飽和。/ゆげ への簡単な感想

 応募作品について、主催者フィンディルによる簡単な感想です。

 指摘については基本的に「作者の宣言方角と、フィンディルの解釈方角の違い」を軸に書くつもりです。ただフィンディルの解釈する方角が正解というわけではありませんので、各々の解釈を大切にしてくださればと思います。

 そんなに深い内容ではないので、軽い気持ちで受け止めてくださればと思います。


 ネタバレへの配慮はしていませんのでご了承ください。





飽和。/ゆげ

https://kakuyomu.jp/works/16818093074078393656


フィンディルの解釈では、本作の方角は北北西です。ゆげさんの(変更後の)宣言と同じですね。


フィンディルが本作を読んでいて気になったこととして、シンプルに書きすぎているのではないかというのが挙げられます。

LGBTQについて生々しい質感で描こうとしている本作にしては、表現の構図がシンプルすぎるように感じました。


喪主側に立って葬儀の手配などをしてみるとわかるのですが、本当にバタバタなんですよね。

病院とのやりとり、葬儀社とのやりとり、わからないことだらけのなかで全てをこなさないといけない。喫緊の市役所の手続きは葬儀社がある程度代行してくれますが、葬儀後の市役所手続きやその他手続きも先に控えている。

葬儀の各種打ちあわせだけでなく、親族職場友人への訃報の連絡やその後の弔問のことなどもある。

ましてや今回は病死ではなく自殺ですから、事件性の有無を判断するために警察とのやりとりもあったでしょう。


通夜の日を迎えるまでにエミの家族はショックと喪失のさなかで色々な対応に追われてきたでしょうし、葬儀が終わったあとも色々な対応に追われることになるでしょう。

遺族側は本当に、時間的余裕もないし体力的余裕もありません。もちろん精神的余裕もない。子の自殺ともなれば、憔悴しきっているでしょう。

そのなかで、遺族が現実的にできること、実現できることには限りがある。


エミの生き方について、エミの家族がどこまで知り、そしてどこまで受けいれていたのかはわかりません。

読者にはわからないし作者にもわからないし、「私」にもわからないでしょう。

その程度を、葬儀の様子だけで測るのは限界があるとフィンディルは考えます。


現在、死化粧(エンゼルケア)を含めた納棺については全てプロに任せるのが一般的です。遺族が自ら行うことは現在では稀です。

葬儀社のスタッフが納棺を行ったり、納棺師を手配したりする。もちろん遺族が希望を伝えればある程度対応はしてくれるでしょうが、逆に言うと希望を伝えなければ対応はしてくれない。

その納棺代行者がどこまでLGBTQに対応できるのかわかりませんし、遺族がエミとしての容姿に日頃から馴染んでいないとエンゼルケアについての具体的で強い希望を出すのはなかなか難しいだろうと思います。

子が自殺して憔悴して各種対応に追われているなかで、遺族にどこまでできるのか。


斎場に飾られる写真もそうです。葬儀の打ちあわせで写真についても葬儀社とやりとりするわけですが、打ちあわせを家族親族が行う以上、飾る写真についても家族親族が用意するのが基本です。

もしエミがエミとしての姿で撮った写真を家族親族が有していなければ、そもそもその場において家族親族にはエミとしての写真を選択することができません。陽道の写真しか手元にないのであれば、陽道の写真しか提供できません。

色々な対応に追われるなかでエミとしての写真を持っているであろう友人へ写真提供を依頼する余裕があるのかというと、およそないと思います。「私」に訃報が届いたのがエミの死後三日後というのも、そもそも訃報を届けるので精一杯なのだと考えるのが自然です。



つまりこの葬儀内容の決定権は、遺族に与えられているようで与えられていない。与えられていないわけではないのですが、何でもかんでも遺族の意思が反映されていると考えるのは早計です。

