第4話

 二階の多目的ホールの前には、ロビーのような空間があって、ベンチが設置されている。

 さほど広くもないし、ベンチも二つしかないが、たむろしている生徒が現れる場所であった。俺は昼食をそこで取る。といっても、これを最初にやり始めたのは葵だ。

 不動葵ふどうあおいは中学時代からの友人で、高一のころの昼休みにたまたまここで捕まった。購買で昼食を買って廊下を移動していたところを遭遇したのだ。

 それから、俺と葵は昼休みは何となくベンチに集まるようになった。約束しているわけでもない。葵が来ないときもあるし、他の誰かがいれば避ける。そうした雑な待ち合わせは、二年生になっても続いていた。

 今日も俺は、その自由さに身を任せて、弁当をぶら下げて移動する。今日にしてみれば、葵との習慣があってよかった。休み時間に教室を出る理由があってよかった。なくても退出しただろうが、行き場があるのはありがたい。葵の行動力に巻き込まれていただけだが、おかげで場所ができあがっていた。

 葵は潑剌としていて、どんな輪にも入っていける。それは学年を飛び越えても鈍らない。部活の助っ人として飛び回っているものだから、一年の間にほとんどの在校生と知り合いになったと言ってもいいような状態だった。

 正直、葵がよく知らない生徒と話しているところを見ていなければ、そんな大言を信じやしない。それくらいに、コミュ力お化けだった。俺にもその恩恵が少しでもあれば、小月さんにももう少し当たり障りのない振る舞いをできたのかもしれない。

 いや、俺ができても俺よりもコミュ障っぽい小月さんが無理か。そう思うと、今も偏りがなくていいのかもしれない。どちらにしても、気まずさは拭えないが。

 その気疲れから解放されるようにベンチに凭れているところに、ひょこんと葵が姿を現した。弾むような動きは運動部の助っ人の証左のようだ。


「なーんか、疲れてるね」


 ショートカットの髪色がアッシュグレイになっている。春休み前は亜麻色だった。葵の髪色は、高校に入ってから好きなようにころころ変わっている。いつ見ても飽きない。


「まぁ、ちょっと。考え事」

「言えないこと? 言いたくないこと?」


 ずかずか入ってくるのは、葵の長所だろう。少なくとも、俺にはちょうどよかった。だからこそ、高校に入っても関係が続いている。俺は肩を竦めることで、答えとした。


「ふーん? マサが秘密にしたいようなことで悩むなんて珍しいね」

「俺を何だと思ってるんだよ」

「うーん? 夕飯のメニューとか、特売の時間に間に合うかどうかとか。変に所帯じみたことばっかりで悩んでいるのしか見たことないかな? ひと家族一個の卵に付き合ったことを忘れてないよ、あたしは」

「う、あれは助かった」


 そこまでじゃないだろう、と反発できたのは前半部分を聞いている間だけだ。助けられておいて、のうのうとはしていられない。


「なーに、マジになってんの。そこまで恩に着せてないって」

「いや、でも助かったのはマジだし」

「まぁ、高いもんね。卵」

「葵はそんなの知らないだろ」

「マサが何度も言うから変動まで頭に入っちゃってるんだよ。マサのせい」

「悪かったよ」


 でも、生活には役立つ情報だ。今度はさらっと謝った。

 葵も気にせずにビニール袋から総菜パンを取り出している。三個、四個。平均してそんなものだ。小さな身体によく入るな、と思うが、その分運動で消費しているのだろう。

 こちらも弁当を開いて、箸を伸ばした。中身は冷凍食品も多い。毎日、手作りの完璧な弁当を作れるほど、俺は気力に満ち溢れていなかった。


「マサくーん」

「……そんな声を出しても分け与えるものはないぞ」

「卵焼きを!」


 狙うものはいつも同じで分かりきっている。飽きずにアタックしてきていた。葵の執念には恐れ入るが、そうも気に入ってくれているのは悪い気はしない。作るときに、若干見越してしまうのが悔しかった。


「コロッケパン、一口あげるから」


 語尾にハートがつきそうな声で甘えられて、顔を顰める。からっとした元気っ子のそういう面を見せつけられても、違和感があるだけだ。


「その交換条件、成立したことないだろ。もういいから、一個だけ持ってけ」

「やりぃ」


 葵はひょいっと卵焼きを持っていく。手で摘まんでいくのも、了承済みのことだ。葵は他のものに触れないほどには慎重だし、俺はそこまで潔癖ではない。


「おいしい」


 もぐもぐと目を細めて、卵焼きを咀嚼している。嬉しそうにしてくれるのは、やっぱり悪い気がしない。

 うちの卵焼きはしょっぱめのものだ。母さんのレシピには、父さんの好みだと書かれてあった。手描きのレシピには、そういうものがたくさん書かれている。父さんの好みのほうが多くあったけれど、俺の好みの感想が書き加えられているものもあった。

 きっとメモは、この先増える予定だったのだろう。そんな想像が容易いレシピノートは宝物だ。


「あ、ねぇ、そういえば、転入生どうしてる? 可愛い子なんでしょ? マサ、隣だって聞いたけど」

「誰に聞いたんだよ」

「優ちゃん」

「どうしてるかどうかも和久田に聞けばよかっただろ」


 葵は別クラスだろうと何だろうと、用事があれば躊躇なくやってくる。俺の元にやってくることもあれば、他の生徒に会いにやってくることもあった。

 その中で、いつの間にか和久田と仲良くなっていたのだ。和久田も人付き合いに明るいし、葵は誰でも臆さない。二人が仲良くなるのは必然だった。そんな頼り甲斐のある交友があるのだから、俺へ話を聞くよりも深い話が聞けるだろうに。

