ある日常

夕星 希

第1話

カーポートにちいさな車を寄せる。

層になった落葉のせいで路面標示材の白線が分からなくなっている。


二台分のうちの一台分が停められるスペースを見つけることができるのは、偶然にも

長く伸びたバラの枝がちょうどアーチを作って区切ってくれているからだ。

車にも自分の体にも傷がつかないようにおそるおそるドアを開ける。


ここの家主の妻が新婚であったころの話。引っ越ししてすぐに小さなイングリッシュ・ガーデンをしつらえようと思った。


ディルフィニューム、カラミンサ、ジギタリス… そんな草花をランドスケープ上にちまちまと植えたてみたものの、

著しい暑さの続くこの地方では哀れなほど土が乾燥して先日から耕作を諦めたらしく、園芸用のスコップは庭のすみに放り投げられていた。先月植えたというラベンダーだけが運命にさからうように生存している。


私は、

赤レンガの階段を重たい足取りで二段、三段と遊び道具を抱えて上がる。


「こんにちは、〇〇です」


その玄関を見れば、その家が分かるといわれる田舎にあって、ここの家はなにもかもに手が回らないのが分かる。大小のはきもの、縄跳びやら、バドミントンのラケット、犬を散歩させるリード、届いたばかりの通販の箱類が乱雑というか塊になっている。


相手からの返事がないのはいつものことなので、持参したスリッパに履き替えて居間に入る。食事時だった。


ひどい癇癪もちの子どもが、母親から食べさせてもらっている。

頭が切り刻まれるような泣き声と、母の哀願する声、ため息まじりの声。


そこには、

たった二人しかいないのに、見えない誰かが数人、声をたてずに見張っているようである。母は泣きながら私の顔を見て、「代わっていただいてもいいでしょうか…疲れてしまって…」


私は母から矯正箸を受け取ると、子どもの好きな遊びの写真を見せて交渉し、食べさせた。


緊張の糸がほぐれたのかそのままソファーに寝入ってしまった母親。

私と子どもは靴を履いて外に出た。


「〇〇公園に行っています」と書置きを残して。


薄く大きな白い花びらが道を覆う。


私はゴム毬のように跳ねるたぁ君の手を握り締める。

離せ!といわんばかりに私の手をいちいち噛んでくる。


薄暗い垣根の端が途切れる。

ちいさな交差点にさしかかる。


「たぁ君。いまお日様はせきどうという道を通っててね…

たぁ君と先生は、どこにいても昼と夜の長さが同じになる春分の日という日を過ごしているんだよ…」


カーステレオから流れるポップな洋楽がその言葉をかき消した。

その瞬間、たぁ君はちいさな両手で耳を塞いだ。


まばたきもせず、まるで薄氷の上にいるかのようにたぁ君の体は硬直したようだった。長いまつ毛には涙の一縷を貯めている。たぁ君の小さく細い神経はG線のように、キリリという音をたてて私の注意を促す。


「びっくりしたね。ほら青信号だよ。おんぶ」


たぁ君を背中に負ぶうと、暖かいぬくもりが私をひと安心させる。

負ぶわれるのが嫌いな子どもが多い中で、たぁ君はそこまででもなかった。


やがて、

公園の真ん中に置かれた機関車の黒い煙突が見えた途端、

催促するかのように私の腕をぎゅっと掴んで、「あああ」と短いが大きな声で嬉しさを表す。


今度は私の顔を両手でいきなり挟む。

「(あそんで)いいの?」のサインだ。


「いいよ。きかんしゃにのろう」


たぁ君は、機関車の階段を一歩一歩と上る。


マントルのような鉄の塊の中にはすでに10組ほどの親子がいて、私は自分の頭を守りながら、先先すすんでゆくたぁ君に注意の声を掛けながら背中を見ている。いつ来園しても、この猛々しい姿はたぁ君を夢中にさせるのだろう。


槌のみで表面を叩き上げたといういわゆる鋼(はがね)のような堅牢さ、隙のない鋳造。この貨車としてのD51は、どこをとっても完璧であり、日本の近代化を支えたまさしく火車である。


たぁ君は、そんな貨物車の運転室に座って小さな丸窓からまっ直ぐ前を凝視しつづけている。私は他の親子が後ろで待っているのを恐縮しながら、たぁ君に声を掛ける。


「たぁ君 時間だよ。そろそろ…」

そう言いかけて、運転席に座っているであろうたぁ君を見た。


しかし、

そこに座っていたのは彼ではなかった。

機関士の姿をした若い男だった。


「えっ…?」


私は驚き、慌ててたぁ君の姿を探した。

たぁ君から片時も目を離さなかったのに、なぜこんなことに!!


