第一章

第1話

 雲ひとつない青い空は、あの日見上げた空に似ている。

 いつもと言うわけじゃない。けれど、ふとした瞬間に思い出すのは、俺にとって大事な思い出だからだろう。

 あの後、みーちゃんはすぐに転校してしまって、今はもうつてがない。だからこそ、余計に大事な瞬間として刻み込まれているのだろう。

 青い空気を吸い込んだ。散り始めた桜に地面が彩られて、春風が渦を巻く。身体の側面に吊したビニール袋が、さわさわと細かな音を立てていた。

 スーパー帰りのビニールの中には、カレーの材料が入っている。明日から始業式が始まる。始業式早々頑張り過ぎずに済むように、数日間は工夫で乗り切れるカレーにした。

 帰ったら、自分で作ったレシピノートを捲って工夫のメニューを考えることにしよう。そう思いながらも、マンションへ着くころには、複数日のメニューに見当はついていた。


「ありがとうございました」


 爽やかな春の空気に馴染むような暖かい声が、耳に滑り込んでくる。

 前方には、引っ越しセンターのトラックが止まっていて、その付近で頭を下げている女の子がいた。黒いストレートがすとんと垂れて、日射しに煌めいている。

 どうやら、このマンションに引っ越してきた子のようだ。大人しそうな小柄な同年代っぽい女の子は、ぺこぺこ頭を下げている。礼儀正しいというよりは、気遣いをし過ぎるような態度のような気がした。それを横目に自室へと戻る。

 春先だ。引っ越してくる人がいることも何もおかしなことでもない。ただ少し、同年代が一人きりで対応していることは意識に引っ掛かった。

 一人暮らしだろうか。高校生で? でも、彼女が小柄なだけで、大学生ということはありえる。この時期の引っ越しなら新入生だろうから、去年まで高校生だと思えば、数年の差くらいは変でもない。

 だが、うちのマンションは一人暮らしには広めだ。家賃的にも厳しい。ご令嬢か何かだろうか。引っ掛かった思考が、気ままに野次馬を走らせる。

 それも、自宅の鍵を開いた時点で追いやられていった。食材の片付けやカレーの準備などがぐるりと脳内を駆け巡る。俺は洗面所で手を洗って、キッチンへと一直線に向かった。

 キッチンが俺のテリトリーだ。自室よりもいる時間が多い。2LDKの自宅には、父さんと住んでいる。ただし、父さんは忙しくてあまり家に帰ってこない。

 中学時代までは、今よりは早く帰ってきて、そばにいてくれた。だが、俺も高校生になった。大抵のことはできるようになったし、防犯意識だって強く働くようになっている。

 だから、去年。高校生になってから、父さんは忙しい部署に異動した。ほとんど一人暮らしのようなもので、だからこそ部屋を持て余すことを知っている。

 まぁ、この場合、俺の趣味がリビングダイニングで完結してしまうことにもあるのだろう。

 ゲームや動画作成、創作活動。芸術的だったり道具が必要なものだったり、アナログの趣味だったり、コレクションの趣味だったり。そうしたものがあれば、話は別なのだろう。

 だが、俺の趣味はキッチンで済む。リビングダイニングであるので、ノート作りも母さんのレシピを見るのもその場でやっていた。そのスペースすら勝手に作っている。

 父さんも母さんの残したものを置いていることに、否はない。というよりも、インテリア実権は俺が担っている。大きな模様替えをすることはないけれど、自分が取り出しやすく掃除しやすい状態にしていた。

 父さんはそれに気がついているのかもよく分からない。それくらいに、ほとんど一人暮らしの部屋だった。

 気軽だし、マイペースでいられるのはいい。静かなことにも慣れている。中学までだって、父さんが忙しくなかったわけではない。うちは静かなのがデフォルトだ。その中で、包丁やキッチン用具の音を立てる。それが俺の日常だった。

 充実した過ごし方だ。そうして、キッチンを縦横無尽に動き回り、楽しい時間を過ごした。

 夕陽が部屋を照らし出して、紫色のグラデーションが滲み始める。そのころには、カレーもできあがっていた。

 やりきった感にソファで休む。百八十センチを越える長身の父さんが気に入って買ってきたソファは、同じく身長が父さんに届きそうになっている俺でも広々使えた。この居心地の良さもまた、ダイニングを趣味の場としている理由でもあるだろう。

 そのソファでだらけていると、徐々に薄暗さが忍び込んでくる。夜の淵。少し物悲しいような空気は嫌いじゃない。

 グラデーションの割合が逆転してくる空をベランダの窓からぼんやりと眺める。そこに飛び込んできた、がたんという物音に身が揺れた。物音はベランダからだった。

 ここは三階だ。そばにマンションが連なっているわけでもないし、物音がするなど珍しい。

 カーテンを閉じるついでだと、掃き出し窓を開いてベランダを覗き込んだ。うちのベランダには室外機以外は何も置かれていない。家庭菜園をしたい気持ちもあったが、注意することが多かった。よそさまに迷惑をかけかねないので、自重している。

 その片付いているベランダには、何の変化もなかった。けれども、かたかたと小さな物音は続いている。

 隣だ。

 ……隣? 隣は確か去年の年末に引っ越して、それから空いていたはずだ。そう思い出してから、引っ越しセンターのトラックとやり取りをしていた少女の姿へと結びついた。

 隣だったのか。

 家族で越してくるのなら、挨拶周りをする人もいるだろう。けれど、女性の一人暮らしで挨拶なんてしやしない。

 挨拶もなしか、とはちらとも思わなかった。けれど、隣だったのか。そうは思う。

 同年代が隣。だから、何かがあるというわけじゃない。けれど、そうか。隣が来たのか。とは、感じる。

 その人を目撃したということもあっただろう。隣だ。気にしようとしなくても、頭には残る。とはいえ、それは頭のど真ん中に鎮座するものではない。

 窓を閉めてカーテンを引いたところで手放せる程度には、緩いものだ。さて、明日からのカレーはどう工夫するか。カレーうどんもいいし、カレードリアを作るのもいい。

 ひとまず、今日は福神漬けと一緒にプレーンとしよう。そうしてキッチンへ入れば、俺はもう趣味の頭で、自分のテリトリーに戻っていた。

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