おとなりごはん。

めぐむ

プロローグ

 世界に独りぼっちになった。

 そんな気持ちになっていた。

 よくよく考えれば、そんなことはなかったのだ。俺には一緒に遊んでくれる友だちがいたし、父さんだって俺を放置していたわけではない。仕事で忙しくはしていたが、その中でできる範囲のことはしてくれていた。

 年相応というには、放られていたかもしれない。それでも、母さん……愛する人を亡くした男として、俺をしっかりと育ててくれていた。

 だから、世界に独りぼっちなんてことはなかったのだ。けれど、俺はまだ小学三年生で、どうしようもなく視野が狭くて、世界は閉ざされていた。寂しさに胸を痛め、悲嘆に暮れ、膝を抱えるほどに消沈していた。

 小学生でも、事情を察するにあまりあるほどだっただろう。そして、ある意味で周囲に甘えているものだった。

 そうしていれば誰かが構ってくれるなんて、厚かましさがあったわけではない。けれども、そうした挙動は、結果的には誰かに手を伸ばしてもらって解決するものだ。

 必ずしもそうではないかもしれない。だが、助けてもらわなければ、膝を抱えているだけでは立ち直りようもない。そして、実際のところ、俺は助けてもらったのだ。

 独りぼっちだなんてことはなかった。

 一人、膝を抱えていた。内面的な表現ではなく、リアルとしてそうだった。

 彼女は、そのとき一緒に遊んでいたメンバーにいた子だ。隣のクラスの子で、いつの間にか一緒の輪になっていた少女で、よく知っているとは言い難い子だった。

 自己紹介もしないまま、みーちゃん、みーと呼ばれているのだけを知っている。苗字や名前で呼んでいる子だっていたはずだ。けれど、あだ名の記憶しかない。それくらいの距離感の女の子だった。

 だからこそ、声をかけられたということもあったのかもしれない。何にせよ、みーちゃんは運動場の隅でへこんでいた俺の元へ、やってきてくれたのだ。

 他の誰も、腫れ物に触るようにしていた。気遣われていたのだろうし、あからさまに消沈しているものをどうにかできる余裕が小学生にあるわけもない。だから、他の子が冷たかったわけじゃなかった。

 みーちゃんが優しかっただけだ。

 そして、アピールめいた行動に見えるようなものだったとしても、俺が母さんの死を悲しんで悼んでいたことも事実だった。


「マサくん」


 思えば、彼女も俺の名前をちゃんと知らなかったのかもしれない。


「せっかくお外なんだから、叫んでも泣いても暴れてもいいんだよ」


 突拍子もなかった。だが、その乱暴な言い草は印象深かった。


「……そんな気分じゃないよ」

「じゃあ、一緒にぼーっとする?」


 言いながら、みーちゃんは俺の隣に腰を下ろす。

 ちょこんとした彼女は、小さかった。俺は幼いころから同学年の中では飛び抜けてでかかったから、でこぼこな並びだっただろう。

 みーちゃんは、ぼーっと空を見上げていた。楽しいことじゃないだろうに。まったく気にしていないようだった。

 それに釣られて、天を見上げる。広がった視界には、真っ青なキャンバスが飛び込んできた。視線を動かしただけに過ぎない。けれど、原理的に拡充された視界は、一緒に俺の何かを広げた。


「……母さんが死んじゃったんだ」


 知っている子もいたし、知らない子もいる。みーちゃんは隣のクラスだし、妙な間合いだと気がついていた。だから、口にしたとも言える。ようやく口にできたことだった。


「寂しいね」

「うん」

「悲しいよね」

「うん」

「ぼーっとしちゃいたいし、何もしたくないし、やる気もでないよね。マサくんは、今お休み中だ」

「おやすみちゅう?」


 振り返ってみても、不思議な子だった。

 単調なわけではない。けれど、強く感情移入してくるような湿度もなかった。さらりとした手触りで、心地が良い。鷹揚な物言いが、柔らかくて包み込まれているような気持ちになったのを覚えている。


「そうだよ。マサくんは疲れちゃったんでしょ? だったら、お休みだよ」

「……そっか」

「うん。ゆっくりして、寝て、食べるの」

「食べる」


 一部だけの復唱は、そこに母さんとの思い出があったからだ。母さんは料理が得意だった。俺や父さんが好んだ料理は特に細かくレシピにまとめていた、と知ったのは、それから少ししてのことだ。


「食べてる?」

「……あんまり。お母さんの料理が一番、美味しい」


 いくら亡くしたばかりだといっても、随分甘えた発言だったように思う。でも、それは立ち直った今だから言えることで、そのときの俺には一大事だった。


「そっか。でも、ご飯を食べないとずっと力でないよ?」


 暴論甚だしく、真意をついてもいる。納得したわけじゃない。でも、俺はそのころには、みーちゃんに話すことに抵抗はなくなっていた。


「母さんが残したレシピなら、食べられるかもしれない」

「そうなの? マサくんはお料理しないの?」

「一人でしたことない」


 お手伝いをしたことはある。母さんと一緒にキッチンに立つのも好きだった。俺を見守ってくれていた母さんは、ハラハラしていたことだろう。


「やってみたら楽しいかもしれないよ」

「そうかな……?」

「うん。マサくんが元気になれるお料理でしょ?」

「……そうだけど」

「きっと、お母さんもマサくんのお料理が食べられたら嬉しいよ」

「もう食べてくれないよ」


 そこまで腹立たしく思ったわけでも、無力感を覚えたわけでもない。けれど、口からは嫌味な悲観が漏れ出ていた。俺はかなり無愛想だったけれど、彼女は気にした様子もない。彼女が大らかでなければ、励ますことに嫌気が差していたことだろう。


「お供えしたら、お母さんも食べてくれるよ?」


 子どもらしいと言うのかもしれないし、宗教的と言うのかもしれない。けれども、それは分かりやすい繋がりだった。みーちゃんの言葉は、俺にとって光明の光だったのだ。


「ありがとう。みーちゃん」


 返事としてはズレている。けれど、みーちゃんは何の疑問もないように、へにょんと笑った。

 それから数日後。

 俺は悪戦苦闘して初めての料理を作り上げた。母さんのレシピには読めない漢字が所々あったし、大変なことだったように思う。けれど、俺にはひどく楽しくて、達成感と満足感を手にした。

 できあがった肉じゃがは、みーちゃんが言うように母さんの写真にお供えした。それだけが理由だったのか。時間経過もあったのかは分からない。そのとき俺は、確かに母さんの死を受け入れて、立ち直ることができたのだ。

 その感謝を伝えるために、俺は彼女にタッパに入れた肉じゃがを持っていった。短絡的な行動だっただろう。

 けれど、彼女はとても嬉しそうな顔で、俺の肉じゃがを食べてくれた。


「とっても美味しいよ、マサくん」


 蕩けるような笑みと感想が、俺を料理好きにする一端になったことは間違いない。

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