声を限りにたぁ君の名前を呼んだ。

「帰ろう」といっても頑として帰りたがらなかったたぁ君。

機関車のどこかに隠れ鬼でもしているのだろう。

大丈夫……


私は頭や体をあちこちにぶつけながら、ひんやりした鉄鉱石の隅々まで触り

塵となりながらたぁ君を探した。


「びはいんじゅう…」

「びはいんじゅう…?」


behind you…

後方注意…


たぁ君…?

特徴のあるイントネーション。

確かに彼の声。


私は、錆のついた手で眼鏡をかけなおし、闇色の続く後ろを振り返る。

煙突とボイラーの隙間から漏れる光が、風とともに映写機フィルムのようにちかちかと動いている。


「ごぅ あろん…」


いつのまにか青年となったたぁ君は、私の手を掴んで座るように促す。


機関車は速度を上げた。D51は鈍い汽笛を数秒ならした。


―――走っている!


枕木の衝撃はほとんど感じられないし、積んでいる山と積まれた石炭のひとかけらも滑り落ちては来ない。しかしD51のスピードはどんどん上がり続けている。


汽笛をもう一度鳴らし終えて、中年の機関士はいった。


「彼は若いのにすごいですよ。この勾配を、何万トンの鋼材資材を積んでいても、簡単に登ってしまうんだからなァ。この荒馬を乗りこなせるのは世界ひろしといえども彼しかいないだろうなァ…」


中年の機関士は横顔に笑みを浮かべたのちこういうと、青年の機関士は英語で私たちに喋りかける。


「Look! Be around you(廻りを見てごらん)」


機関車はいつまにか空を走っていた。満天の夜空を。


「Twinkle, twinkle, little star,

How I wonder what you are!

Up above the world so high,

Like a diamond in the sky…」


私がたぁ君にいつも歌ってあげていた『きらきら星』……

それはぼわんぼわんと水面を浮かんだり沈んだりした時のように

彼の歌声は途切れ途切れに私の耳に届く。


「彼、いつもあんなふうに歌っているんですよ。でも、その声ももうじき聞こえなくなるんですがねぇ。ええと、あなたのお名前……」


「サイトウです」


「ほう。あなたが一等機関士がいつも話すサイトウ先生……?そうですか。そうですか…あなたがサイトウ先生ですか……」


苦笑いをして頷くと、中年の機関士は目じりに皺をつくり、感慨深げに私の顔を覗き込む。


どうやら、

意思疎通の難しいたぁ君が信じられないことだが、私のことを中年機関士にあれこれ喋っているらしかった。半信半疑だったが、やがてそれは真実味を帯びて驚嘆させる。なぜならそこには私とたぁ君ふたりしか知りえない出来事が暴露されていたのだから。


「サイトウ先生は、いつも乗客にぺこぺこ謝ってばかりいた…とか」


乗り物が大好きなたぁ君。その喜びはやがて叫び声になり狭い車内を震え動かす。確か、たぁ君が4歳のころだ。


「サイトウ先生は、虫が苦手なのに僕のために好きになろうと毎日草むらに入って克服していた…とか」


「覚えていてくれたのか……」


目深に被った制帽から漏れ出るかすかな声。それもやがて消えていった。

無重力は、交わされた意思伝達もかき消されてしまう。


山と積まれた石炭はシューシューと蒸発してゆく。

成層圏をたった今超えた私たちは、光の速さのスピードで銀河系へとすすむ。


「(地球へ)戻ることは…できるのでしょうね?」


私は中年の機関士にとにかく今、一番重要なことを確かめたくて聞いてみた。

しかし彼はかたくなで冷ややかな物言いをした。


「ーーーサイトウ先生。

地球はじつに美しい。漆黒の宇宙に神々しいほどの輝きに満ち溢れている太陽系第三惑星。オリンポスの12の神々がいたるところにいて生命活動を司っておられるようだ……しかしもうそのノスタルジーは正直、忘れて欲しいんですがねぇ……」


