。その判別はつかないが、無理をさせている気配はしない。
その感覚に頼って、隣人としての距離は据え置きになっている。隣席としては、交流に似たような会話が生まれていた。
「おはよう、帯包くん」
「小月さん、おはよう。いい天気だね」
という会話は社交辞令でしかないが、それでも交流は交流だ。そんなものを一日、一日、緩々と重ねている。それが半月も経てば、雑談が続く日もあった。これを適度と呼んでいる。
「今日は、夕方にちょっと崩れるんだって」
「マジ? 傘持ってきたほうがよかったかも」
「夕立くらいだって聞いたよ」
「じゃあ、まぁ……大丈夫かな」
「多分ね」
最悪、建物の影を頼りにすれば、雨脚によっては帰れない距離でもない。もっと最悪を言えば、走れる。そうした事情は、何も言わずとも測れるはずだ。何しろ、寄り道をしなければ俺たちの通学路は一部のズレもないのだから。だから、この多分は、他の誰が言う多分よりもずっと正確性のある謙虚な多分だ。
そう思うと、頬が緩む。そんな俺に、小月さんは不思議そうな顔で小首を傾げた。
「いや、小月さんの分析は頼りになるな、と思ってさ。ありがとう」
「どう致しまして?」
きょとんとした顔つきはに変化はないし、言葉も不思議さ満杯だった。それでも、自宅に繋がる発言をするつもりはない。
俺は素知らぬ顔で、呼応する締めの言葉でよしとした。小月さんは食い下がってこない。その間合いが分かっているから使える、都合のいい幕引きだった。
葵や和久田ならば、深掘りしようとしてくるに違いない。あの二人と秘密にすべき情報を持っていないので、探られたところで困ることもないが。小月さんと話すときには、気をつけなければならないことがちらちらと浮かぶ。
その厄介さが消えてなくなることはないが、煩わしいと思うことは少なかった。最初からそうした付き合いをすることが確定していれば、一貫して変わりがない普通のことだ。
隣人であることを、小月さんがどれほど秘するべきと考えているのかは知らない。確認したこともなければ、しようと試みたこともなかった。あの日のことは、お互いになかったことのように過ごしている。
今のところ、それを逼迫した状態で突き出されたことはない。あえて触れなければならないようなことでもなければ、俺たちはきっとこのまましらばくれ続けるだろう。隣席として困らなければ、それでよしとしていた。
小月さんは人付き合いが得意とは言えないけれど、付き合いを毛嫌いしているわけではない。隣席として言葉を交わせるほどには、俺にも慣れてくれたようだ。
不意にそばに立つとビビられるのは変わらない。だが、長身の男に見下ろされることに焦点を当てれば、不意にビビられるくらいのことは許容範囲だった。
俺だってそんなものが隣に現れたら、何だろうかと疑問を抱く。自分よりでかい人間なんて滅多にいないものだから、腰が引けることもあるかもしれない。そう思えば、小月さんの態度は一般的であるし、悪感情を抱くことはなかった。
何より、小月さんは不意を突かれれば、誰であってもビックリしているところがある。俺を特別警戒しているわけではないと分かるから、肩肘張らずに済んでいた。
それに、社交辞令以外でも、小月さんは声をかけてくれる。
「帯包くん」
「どうした?」
「ごめんなさい。教科書、まだもらってなくて」
「ああ……そうか。じゃあ、一緒に見るか」
「ありがとう」
図解の教科書は一年生のときに買ったものを使い続けることになっている。二年の教科書と一緒に揃えられない理由があるのか。抜けなのか。突っ込み所はあったが、小月さんの落ち度ではない。
それに、一年のころの資料を忘れているものは、他にもぽろぽろといる。おかげで、机をくっつけたところで悪目立ちすることはなかった。そうでなければ、俺は躊躇していたかもしれない。ヘタレと呼ばれても仕方がないだろう。
机をくっつけた距離で見る小月さんは、解像度が高い。いつもは黒縁眼鏡で輪郭がぼけている。そばに寄ることで、それが一気に鮮明になった。
黒々とした艶のある髪の毛から、フローラルな香りがする。教科書を見る爪が整えられていて、光を反射していた。磨かれて丸っこい指先は、細くて華奢だ。意図して見比べようとしたわけでもないが、自分の手元を見下ろすと、違いをしみじみ実感した。
ちゃんと授業を受ける姿勢は正しい。ノートに綴られる文字は、丁寧で少し丸く崩れていた。
そこまで視線を伸ばしたところで、自分が小月さんを観察していることに気がつく。距離を測りたいとは何なのか。その瞬間的な後悔に従って、そこからは観察をやめた。
それでも、無視できない距離感だ。知りたいと願わなくても知ってしまう。それが隣席というものらしい。そんな一幕もあった。
かと思えば、とんとんと指先で机を叩かれたこともある。俺は肘をついて俯いて、寝落ちしかけていた。はっと顔を上げた俺に、小月さんは自分の教科書を示してくる。その仕草が意図する回路がすぐに繋がったのは、物珍しい接触のおかげだったかもしれない。
それと同時に名が呼ばれて、音読を任された。日付の人を指してからは、日付の一の位を指名していたらしい。先回りしてくれた小月さんには感謝しかなかった。
音読を終えて席についてから、小月さんにアイコンタクトする。
「ありがと」
そうほぼ声を出さずに口パクしたのは、机を叩くという秘められた仕草に影響されたのかもしれない。小月さんも返事はなく、細やかに微笑んで顎を引いただけだった。
隣席としては特殊な態度ではないのかもしれない。けれど、まったく触れ合わなければ通じるものではないやり取り。遠ざけると言うほど、距離感は遠くない。だが、隣席であればなくもない。その辺りを漂う関係は心地良かった。
そんなふうに、授業中のやり取りは多くなっている。俺が落とした消しゴムを拾おうとしてくれて、手のひらが触れ合ったこともあった。他人事であれば、そんなベタな漫画みたいなことを。と思うことができただろう。しかし、実体験となると話は別だ。
慌てふためいて手を引くところまで、お互いに演じきった。
「ごめんなさい」
「いや、こっちこそ。ありがとう」
会話として成立しているかも怪しいやり取りまでも、再現する必要はあったのか。他人事であれば突っ込めたのであろう。
だが、距離を保ち続けているものたちの間では、そんな戯れで流せるようなことはなかった。同時に、小月さんでなければ、こんな甘酸っぱいような状態になってもいなかっただろう。
葵相手ならもっと主導権を奪われたものになるし、和久田ならぎくしゃくした空気を笑いで一蹴していたはずだ。
そう思えば、これは小月さんだからこそのコミュニケーションで、強ち悪いものでもない。
それに、小月さん相手では、こちらのペースを押し付けないことがいいように働いているように思える。
そうでなければ、隣席としての関係すらも突き放されているかもしれない。それほどまでに、小月さんとの距離感は絶妙なバランスの上に成り立っていた。
小テストの範囲を確認したり、特別教室への移動を確認されたり、そういう会話をすることはある。けれど、プライベートに立ち入ることはなかった。
そのバランスの上で、俺たちの関係は順調に結ばれている。とはいえ、絶妙なバランスというのは、命からがらのバランス。危険な距離感。背中合わせ。表と裏。
あっけなく崩れかねないものの上であったことを、俺はもう少し取り合っておくべきだったのだろう。
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