エミが病死ならば水面下で準備しておくこともできたでしょう、エミ本人の希望を聞くこともできたでしょう。しかしエミは自殺です。まずその事実すら受け止めきれていないなかで、遺族は自身を保つのすら精一杯ななかで、どこまでエミを尊重してエミの意に寄り添った葬儀を実現できるのか。

「理解がある」と「理解して、それを実現する」は全くの別物です。一定の社会経験があれば「本当はこうしてあげたかったけど、でも色々な事情により満足なものにはできなかった」ということはいくらでもある。その人が関わる全てのことにはその人の意思が十分に反映されている、そんなわけはありません。

遺族は葬儀内容を決めるなかで“陽道”と“エミ”から“陽道”だけをあえて選んだのか。そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません。“陽道”と“エミ”の両方を選ぼうとしたけれど、時間的体力的問題で“エミ”を選べなかったかもしれない。もしかしたら“エミ”を選ぼうとしたけれど、“陽道”を選ばざるをえなかったのかもしれない。外野の人間には断定しかねることです。

もちろん“エミ”を選んで、エミとして送る葬儀の実現は不可能ではないと思います。しかしこれを死後三日の通夜で実現するのは、相当の強い想いとバイタリティが必要であることは想像に難くありません。子を自殺により失った直後の親に、そんなバイタリティがあるのか。

死後数か月後の“お別れの会”ならまだしも、死後三日の通夜でエミをエミとして送るのは並大抵のことではないとフィンディルは想像します。


たとえば葬儀の内容は全くこのままであったとしても、「私」に気づいたエミの親が「陽道のお友達の方ね。本当は女性としての陽道の写真も飾りたかったし、陽道が望んだ格好もさせてあげたかったんだけどね。でも写真は持ってなくてあなたの連絡先もすぐにはわからなかったし、『こういう格好で』とお願いできるほど知らなかったから葬儀社の人に全部お任せしちゃって。思うところがあるかもしれないけれど、力及ばずでごめんなさい」みたいなことを言ってきたとしたら、印象は全く変わったはずです。

そして実際そうである可能性は十分あると思います。「私」に話しかけなかっただけで、そういう想いを持っているかもしれない。持っていないかもしれませんが、持っているかもしれない。

これは準備万端で当日を迎えたエンターテインメントショーではなく、ショックと喪失のさなかに時間と対応に追われてギリギリで迎えざるをえなかった通夜である、という視点は重要と思います。

「理解があるのなら、当然その理解を反映したものが実現できるはずだ」というのは、願望が先走りすぎているとフィンディルは思います。



と、ここまで話してきましたがつまりフィンディルは何が言いたいのか。

それは「『私』の考えは幼稚だ」とか「『私』の考えはお門違いだ」ということではありません。

フィンディルが述べたいのは、「『私』はそういうことまで想像したうえで、なお怒りと絶望を抱える人なんじゃないか」ということです。


現実的に“陽道”と“エミ”とで“陽道”を選ばざるをえない事情はあるのかもしれない。“エミ”を選んだ葬儀を実現するのは並大抵のことではないのかもしれない。

では何故それで選ばれるのが“陽道”なのか。“エミ”ではないのか。どうして強い希望を伝えなければ“陽道”になってしまうのか。エミはエミとして生きていたのに、どうして“エミ”を選んだ葬儀を実現するのは並大抵のことではないのか。

そういう怒りと絶望を抱えるのが「私」なのではないか、とフィンディルは想像します。

「どうして“陽道”を選んだのか、“エミ”を選ばなかったのか」ではなく「どうして“陽道”を選ばざるをえなかったのか、どうして“エミ”を選ぶのは難しいのか」について怒りと絶望を示すのが「私」なのではないか、とフィンディルは考えます。