D51は周回軌道を外れた。

やれやれ、と制服を脱いで身体があらわになった中年機関士の身体が不自由なことに気がつく。右腕は肘下から切断されており、さらに左の足首の先が無かった。


「ずるい奴だけが生き残ることが出来る所、それがあれ(地球)なんです。弱肉強食というやつですな。故郷の悪口はいいたかありませんが、そんな魔窟のようなところに帰還したいという先生の気が知れません」


中年機関士は、そう言い終えるとポケットから写真を取り出した。

セピア色に変色しており、夫婦二人と子どもが三人。男の子が二人と女の子が一人。写真館で撮影されたものだろうか。左下には昭和13年7月と書かれている。


「子どもたちは次々と肺をやられましてね。妻は腎臓を…死に物狂いで戦って復員したら、肉親がだあれも生きていなかったんですよ。こんなんじゃ生きていても仕方がないとおもって、省線に飛び込んだんです…でも死ねなかった。ぶざまでした。こんな体になってしまって働き先もない。途方に暮れていたところ、あの一等機関士に拾われました。」


中年機関士はしだいに金魚のように口をぱくぱくと動かし始めた。

「ニーチェの思想など幻影にすぎない」と息巻きながら。


中年の機関士は森康治郎という名前だった。血液型と氏名が掛かれた名札は妻がひとはりひとはり運んだのだろう。布切れはすこしもよれておらず勲章のように彼の胸を飾っている。


突然、

一等機関士が量子のもつれのように、言葉を発しはじめた。


「エ イ ゴ ウ カ イ キ ガ コ ワ イ ノ カ」


(永劫回帰が怖いのか)


それはほんの一瞬の出来事であり、極めて短い時間に発されたようだった。


「コ ワ イ 。 ダ レ カ タ ス ケ テ オ ク レ 」


(怖い。誰か助けておくれ)


森機関士は、涙を流しその窮状を訴える。がそれに反するように、


「セ イ ノ ゼ ッ タ イ テ キ コ ウ テ イ ヲ ミ ト メ ヨ」


(生の絶対的肯定を認めよ)


「生きることの意味」を強い心緒でもって森機関士に進言するのであるが、

彼はやがて絶命した。刹那が彼の人生をたった今終焉させた。


私達はいったい何を探し求めているのだろうか。

命をかけて地球を出奔したことは本懐だったのだろうか。


遺された森機関士の日記帳には

3歳年下の妹であるさと子さんとの日常が淡々と記されていた。


八月×日

紅いほおずきをひとつふたつもぎった。

さと子にあげる。

文机で九九の繰り返しをする。

駄菓子屋でニッキ水を二本買う。

畳の上にはばあちゃんが昼寝していた。

縁側でさと子とニッキ水を飲む。


この後、

父や母の忘れ形見だったさと子さんも病に倒れる。


D51は、

重力波に逆らうように突き進もうとするが、窪みに光速で突入、

指数関数的にインフレーションを引き起こした。


そのため、

非常に大きな命数により我々の想像をはるかに超える鬨の声が銀河を揺るがす。


操り人形のように私たちは鬨の声に翻弄される。


―――燃える火を雪が消し、

降る雪を火が消すともいわれているように『消滅と生成』を繰り返すのは自然の摂理なのだ。受け入れなければならない……


―――自分の観念のみで世界をさ迷い続けている輩がいる。まるで全身が感覚受容器のようになり、禍となり果てて朽ちていったミクロコスモス。しかるに『人間』とは弱い存在である……


―――『生の絶対的肯定』を受け入れなければならない由縁は、ここにある。時間には、過去も未来もない。あるのは無秩序である。どんなことがあろうが死を、恐れてはならない……


