【短編小説】俺全然寝てない

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【短編小説】俺全然寝てない

ある男が大きな口を開けて大した文言を吐いた。

「今日俺全然寝てないわー」

その場にいた社員は一度彼を見て、話題を広げようと試みた。

「そうなんですか、どれくらいですか」

「三時間くらいかな、ずっと観ようと思ってリストに入れてたアニメ、観始めたら止まらなくてさ」

前のめりになって話し始めた男の手元には、会社の前に停めていたキッチンカーのコーヒーが置いてある。私がそのコーヒーなら、念力でも一生のお願いでも何でも使って自分自身を倒して彼の肘から膝から、新調した紺色のスーツを私色に染めたいと思った。


一方私は、昨日三十分しか眠れなかった。ずっと観ようと思ってリストに入れていたアニメを観ていたからだ。一話三十分。一日休みに一気見をしたとしても他の趣味をする暇もある、と思っていた。それが、涙を流しながら感動の最終回を迎えた所で「To Be Continued」と書かれてしまったのだ。私が気付かぬうちに、リアルタイムで二期の放送が始まっていた。来月には三期が始まるらしい。

「追いつけない……」

そう言い残した私は、テーブルの上でノックダウン。一見お洒落だがなんだか暗くて使い勝手が悪い間接照明の灯りを残して、私は眠りについたのだ。


「三時間で眠れないって、ださ」

「有希」

同期の美奈子にコツンと肩を寄せられた。黙って聞いていればその場が収まるのだからそうしていろ、と無言の圧が押し寄せる。彼女のつぶらな瞳と、数センチしか触れていない肩から、相当な念を感じる。

「すいません」

私は彼女に負けないように、そして謝るように、彼女を睨んだ。


「とんかつ定食二つ」

「はい、とんかつ定食が」

「あ、とんかつ定食一つで、鯖の塩焼き定食一つ」

「とんかつ定食一つと、鯖の塩焼き定食一つですね。お待ち下さい」

会議が終わったあとも、上司の「〇〇してないわ」の話が続いた。仕事は終わっているのに仕事が終わらない。今日分のタスクは終わっているのに、明日の為にやっておいた方が良さそうな書類が目に入る時。定時でも上司や同期がパソコンと睨めっこしていたら、一度ジャケットを掴む手を離す時。そんな状態が午前中から発生してしまい、私は瞼が稼働しきれなくなっていた。

「とんかつ定食じゃなくて良いの?」

「あー、うん」

「なんで」

「昨日寝てなくて。食欲無いの」

「だから先輩のこと」

「三時間なんて眠れてる方だよ。私は三十分」

「大学生みたい。宅飲みしてやらかした後の一限」

「それは美奈子でしょ、あっつ」

この店のお茶はいつも鬼が付くほど熱く、なのにそれを忘れて冷ましもせず一口飲んでしまう。良い大人なのだから、もうそろそろ覚えたい。

「大学の時もいたわ。俺全然寝てないって言ってたやつ」

「いた。それも一人じゃない。俺も俺もってどんどん増えていくの」

「あれのオチってなんだったっけ……」

「お待たせしましたー」

私と美奈子の元に、とんかつ定食と鯖の塩焼き定食が置かれる。

「食欲無いやつは定食食べないけどねー」

「食欲無いから食べたくない自分と、睡眠不足だから栄養付けないと午後働けないだろって自分もいるの。その二人に挟まれた結果、鯖を選んだんです。いただきます」

「……いただきます」

久しぶりに食べた鯖は美味しかった。魚なんていつから食べてないんだろう。大学生になって一人暮らしを始めてからも、自分で魚を焼いた記憶なんか無い。魚というか、キッチンのグリルを使った記憶もない。いや、そもそもうちのキッチンはグリルが付いていただろうか。

「先輩、この前のプレゼンの時も「俺全然準備してないわ」って言ってた」

「あ、それ聞いたかも」

「加藤君に話してたもん。有希の隣でしょ?」

「そうそう。わざわざ近くに寄って」

「ああいうのって大学生でも嫌われるのにね」

「学生のうちに気付かなかったんだろうね」

「何を?」

「その発言、イタいって」

美奈子は笑いながら、手にしていた味噌汁をテーブルに置いた。

「でもなんであんなことしちゃうんだろうね」

「まあ皆通る道な気がするしね。私もどこかの時代でやってたんだろうな」

「テスト勉強全然してないわ、とか」

「今日メイクしてないわ、とか」

「してるのに」

「してるのにね」

私達は米を食らった。

「何もやってないけど出来ましたっていう振り幅への優越感?」

「ずっと100やってるやつより、0のやつが100叩き出した方が良く見えるってことか」

「勉強嫌いなヤンキーがテストで満点取ったり」

「落ちこぼれの弱小校が強豪校と対決して優勝したり」

美奈子が小さな口に見合わない程の米を詰め込み、それを飲み込んだ時、初めて言葉を発した。

「……めちゃくちゃ努力してるよねそれって」

「……そうだね」

小さな口がもぐもぐと言葉を並べていたが、彼女の言うことは正しかった。勉強嫌いなヤンキーは、何か理由があって必死に努力した結果満点を取っているし、弱小校は誰よりも練習に励んでいたのかもしれない。

「まあ、ヤンキーと弱小校は、全然努力してない、とは言ってないけどね」

「……先輩が帰るところ、見たことある?」

「ん?」

「先輩って、誰よりも会社に残ってるよね。あと、誰よりも早く会社来てるよね」

「……でも、俺なんもやってないって言ってるよ」

「上手くいかなかった時の保険とか」

私は美奈子と目を合わせた。

「可愛い」

「可愛いね」

「あれ、ここにいたんだ」

玄関の方を振り向くと、私達の話題の最前を走っていた男性と、後輩の加藤君が立っていた。

「先輩」

「お疲れー」

二人は私達の隣の席に座る。

口角がどこまでも上がっていくのを自分でも止められなかった。目の前に座っている美奈子もまた、天井から釣りあげられているくらい口が引きつっていた。

「……先輩」

「ん?」

「最高です」

「……ん?」

「ご馳走様です、マジで」

「……え、俺払うの?」

「ご馳走様です!」

私と美奈子は、先輩に向けて深くお辞儀をした。

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