この意識を持たれて「私」を描かれてみると、本作はぐっと深まるのではないかと期待します。


本作を読みながらフィンディルがずっと気になったこととして、「私」は負の感情をエミの家族にだけ向けているんですよね。特定の人達にのみ反発心を抱いている。

しかしこれまでのフィンディルの話を踏まえると、エミの家族にのみ反発心を抱いても仕方がないことがわかります。

エミの家族があえて“エミ”を無視して“陽道”だけを選んだのならまだしも、現実的なことを考えると“エミ”も選ぼうとするも選びきれなかった可能性は十分にある。

であるならば「私」が反発心を向けるべきなのは、エミの家族という特定の人達ではなく、「エミをエミとして送りたい」という当たり前の希望すら当たり前に叶えきれないであろう現代社会そのものなのではないかとフィンディルは考えます。本感想中で“現実的”という言葉を頭につけて容認させようとする全ての物事です。

エミの家族が変わればそれだけでエミはエミとして送られていたのか。エミがエミとして送られなかった原因はエミの家族だけにあるのか。

エミがエミとして送られなかった原因は、もっと巨大で、社会の毛細血管にまで染みこんだ何かなのではないか。


そういうことに「私」は気づけるはずです。気づいているはずです。

「私」が「私」として生きていくうえで感じる壁を作っているのは、特定の人達ではなく社会全体であると。そう感じる出来事、これまでも何度もあったと思います。家族との問題だって、本質的には家族との問題というより社会との問題なのだと。

もちろん通夜に臨むにあたって、当初はエミの家族へ反発心を抱くのも自然だと思います。やはり特定の誰かへ反発心を向けるのが楽ですから。

しかしすぐに「私」は「いや、この人達だけに怒りを向けても仕方ない」と考えられたのではないかと思います。エミの家族だけがこの葬儀を作ったわけではないと、すぐに思い直せたはずです。確かに、エミの家族だけが原因ではないと考えるのは怒りと絶望のやり場がなくなって辛いでしょう。ただ怒りと絶望のやり場がなくなることに慣れる程度には、「私」が「私」として生きてきた年数は長いはずです。自身の性別を自覚したばかりの、目の前のものだけに怒りを発していた頃の「私」ではないはずです。

またそういった怒りと絶望を抱くのであろうと予想して通夜に臨み、予想通りの怒りと絶望を抱き、怒りと絶望のやり場をなくして冷静になり、予想ばかりしてエミの死を正面から悼めない自分に何らかの混乱を抱く。そんなほのかな自己嫌悪も含め、自身の生きづらさを抱く。こういう気持ち、何度目だろうと。



といった人物表現が「私」らしいとフィンディルは思います。そして本作はそういう領域の表現に踏みこみたがっている作品であるようにフィンディルは感じています。

しかしフィンディルの目にはそこまで踏みこめていないと思います。それは「私」がエミの家族という特定の人達のみに反発心を向ける、シンプルすぎる構図になっているからと考えます。“正しい人”“正しくない人”というシンプルすぎる構図になっている。

それは確かにわかりやすさはあるのですが、本作はそのわかりやすさを求めている作品ではないと思います。怒りと絶望のやり場を探すたびに虚しくなり、特定の人達の背後にそびえる社会とそこに生きる自分に恐怖と決意の入り混じった眼差しを向けるような表現が、本作には合っているとフィンディルは思います。本作の終盤は、そこを模索したような叙述になっていると思います。

エンタメ的な細かな叙述を整えるのも悪くはありませんが、まずは「『私』は何を考えるのか」「『私』で何が表現できるのか」「自分(ゆげさん)には何が表現できるのか」「小説というかたちで何を伝えられるのか」というのを深く突き詰めて作品で表現するのが大事と思います。

そういう表現ができるようになると、本作は“LGBTQを取り扱った作品”というパッケージだけでは消化されない“人と社会を描いた作品”になると思います。そこを目指されているのではとフィンディルは想像していますし、ゆげさんにはまだまだ表現できることがあると思います。


ということで、シンプルすぎるということで北に寄って、北北西という判断です。ただ、北西が目指されている方向だろうと予想します。

なおゆげさんが本感想を読んで「全くの的外れだ」と思われた場合は、一読者の解釈という処理をしてくださればと思います。

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