―――過去は追ってはならなず 未来は待ってはならず 

ただ現在の一瞬だけを 生きるのである……


途切れ途切れに、

我々の生体四元素を無機質な響きが通り過ぎていった。


「コレガ ゼンチゼンノウ ノ アルファ デアリ オメガデアル」


これは真理であり定言命法として無条件に我々に備わっている

アプリオリなのであると、一等機関士はいった。


「そんなのは幻想だ!綺麗事はよせ。聞きたくもない!」


散りゆく花びらのように執着のない一等機関士のいいかたに、私は苛立って言った。


「今までどれほど心無い言葉や、嘲笑させられ侮辱を受けたことだろう。どれほどいわれのないいろいろな者からの誤解や非難を。たった5歳の、この世に生を受けてまだ5年しかたっていない君に対しての世間の刃を。君の両親を孤独に追いやり、挙げ句離れさせられたことを、君は忘れたのか? 憎しみはないのか?」


今まで隠していた感情があらわになった。

怒りと悲しみが言葉となって私は自分をどうすることもできなくなっていた。


「私自身、心を病み世の中というものが怖かった。震え、怯え、『生きること』がこんなにも辛く苦しいものだとは思わなかった。深い闇の中、暗渠にいた。自分は正気なのか、それとも狂気の沙汰なのか、息をするのも苦しく、すべてを呪った」


「サイトウ先生」それは神に従う預言者の声だった。


「価値は今滅されようとしている。

アルファでありオメガである神が、46億年もの歴史のある地球を粉砕し、蒸発しようとしている。ナノ粒子のように、瞬く間のインフレーション。『苦しみ』からの開放を。無限を有限に。差異を認め、隠していたものをあらわにする存在者の存在があなたには見えるはずだ…」


その時、私の頭の片隅には、「ある日常」がバーチャル・リアリティとして浮かんでは消えていった。


4月×日

君はまるで前世から関わってきた兄弟のようだ。ささやかだが、小さなやり取りを通して、気持ちを伝えあえることが出来ると確信した出来事がいくつもあった。ほんとうに嬉しかった。満開の桜を見たようだ。


5月×日

私という存在を受けいれ、親近感を覚えてくれた君。「嫌だ」と全身で伝え、身を震わせて泣く君。ときに不思議な目で私を見つめてくる。私は生きることが出来るかも知れない。


6月×日

雨の中でも、風の吹く中でも、謳歌するように君は歩く。傘などなくても文句ひとつ言わず君は進む。


私は赤ん坊のように激しく泣いた。


「生きる意味」を語りつづける一等機関士が私のそばにいた。


出生時に割り当てられた「性別」という概念が、この世界を二分させた。

アダムとイブという「男」または「女」にあらわされたこれが唯世界という概念。その「国境」を超えることは争いを格率させた。


文明は社会が発展すればするほど、生きることが不自由になってくる。

淘汰である。私(のようなもの)が、自己を保つためには欺瞞することしかない。こころの深い部分でしか、いわゆる闇の部分でしか存在することのできない自分という存在。


「男」として生まれた私が、やがて自身がそうでないことに気づきながらも内面を露呈することは、他者が許さない。この世に生まれて20年もの間、両親は私を「男」として(それらしく)育ててくれたし、期待に副うように、感謝という孝行をもって、従い、律することをしてきた。


その間、

光というものを一度たりとも見ることはできず、闇と薄日のあいだをウスバカゲロウのようにふらふら飛び回ってきた。宿り木はなく、あるのは棘のみ。マイノリティであるがゆえの現実である。「男」と「女」、「健常」と「障がい」との差異。


炭素で形成されているダイアモンドであることとは違い、私たちはさまざまな結晶作用を持つ鉱物なのだ。たとえば光の加減で二重にも見えたり、色見も反射により違ってくる。仮にその概念が特定の人間にも当てはあるのでるとすれば、あるがままではない特異な存在であると見なされる。


かつてないインフレーション。破壊と崩壊はなにをもたらすのだろう。恒久的で、価値観の変化変容が難しい、お互いの主義主張がはびこる中で、破壊と崩壊のみでこころを保つことができるのだろうか?


私はゼンチゼンノウの神を通して、ひとつの帰結を見た。マイノリティが生きるための方法論には限界があり、信心を訴えかけての反証は私にはできない。であれば。たぁ君のように深淵を覗き込みながら、模索し、新たな価値を探ることのほうが、理にかなっているのではないか。


次元上昇の旅が終わろうとしている。たぁ君と私のある日常が始まろうとしている。



















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ある日常 夕星 希 @chacha2004

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