 ……語れるほどの態度を小月さんが和久田に見せているとは思えないが。


「だって、マサ隣なんでしょ?」

「隣だからって何かあるってことじゃないだろ」

「えー、でも隣って何かと声かけあったりするじゃん。えーと、珠桜ちゃん? は分からないことも多いだろうし、助けるようなことはないわけ?」

「……さぁ」


 昨日の今日だ。高校特有のイベントがあったわけでもない。小月さんが殊更に困っているとは思わなかった。授業は至って普通に集中している。助けるようなことがあったほうが、小月さんはよっぽど困った顔になるのではないだろうか。


「何それ。隣でしょ? もうちょっと気にしてあげなよ。困ってることとかあるかもしれないじゃん」

「なんで、そんなに関わるのを促されなきゃいけないんだよ」

「だって、せっかくじゃん。転入生だよ?」

「転入生に何の価値を見出してるんだ」

「他の学校のこととか色々聞いてみたくない?」

「それ、楽しいか?」

「人の思い出を聞くのを面白くないってのは失礼じゃない?」

「それとこれとは別だろう」


 思い出を聞く姿勢と、他校の事情を聞き出そうとする姿勢は違ってくるだろう。明確化するのは難しいが、過去をほじくり返して楽しむのは、失礼でしかない。


「でも、話聞くのって楽しいよ?」

「そうか」


 会話の大部分に聞くターンがあって、それが楽しいのは事実だ。だから、感覚を否定することはない。

 だが、それは小月さんに今すぐ適応して、仲良くなることを押し進めるのと同義ではなかった。隣の俺にとっては、尚のこと。葵が動くよりも、気を回すことがある。


「もーう。マサのその人付き合いの悪さって何なの? 初手が鈍いんだよね」

「困ってないし、初手以外がそれなりならよくないか?」

「そりゃね。あたしとは長いしね。でも、これから環境変わるたびに初速が悪いと困ってくることもあるんじゃない? そういう意味でも、珠桜ちゃんと仲良くなるのはいいことじゃん」

「小月さんを俺の克服に利用しようなんて考えないよ」

「誰もそんな悪辣なこと言ってないんだけど」


 俺が遠ざけてうやむやにしようとしているのを分かっているのか。葵は呆れた顔をする。いくらそんな顔をされても、小月さんとの距離はそう簡単に縮められるものではない。


「でも、同じようなものだろ」

「ちょうどいいじゃんって話。利用とか悪い話じゃなくて」

「そんなに俺と小月さんに仲良くするのが見たいか?」

「珠桜ちゃんがどんな子なのか知りたい」

「……自分で仲良くすればいいんじゃないか?」


 男女差があるかどうかは知らない。だが、愛想が良いとは言い難い大男よりも、フレンドリーな活発女子のほうが関わりやすいだろう。


「優ちゃんが、あんまりガシガシ行くとダメかもって」

「じゃあ、何で俺を行かそうとした」

「だって、マサならガシガシいかないじゃん」

「そんな見込みで押し付けてくれるな」


 距離の詰め方が俺に分があるのは分からんでもない。葵のバイタリティは、時として人を引かせる。引っ込み思案に見える小月さん相手では、マイナスに働きそうだ。

 しかし、だからといって、俺に任せられても困る。


「え~珠桜ちゃんだって、いくらなんでも一人っていうのは、色々大変じゃない? ぼっちでいいって人がいるのは分かってるけど、集団行動の中で一人も知り合いがいないっていうのはまた別じゃん」

「それこそ、和久田がいるだろ」


 実際、昨日今日で一番会話をしているだろう。そして、この先も諦めることはないはずだ。知り合いがいないという状態にはなり得ない。うちのクラスの委員長は頼りになるのだ。俺の出番はない。


「えー、少しは気概を見せなよ」

「俺は料理に忙しい」

「逃げたな~」


 逃げるのを隠すつもりはなかった。そもそも、動こうともしていないのだから、逃げる前に対峙もしていない。隠すも隠さないもなかった。

 ちょうど食べ終わったことをいいことに、逃げるを体現するかのように片付けていく。葵は呆れ顔だ。そこまで執着される謂れはない。何をそんなにムキになっているのか。

 多分、葵からすれば、俺が頑なに見えるのだろう。だが、こっちには周囲に知らせたくない切実な理由がある。過度な交流を持ちたくなかった。


「まぁ、いいけどさぁ。無視するのはダメだよ?」

「そこまで人でなしじゃない」


 拒絶したいわけではなく、適度な距離を保ちたいのだ。葵に注意を受けるまでもなく、事を荒立てようなんて考えていなかった。

 そうして、片付け終えて立ち上がる。葵は気にせずに、お茶を飲んでいた。集合も適当なら、解散も適当だ。その通例に倣って、立ち去ろうとした。

 そこで、今日は教室から逃げ出してここに来たのだということを思い出す。失敗したと後悔したが、逆戻りなどすれば葵の恰好の餌だ。仕方がない。適当に校内をうろうろしよう。

 このときの緩い遠回りが、何の回避にもなっていなかったと知るのは、まだ先のことだった。

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